第29話出産、そして復讐のとき 二

 その日がやって来た。

 退院した私は清丸を抱き、あの女が入居している介護施設へと向かった。

 まず施設の職員が出迎え、清丸を温かい目で見てくれた。幸い、その人は子ども好きで、私生児か否かという概念を持っていなかったのだ。

 あの女の部屋へ案内されるまでの間、痴呆症を患っていない人やわずかに自我が残っている人とすれ違う度に皆、清丸の存在で笑顔になった。清丸はそれを知らず、すぅすぅと小さな寝息を立てている。

 目的の場所へ辿り着くと、清丸は私のことを理解しているかのように目が覚めた。

 あの女は部屋の奥で私たち見ていた。いよいよだ。

 「清丸、連れて来たよ。かわいいでしょ? もっと、ばあばの近くに行きたいって、清丸も言っているよ」

 「……良いのかい?」

 「もちろん」

 清丸名を借りて押し付けがましく言うと、女は遠慮がちに許可を求めた。

 私は弾みのある声で答えた。

 一歩近付くごとに清丸は無邪気に両腕を四方に振り「あー」と言語になっていない声を発した。

 「ほら、清丸。あなたのばあばですよ。、あなたの孫ですよ」

 清丸の顔を女の視点に合わせ、憎しみを込めて、初めて母と呼んだ。

 女は初孫に対して腕一本分の距離を保って見つめていたが、やがて顔を近付け始めた。

 か弱い存在を愛でるように。

 そのうち女の目から涙が流れ、まだ視力がはっきりしていない清丸は、醜い顔を受け入れるように両腕を前に伸ばした。それで良い。

 「ああ……ああ……ああ!」

 女が嗚咽おえつし始めたところで、清丸をさっと私の胸元に戻した。起用の腕は、いまだ宙を舞っている。

 「両腕を切りさえしなければ……清丸を抱くことができたのに。こうして、眺めるしかできないなんて!」

 「……これでようやく分かったでしょ? お父さんに両腕がなくて、どれだけ苦しんでいたのか」

 女はベッドの上で両膝を立て、そこに顔を伏せて嘆いた。

 「お父さんはね、お腹が空いてもトイレに行きたくても、ずっと我慢していた。それだけじゃない。昔、あんたに離婚届を投げ付けられても、お父さんは決して泣かなかった。それどころか、私のために自分の体の不自由さを悔やんでいた。私の涙を拭えないって。分かる? 両腕がないばかりにお父さんがどんな思いで舌を噛み切ったのか。分からないでしょうね、一生。だってあんたとお父さん、格が全然違うもの。お父さんは欲がなかったのよ、あんたと違って。いつも私を気にかけてくれた。あんたが富美子ババァどもと結託して狙っていた財産を私に遺してくれたの。本当は血の繋がらない他人だったのに、そこまでしてくれたのよ。あんたはお父さんのために何をしてあげられた? 何もしていないでしょう。私には? 男をコロコロと取り換えた挙句に、身勝手な理由で捨てたじゃない。私はあんたの過去も現在いまも憎い! 全部許さない!」

 私は自分の顔を清丸に見せないよう首を支えながら、女を見下した。

 「私はこのときのためだけに介護士になって、好きでもない男とセックスまでしたのよ。お父さんの無念を晴らさなければ……あんたを苦しめなければ、生まれ変わったこの子が可哀想なのだから。ちょっと、私の顔をちゃんと見てよ!」

 女は操縦されたように顔を上げ、ガタガタ体を震わせた。

 「ああ、秀さん……あたしが悪かっ……誠! 誠! まことぉー!」

 「良いザマね。見ていて笑いが止まらないわ。ははは、ははっ! ああ、清丸、泣かないの。ここは笑うところよ、お利口さんの清丸。ははははははっ!」

 私はようやく、心に潜むすべてに闇を吐き出した。

 「お父さん、私、まことよ。返事をして」

 私は生前の父を求めた。

 しかし高揚した声で何度も呼んだところで、私の目の前に映るのは、赤ん坊の清丸だった。女の無様な姿に驚いて泣くばかりで、私の名前を呼ばない。

 「どうして? お父さん。私はここにいるのよ?」

 決して、父は赤ん坊の中から目覚めることはなかった。

 私は、当たり前のことを失念していた。

 死人は、決して蘇らないことを。


 翌日、からになった心に新たに芽生えたのは、わが子を復讐の道具にしたことに対する後悔だった。

 愛しい、愛しい、田川清丸をーー。


 母親として、将来償うべき罪を覚悟した。

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