エピローグ 出発と銃声

「おはよう、母さん」


 ある晴れた日の早朝。

 木漏れ日を受け煌びやかに輝きながら、朝露が花びらの上をつうと伝っていく。一晩中降り続く雨に濡れた赤、黄、白、橙は、水の重さにも負けずに背筋を伸ばし、見る者を魅了しようと今日も競っている。花々は互いに切磋琢磨し、一つの芸術作品のように鮮やかなグラデーションを作っている。

 だが、彼らにとっては残念なことに、彼らの艶姿を知る者は一人しかいない。またその一人は、彼らがどれだけ可憐に咲き、あるいは協力して色香を高めようと、彼らに惚れることはない。その美しさを極限まで高めるべく、手を加えることは多々あるのだが。


 ライは森の中の静かな墓地で、手を合わせた。

 手製の花壇をぐるりと一周し、枯れる、折れる、あるいは野生動物に荒らされている形跡がないことを確認する。異常なし。

 ライは再び墓石の正面に戻ってくると、自分の運命の書を取り出した。

 慣れた手つきでぱらぱらとめくっていき、やがて目的のページに辿り着く。最初に運命の書を読んだ日から、何度も繰り返し開いたページを。


 そこに書かれていたのは、彼の運命。そして、彼の母親の運命の一部。


「今になって思えば、聞くまでもなかったか。俺の運命の書に書いてあるのに……母さんの運命の書に、書いてないはずないもんな」


 ライの母親は死ぬ。

 ライの嘘が原因で。


 ライ自身の運命の書によって、ライの母親の死は最初から予告されていた。


 想区の住人は原則として、自分の運命の書の内容に疑問を挟むことはない。全能のストーリーテラーによって定められた運命は、呪いのように想区の住人の一生を支配する。それがどれだけ理不尽な運命であろうとも。


「そっちに俺の声は届いてないかもしれないけど、今だから話すよ。……俺は母さんに嫌われようとした。母さんを嫌いになろうとしたんだ。いずれいなくなるって分かってたから。好きであればあるほど、失ったときの苦しみが大きくなるって、分かってたから」


 ライは母親が駄目だと言ったことは、殺し以外は何でもやった。何回でもやった。脱走やピッキングや銃の練習はほんの一部にすぎない。嘘吐きでイタズラ好きの運命を与えられたライの逃げ道は、そこにしかなかった。


 ライの運命の書には続きがあった。

 自分の嘘で母親が死んだことを、心の底から悔やむ。そして、その苦しみを乗り越えて、今度は正直に、誠実に生きることを誓う。


「……嫌いだ、なんて嘘ついてごめん。やっぱ俺、母さんのこと、好きだ」


 ずっと自分につき続けていた嘘を取り払う。

 途端、ライの目から、大粒の涙がぼろぼろと零れる。

 降り注いだ水の粒を受け止めた一輪の花が、その重さに思わず首をもたげる。

 しばしの間、未だ夢うつつな森の中に、ライの嗚咽の音だけが木霊した。


「う、うっ……苦しいよ、母さん。死ぬほど苦しい……胸が、張り裂けそうだよ……」


 母親が好きだから、好きで好きでたまらないから、苦しいのだ。嫌いだと嘘をつかなければ、狂いそうになるほど。

 こんな醜い運命なんていらなかった。ストーリーテラーから与えられた運命なんて、出来ることなら捨て去ってしまいたかった。同時に、どうあがいても運命の書の記述からは逃れられないことも分かっていた。


 だが。


「ぐすっ……でも、母さん。これが、俺の……運命なんだよな?、運命なんだよな?」


 想区において、運命とは、ストーリーテラーから与えられ、全うするもの。

 しかし、ストーリーテラーがライに与えた運命は、ライだけのものではない。少なくともライの運命は、母親と共に歩み、そして共に作るものだった。


「村中の大人達がどれだけ怒っても……母さんはっ、母さんだけは、笑って、許してくれた……ひぐっ……それって、母さんがただ優しいから、じゃないよな?……俺が、母さんのことを、嫌いにならないように、もっと、もっともっと好きになるように、っ……俺に、より大きな苦しみを味わわせて、それを乗り越えさせるために……あんなに優しくしたんだよな?」


 思い出を一つ引き出す度に、心が締め付けられ、つぶれそうになる。

 それはきっと、ライの母親が望んだ通りのライの姿だ。最期の時まで笑顔で貫き通した、頑強な信念が実を結んだのだ。背負う前から逃げ出したくなるほど重い枷を、ライの母親は一切の容赦なく我が子に科したのだ。


 それも、ある種の優しさだと言えるのかもしれない。


「無茶、言うよな……母さんのせいでっ、こんなに、っく……死にたくなるほど、苦しい思いをしてるのに……」


 苦しい。悲しい。寂しい。

 一年もの間、ずっと嘘の防壁に守られていた心は、あまりにも脆く、弱い。



 だからこそ、ライは前を向いた。


 これは、ストーリーテラーの為ではなく、母親の為に、これから彼が歩む運命の始まり。


「今すぐは、無理だ……でも、いつか必ず、乗り越えてみせるからっ……だから、母さん。それまで、俺のこと……見守っててくれ」


 瞳は赤く腫れ、涙はまだ止まらない。嗚咽交じりの声は掠れ、震えている。

 それでも彼は初めて、正直に、誠実に、自分の気持ちと向き合った。








 物語の構造は至ってシンプルだった。


 嘘吐きの少年が取り返しのつかない事故を起こし、反省して真っ当に生きる。


 簡潔に言えば一行でまとまってしまう。他の人物はほとんど外野のようなもので、そんな住人たちに情報を聞いても何も分かるはずがなかった。

 また普段は、例えばジャンヌの想区を戦争の最中に訪れたように、想区の中で何かが起こっている時に出くわすことが多い。が、今回は、一番の事件――嘘吐き少年が事故を起こした、その一年も後に訪れることになった。だから最後まで、この想区の物語が分からなかった。


