第7話 おっかちゃん

○春 大黒屋 離れ、夫婦の部屋


  風邪を引いて布団に寝かされているりさ。

  その枕元に哲治郎が座っている。


哲治郎「なんとかは風邪はひかないもんだとばかり思ってた」

りさ「寝てられないよ。お見立てのご予約がたくさん……ああ! 阿津姉ちゃんの着物、届けに行かなきゃ!(跳ね起きる)」

哲治郎「配達なら俺が行く。寝てろ」


  りさを無理矢理寝かしつける哲治郎。


× × ×


○同日 午後 店の玄関先


  すでに開店している店内。

  手代達が客の相手をしている。

  草履を履く哲治郎に気付く龍之介。


龍之介「旦さん、どこいきますん」

哲治郎「ああ、龍。お得意様の配達だ、ついてこい」


  哲治郎は龍之介に風呂敷に包んだ荷物を持たせる。


哲治郎「お前も、うちの若旦那の地位を狙っているんなら、交渉やら営業やら、覚えておいた方が良いからな」

龍之介「へ、へえ」


  首をかしげる龍之介。


× × ×


○同日 北町奉行所 奉行邸宅


  布団に寝かされている北町奉行 澤山助右衛門さわやま すけえもん

  その枕元で座って看病をする、長女の阿津あつと、嫡男の忠直ただなお

  のあまりのそっくりぶりに、龍之介が驚く。

  自分の顔を無遠慮に眺め続ける龍之介に不快感を示す忠直。


忠直「俺の顔に何かついているのか?」

龍之介「いいえ、かんざしが足りまへんのや」


  思わず吹き出す、阿津と哲治郎。

  忠直が哲治郎を睨む。

  哲治郎が咳払いをしてから、忠直、助右衛門、阿津に向かって平伏する。


哲治郎「今日は、りさの代理で参りました」


  龍之介が落ち着かない様子で部屋の中を見回す。


哲治郎「龍、お前、お奉行様の前で頭が高い」


  哲治郎が、龍之介の頭をつかんで畳に押しつける。


阿津「まあ、良いではないの、まだ若い丁稚でしょうに」

哲治郎「いえ、これは丁稚でなく手代でございます」

阿津「あらまあ、そんな若さで手代だなんて、よほど潮五郎殿に見込まれたのね。(龍之介に顔を向ける)でも、大黒屋の手代なのでしたら、もう少しお行儀をお勉強なさい」


  阿津のお小言に、澤山、忠直、哲治郎の三人が同時に肩をすくめる。


忠直「(慌てて話をすり替える)テツジ、今日は何の用で参った」

哲治郎「ああ、はい、姉上様のお仕立て物を、りさからことづかって参りました」


  忠直の意図を理解した哲治郎が、こちらも慌てて仕立て上がったばかりの阿津の着物を広げてみせる。


澤山「……お前はまた……(阿津をにらむ)」


  阿津は父親の視線など無視して、濃紺の落ち着いた色合いの着物を眺める。


龍之介「奥方様は、こういう色がお好みですか?」

阿津「そうねえ。紺や深い緑の、落ち着いた色合いの着物が好きよ」

龍之介「派手なお顔やない。落ち着いた、凜となさったお顔ですから、濃紺のぐっと

    締まったお着物はようお似合いや。そやけど、お着物で派手さを出してやる

    のも、若返ってええですよ。撫子、珊瑚、青磁……俺やったら、奥方様には

    その辺の色をお勧めするわ」

哲治郎「こら、龍」

阿津「(笑って)おもしろい子ね。じゃあ、龍。次の正月のお着物は、お前に見立て

   ていただこうかしら」

澤山「阿津! 今年に入って何ふり目だ!」


お寺の鐘が夕刻を告げる。


阿津「(少々からかい気味に)あら、大黒屋さんの門限の時刻ですわ」

哲治郎「しからば、これにてごめんつかまつる」


  哲治郎、頭を下げる。


× × ×


○同日 夕刻 江戸大通り 甘味処黍屋の前


 大通りを先に歩く龍之介。

 ゆっくり歩く哲治郎。


龍之介「(溜息を吐く)ああ、怖いおばはんやった」

哲治郎「南町奉行、遠山銀四郎様の奥方で、阿津様とおっしゃる」

龍之介「(哲治郎を振り返り)隣におった兄ちゃん……あれ、りさの兄ちゃんやろ?」


  哲治郎は、なにも答えない。


龍之介「(うなだれて)俺もお父ちゃんとあれだけ似とったら、なんの疑いもせんと……今頃、大黒屋のお坊ちゃんやったんやろうなあ」

哲治郎「お前が大黒屋に来てから、もうすぐ四ヶ月よつきになるが……証拠とやらは、見つかりそうか」


  龍之介、大きく首を横に振る。


哲治郎「探しものが何かも分からねえっていうんじゃあ、一緒に探してやりようもねえしなあ……」

龍之介「(話をすり替える)あの兄ちゃんがりさのお兄ちゃんなら、あのおばちゃんはりさのお姉ちゃんか? お姉ちゃんって言うよりはお母ちゃんみたいやな。俺のおかんも生きとったらもうあれくらいかな」

哲治郎「お前も、母上を亡くしているのか」

龍之介「そやから、お父ちゃんを頼ってこっちに来たんやんか。おかんは、俺が十二の年に亡くなって……」


  小さな笑い声がして、哲治郎は居酒屋に視線を向ける。紅玉のかんざしで短い髪をまとめた女が、煙管をふかしながら哲治郎と龍之介を見つめている。


女「おや、まあ」


  居酒屋の軒先で一人、煙管をふかせる女のうなじに目をやる哲治郎。

  女の、抜きの大きな着物の襟足から覗く、白い顔の小さな般若。


哲治郎「変な女だ」


  哲治郎はまた、大黒屋に向かって歩き始める。

  龍之介が、女を極力見ないように、哲治郎を追いかける。


女「りゅーうーちゃん」


  龍之介が立ち止まる。


女「みーつけた」


  目を見開く龍之介。


哲治郎「どうしたんだ、龍」


  哲治郎が後ろを振り返ると、龍之介がひどく震えている。


龍之介「何でもない」


  龍之介が、大黒屋に向かって走り去る。

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