現代デジタル女子高生は、上品お嬢様喋りで生中継する

※)読者企画〈誰かに校閲・しっかりとした感想をもらいたい人向けコンテスト〉参加作品としてレビューします。

〈まず通常レビューとして〉
 とても現代的な青春物語だ。

 人付き合いが少しだけ苦手で、それ故にどことなしに孤独な女子高生――JKが、動画投稿サイトでの出会いをきっかけに「生放送」にのめり込んだり、「歌い手」に恋をしたり、友人を得たり失いかけたりする。まさに青春。『www.JK』というタイトルは、体を表す名前として、巧くハマっていると思う。

 王道展開ではあるが、ストーリーにちゃんと起承転結があり、ヒロインの成長――というのは大げさかもしれないが、変化も見せており、しっかり小説の形を作り上げている。その点では安心して読むことができた。

 文体に非常に特徴があり、これに戸惑う読者もいると思うが、“講談”調であると思うと案外悪くない。
 講談とは寄席で演じられる芸能のひとつで、落語と違い「釈台」と呼ばれる台を前に置き、扇子(張り扇/はりおうぎ)を叩き付けてリズムを作りながら語られる話芸である。
参考例:https://www.youtube.com/watch?v=5W5kRj_m5Zg

 評者自身も、書き手としてこのような講談調を狙って読点の少ない作品を書き上げたことがある。これは独特のリズム感やテンポを生み出せる手法なので、本作筆者が狙っていたかどうかは分からないが、一つの文体、スタイルとしてあり得る形だ。

 さらに文体で言えば、この作者の、妙に味わいのある体言止めは、磨けば書き手としての武器になってくれるだろう可能性を感じる。読む側としても、一度目にしておいていい、他にない味わいがある。いささか使いすぎな感もあるので、作者はポイント、使いどころを見極めてここぞというところでこの味を発揮していってもらいたいと思う。

 ★については、悩んで悩んで、大甘採点で「★★」とした。「★+」くらいの意味合いで付けたものである。
                                                                                                                                                            
〈以後本格的に〉

 まず文体。
 既述の通り、講談調の文体は良くも悪くも特徴的・印象的だった。ここから「悪くも」を取り除き、「良くも」を伸ばしていくことで、自分の独自性まで高めていけば、良い武器になると思う。

 悪い点としては、講談調であるのはいいのだが、その中で文章がリズミカルさをまだ持てていないということだ。こういう文体だと、読点の少なさのため、文章全体が同じ調子(リズム)で読まれてしまいがちだ。本作はそこへの対処がないため、多くの場合、地の文が無感情でリズム感が薄い。文末の工夫も必要だろう(だ、だった、である、る、といった終止・連用・連体形の使い分け)。
 語句が硬かったりするのも、まだ書き慣れを感じない部分だった。

 次に良い点として。
 評者が特に良さを感じたのは、「一部の」体言止め手法だ。
 それが特に出たのが『年相応な出で立ちとなり万全』という第2話のフレーズ。
 近い作用があったのは、直後の『道行く人々はこぞって複数』のようなケースだった。

 『年相応な出で立ちとなり万全』の『万全』が利いたのは、これが「語を省略することで出来上がっている体言止め」のように読めるからだ。ここには「この年齢の少女の外出着として万全のオシャレ」という意味が、文脈からして含まれていて、それを省略して省略して「万全」の一語だけで言い切った、という形になっている。
 通常、そこまで語句を削ってしまっては意味が通じなくなるものだが、この一文の場合、前後の文脈からして、主体の人物(ここでは美咲)の意志、目的が読者から推測できる。この環境がある場合には、大胆すぎる省略も、意味を失わずにいられるのだ。
 ギリギリ意味を含ませた上で、体言止めで言い切ることにより、力強いリズムが生まれた。この一文はそういう構造で「利いている」のだと思う。
 この「利き」があるため、『年相応な出で立ちとなり万全』は、説明文ではなく立派な描写として成立しているのだ。

 さらにこのケースでは、「万全」という一語が、さながら美咲がそう宣言しているような感覚があるため、「万全」から彼女の意志を感じ、印象を強めているところもある。たまたまかもしれないが、このように体言止めの「言い切る強さ」と、本人の意志とが係るようなタイミングを選んで使えるようになれば、文体としての強さを獲得できるだろう。


