第25話 黒猫の亜蘭

 美蘭みらんがブレーキを踏んだ。

「この辺にするか」と周囲を見回し、「私有地につき駐車厳禁」という看板のある空き地に車を入れる。辺りに建ち並んでいるのは町工場ばかりだけれど、夜も十時を回るとほとんど明かりがついていない。二車線の直線道路は時おり思い出したように自家用車が走るだけで、あとは時間が止まったように静まり返っている。

 空は濁った色の雲に覆われ、地上に漂う靄は街灯を青白く滲ませている。美蘭がわざわざ天気に合わせてこの時間を選んだわけではないけれど、これからやろうとしている事には好都合だ。

 僕らは車の陰に隠れるようにして、時が経つのを待った。何台かの車が走り、一瞬の通り雨が地面をかすかに濡らした後で、美蘭はようやく「来る」と囁いた。

 僕は車を離れて車道に出ると、街灯がスポットライトのようにあたっている場所を選んで俯せに横たわる。

 冷たい路面から立ち上る、濡れたアスファルトの匂いを感じながら、地面を伝わる振動が徐々に近づくのを肌で捉える。きっとこの車だ。どうかちゃんと気づいてくれますように。或いは、うっかり轢くなら一気にやってくれますように。また病院送りになるような、中途半端な怪我だけはごめんだから。

 僕の願いが通じたのか、走ってきた車はやや急ブレーキではあったけれど、僕より少し距離をおいて止まった。ドアを開ける音がして、ためらいがちに近づく足音が聞こえる。

「やだ、死んでる、の?」

 女の人の声。彼女は一度立ち止まり、それから弧を描くように間合いを狭めると、上半身だけ少しのりだして、横たわっている僕を覗き込んだ。僕は細く目を開き、腕の隙間から声の主を確認する。あの、莉夢りむを預かっていた女、ルネさんだ。

 彼女が更に少し近づいたその時、背後から音もなく歩み寄った美蘭が、両手で彼女に目隠しした。

「ルネさん、後ろの正面誰だ?」

 そう呼びかけられた途端、彼女は硬直したように動かなくなった。美蘭はその耳元に唇を寄せると「これは雄の黒猫。名前は亜蘭あらん。とても弱ってるから、貴女はこの猫を連れて帰って飼うことにする」と囁いた。

「大丈夫よ、猫を飼うなんて少しも面倒じゃない。特にこの猫は自分で冷蔵庫から餌を取り出して食べるし、人間のトイレを使うほどのお利口さん。ただ、家の中を自由にうろつかせてやればそれでいい。時々勝手に出かけたりするけれど、心配しなくてもちゃんと帰ってくるわ。いい?この子は貴女に何か困った事が起きた時、どうすればいいかを教えてくれる、とても役に立つ猫だからね」

 静かに、淀みなく続く美蘭の言葉に、ルネさんはゆっくりと頷いた。

「それでいいわ。さあ、後ろの正面には誰もいませんでした」

 美蘭は目隠ししていた両手を離すと、現れた時と同じくらい密やかに闇の中へと身を翻した。ルネさんは何度か目をしばたくと、僕を見下ろして「猫だわ。はねられたのかしら」と呟いた。

 そこで僕は彼女を驚かさないようにそろそろと起き上がる。そして「ニャア」と鳴いてみせると、彼女は目を丸くした。

「お前、大丈夫なの?うちにおいで」

 お言葉に甘えて、僕はルネさんの運転していた水色の軽自動車の助手席に乗り込む。美蘭は闇に身を潜め、車が走り出すまでじっとこちらを見ていた。


「ふう、疲れたあ」

 ルネさんはマンションの鍵を開け、玄関にバッグを投げ出すと溜息をついた。僕は彼女の脇をすり抜けて先に上がり込み、中の間取りを見て回る。入ってすぐのところに小さな部屋があり、ここは段ボールが無造作に積まれたりして、物置のようになっている。その奥にあるのが彼女の寝室。ベッドにはコーディネートに落選したらしい服がまき散らしてあるけど、コミック類は全部本棚に収まっていて、美蘭のジャングル部屋に比べればずっと綺麗だ。

 寝室の向いにはトイレと風呂場、そして奥がカウンター付のキッチンとリビングという間取りだ。火事で半焼した家からはあまり荷物を持ち込まなかったみたいで、越してきて間がない事もあるのか、どこかよそよそしい雰囲気がある。