「たまにはこういう事もあるわよね」


 森の中の別の場所で、レイナはひとりごちた。


「武器は人が握って初めて価値を持つのです。武器が勝手に動いて戦うわけじゃありません」


 シェインはカチャカチャと自分の獲物をいじりながら御託を並べる。


「だから、武器を扱う際には、正しい知識と冷静な思考、そして定期的なメンテナンスが必要なのです」


 カシャン!と部品が綺麗にはまる音がして、シェインはピカピカになった銃を天にかざして眺めた。瞳がキラキラと輝いて見えるのは、日光の反射のためだけではないだろう。

 ろくに銃の知識のないエクスが見ても明らかに違うと分かるのは、銃口を延長するように、細長いパーツがついていたこと。


「シェイン、もうそろそろ出発してもいい?いい加減待ちくたびれたわ」

「いいですよ。一発試し打ちしたら」


 シェインは一本の木に銃口を向けた。


「次の想区に移動してからじゃ駄目かな?ライが驚くよ。たぶん銃声が苦手なのは本当だろうし」

「ふっふっふ、それなら心配ご無用です。えいっ!」


 掛け声とともに引き金が引かれる。


 ぽすん。


 銃はエクスの予想に反し、小さく間の抜けた音を立てた。


「……あれ、大丈夫?もしかして壊れた?」

「では、あちらの木を見てください。しっかり弾丸が突き刺さってますよね?」

「あ、ほんとだ」


 シェインの言う通り、木には小さな穴が開いていた。貫通はしておらず、弾丸は木の内部で止まったらしい。音に気を取られ、跳弾の心配をまるでしていなかったことにエクスは後から気づいた。


「サウンドサプレッサー、別名サイレンサーは、発砲音を抑えるためのパーツなのです。音で位置がバレるという銃の大きなデメリットを軽減した画期的なパーツで――」

「はいはい、ちゃんと動いたならいいでしょ。ほら、ぼさっとしない!歩く歩く!」


 レイナはシェインの銃を持っていない方の手、即ち左手をひっつかみ、無理やり連行する。まだ話の途中ですよ、と喋り足りないシェインがじたばたする。

 このパターンも何度繰り返しただろう。そう思いながら、エクスは後ろから声をかける。


「レイナ、そっちに行くと村に戻っちゃうよ」

「えっ!?あ、いや、わ、分かってるわよ!何か忘れ物してないかなーって思っただけで――」

「あーっ!そういえば、ライさんの持ってたサバイバルナイフ買い忘れてました!姉御、行きましょう!珍しく方向合ってますよ!!」


 レイナの言い訳がシェインの余計な記憶を呼び覚ました。


「行かないわよ!あと珍しくは余計だから!」


 珍しいのは事実だろ、とタオは思ったが、今はそれよりシェインをたしなめるのが先だ。いつまでも同じ想区に留まっているわけにもいかない。こうしている間にも、また別の想区がカオステラーに侵されているかもしれないのだから。


「落ち着けシェイン、お前が店に入ったら、ナイフ買うついでに他の武器まで見るだろ?」

「当然です。武器マニアとしてしっかり良いモノを見極めなければ。もちろん良い出会いがあれば買います」

「その銃の部品とか買った時にあれほど長いこと店にいたよな?もう充分だろ?」

「それとこれとは別です。銃はしばらくメンテナンスもしてませんでしたし、次にいつ銃という概念のある想区に行けるかも分かりませんからね。剣、広義では刃物であれば、ヒーローが装備できるかもしれ――ハッ!?」


 シェインは急に背筋に寒気を感じ、反射的に身を翻した。


「はぁ……」


 エクスはこの想区に来てからちょうど十回目のため息を吐いた。

 シェインの背後に立っていたのはエクス。シェインはその笑顔の裏に、隠しきれないほど強く、どす黒い殺気を感じ取った。


「……シェイン?もう僕は待てないからね?」

「し、新入りさん?なんですかこの、キャラに似合わぬ邪悪なオーラは……!?」


 身の毛がよだつという言葉がシェインの脳裏に浮かぶ。”この”エクスは危険だ。根拠はないが、シェインの本能がそう告げている。


「タオ!案内しなさい!私はタオについていくわ!」

「了解!よし、エクス、シェイン、沈黙の霧まで走るぞ!はぐれるなよ!」


 既に一度このエクスを経験済みの二人は、あらかじめ打ち合わせでもしていたかのように意思疎通をこなす。


「ナイフ……いや、命には代えられません。メンテナンス用の綺麗なオイルは手に入りましたし、充分です。しかし、まさかここにきて新入りさんがサディスト属性に目覚めるとは」

「シェイン、早くしろ!死にたいのか!」

「あはは、大げさだなぁ。いくらなんでも殺しはしないよ。殺しは」

「なんでわざわざ二回言ったの!?」



 紆余曲折ありながらも、四人は慌ただしく森の中を走り、沈黙の霧――この想区の出口、あるいは他の想区の入り口へと辿り着く。

 はぐれないように互いに手を繋ぎながら、四人は『狼少年の想区』を後にした。

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シェインは銃に目がない―銃声が紡ぐ運命― 井戸 @GrumpyKitten

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