『道行く人々はこぞって複数』の場合、「複数」が言葉として弱かった。「万全」の場合、これは程度の問題を示しており、それが上出来であるという「価値」を含んだ語なのだが、「複数」は「単数」の対義語、単に類別を表す語に過ぎない。どちらかしかない場面で、どちらが良いとも言わない語なのだ。そうした「価値」がないため、この体言止めは、単に状況を説明する力しか持てずにいる。「万全」が描写となったことと、その点で違いがある。
 これが例えば「カップル」とかであれば、より細やかな類別になるので、また違った意味合いが生じるのだが。


 反面、効果がないか逆効果になっているのが、『改札を通過し雑多』という、これまた同じ場面からの引用部分だ。
 おそらくは改札を通過して人が多いところ、すなわち雑踏に入り込んだ、あるいは雑踏が待ち受けているという表現なのだろうが、――「雑多」には基本的に、数が多いという意味合いは薄い。これは多種類のものが混じり合っているという意味で、全体の数が多いかどうかまでは言及しない語なのだ。つまり語句のセレクト自体がまず間違えている。
 では「雑踏」で言い換えたらどうなるかというと、これまたおかしな感覚に陥る。
 なぜなら、改札を過ぎてもう雑踏になるような人通りのある駅であれば、改札内がすでにその状態であるはずだからだ。内外の差はさほど大きくはない。であれば、改めて「改札の外」を意識して雑踏と表現することは、正しくない。「万全」の場合と異なり、文が持たねばならない本来の意味を失っている状態なのだ。
 こうしたことで、この体言止め部分は技巧的な効果を発揮することが出来ないでいる。


 眺め渡すと、作者のような体言止めの使い方は、「文本来の意味合いを失わないこと」「単に状態を説明するのではなく、何かしらの価値を含むこと」辺りを必要条件として、使いどころを絞っていくようにすれば、読者の目を惹き付ける力ある表現として使えるのではないだろうか。


 長くなったので文体はこれまでにし、ストーリーについて。起承転結がしっかり組まれていることはすでに触れたが、実際にこれを構成するストーリーの要素、個々のエピソードが、とてもありきたりだったことは指摘しておきたい。

 孤独な少女、秘めた趣味、同好の士との出会いと友情の芽生え、恋の芽生えとそれによる友人との確執、思い人からの裏切りと危機、友による救出。こういう書き方で要素を並べてみると、定番だったり、使い古された要素ばかりだ。
 もちろん、その中身をアレンジすることで、現代の物語は構成されるものなのだが、本作の場合、中身の展開それ自体はかなりストレートなのだ。言い方を替えると、「予想の範疇」で終わるのだ。本作は、器こそ現代的な「Web動画」のコミュニティを題材にしているが、エピソード展開それ自体は、まったく新しくないオーソドックスなもので固められている。

 本作が習作だったとか、長さの制約があってどうしても……という苦渋の選択でなかったのなら、どこかしら一カ所でも、エピソード内容を定番からアレンジする工夫が見たかったと思うのである。新しい袋には、やはり新しい酒を注ぎたいと思ってしまうものなのだ。
 Webで小説を発表し、ただPVがあれば、ただ★が付けば良いのであれば、ここまでの工夫の意識は必要ないかもしれないが、もし、もう一段・二段とステップを上がっていきたいと願われるのであれば、そうしたところも考えてみて頂きたいと思う。


 さて最後に、キャラクターのこと。
 正直、どうして主人公と家族、友人が、あのお上品なお嬢様キャラ的に肉付けにされていたのか、よく分からない。
 ロシア語らしき語の多用(それ自体は別に良い)から、どことなく『ガルパン』でも意識しているのだろうかと思わないではなかったが、評者はその作品を見ていないので断定はしかねる。
 そのような人間が読んだ時、あのキャラクター性は、特に悪いと思うようなものでもなかったが、しかしなんらかの意味があったかと問われれば、それもまた「別に」としか言いようがないものだった。いや、小説全体の「作り物っぽさ」を格段にアップさせるという効果はあったと言えるかもしれない。
 なにしろ、ああした人物が実際に、現実的に、そうそういるとは思われない。であれば、戯画的な「作り物」である。リアリティはまったくない。
 本作はそうしたリアリティを必要とする作風ではなかったために悪影響はなかったが、違う作風やテーマを扱う際には、キャラクター性から感じられるリアリティというところに、いささか注意を向けてみていただきたいと思う。戯画的、漫画的な作品ではこうしたキャラクター造形は許容されるものだが、一般寄りになると、途端に読者の目は厳しくなるので。



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