 僕がリビングのカーテンをかき分け、窓越しにベランダの外を覗いていると、ルネさんが入ってきて明かりをつけた。

「お腹空いてる?子猫じゃないけど、ミルク飲む?」

 僕は振り向くと「お構いなく」と答える。といっても、彼女の耳には猫の鳴き声にしか聞こえないはずだ。でも僕の言葉の意味はちゃんと伝わる。その証拠に彼女は、冷蔵庫から出した自分用の冷凍カルボナーラを電子レンジにセットして出ていった。

 スウェットパンツとパーカーに着替えて戻ってきたルネさんは、冷蔵庫から缶チューハイを取り出して、その場で少し飲んだ。それからキッチンのカウンターについた小さなテーブルに移動し、電子レンジから出したカルボナーラを食べ始めた。僕はその間、リビングにある二人がけのソファに寝転がって過ごす。コーヒーテーブルの上にはナンバークロスワードパズルの雑誌と通販カタログが何冊か。そして洗ってないマグカップが二つと、信用金庫のロゴが入ったボールペンが一本。

 ルネさんはカウンターに置いてあったリモコンでリビングにあるテレビのスイッチを入れた。一人暮らしにはちょっと大きすぎる感じだけれど、画面にニュースキャスターが映ると部屋に人が増えたように思えるから、それがいいのかもしれない。彼女はしばらくチャンネルを次々と変えていたけど、最後はトーク番組に落ち着いた。そして食べ終えたパスタの皿を流しにおくと、二本目の缶チューハイを手にして、僕のいるソファの方へとやってきた。

「ちょっと、そこどいてくれる?」

 もちろん部屋の主はルネさんなので、僕は黙って席を譲ると、床に置いてあったビーズクッションに腰をおろした。

「拾った猫のくせに、図々しいんだから」

 ルネさんはさっきまで僕がそうしていたみたいに、ソファに横になり、缶チューハイを飲む。それからボールペンを手に取ると、ナンバークロスワードパズルを解き始めた。そして時々思い出したように「お風呂入んなきゃ」と言うんだけれど、その言葉とは裏腹に眠り込んでしまった。

 僕は猫だから、彼女を起こすだとか、毛布をかけるだとか、そんな事はしないし、明かりを消すこともしない。ただちょっと冷蔵庫を覗き、缶チューハイの奥に隠れていたペリエを飲み、寝室に移動するとソファよりもずっと心地よいベッドにもぐりこんだ。


 翌朝、まだ外が薄暗いほどの時間に、ルネさんは「ああもう、またやっちゃった」と不機嫌そうな声で寝室のドアを開けた。ベッドにいる僕には構いもせずに、クローゼットから着替えを取り出し、また出て行く。僕は目を閉じて眠りなおすけれど、風呂場からは水音が聞こえてくる。ややあって、こんどはドライヤーを使う音なんかがして、それから彼女はまた戻ってくる。ショーツにTシャツだけという格好だけど、美蘭も普段から似たような姿でうろついているから驚きもしない。まあ、美蘭の体型が板状だとすると、ルネさんは筒に近いという違いはあるけど。

 彼女はどれも似た感じの、地味な色あいのカットソーやニットにとっかえひっかえ袖を通し、結局昨夜とそう変わらない印象のアンサンブルと膝下丈のフレアスカートという選択をして、また部屋を出ていった。そこで僕もようやく起き出してゆくと、キッチンからはコーヒーのいい匂いがしてくる。カートリッジ式のマシンで淹れる奴だ。これは後から飲ませてもらおうと思いながら、僕はまたソファに居座る。

 ルネさんは冷蔵庫を覗きながら、「ペリエ、あと一本あった筈なのに」とか言っていたけど、諦めたらしくて、カウンターに置いてあったシリアルバーの箱から一本取り出して齧り始めた。

「ねえ、亜蘭、朝ごはんいらないの?」

 名前を呼ばれて、僕はキッチンの方を向く。「お構いなく」と返事すると、彼女は「ほんと、この猫って手がかからない」と納得したように言って、そばにあった鏡を引き寄せるとメイクを始めた。

 ルネさんが家を出たのは六時五十分で、これが勤め人として早いのか遅いのか僕には判らない。もちろん僕はそのまま起きるなんて馬鹿な真似はせず、またベッドに入った。ルネさんは着飾るよりも身体のメンテナンスにお金をかけるタイプらしくて、このベッドは馬鹿みたいに寝心地がいいのだ。なのに彼女は何が嬉しくて酔っぱらってソファなんかで寝てしまうんだか。まあ、僕には関係のない事だけど。


 次に目を開くと、枕元にある時計は十二時を回っていた。さすがの僕も、もう眠りは堪能し尽くしたのでベッドを抜け出し、キッチンに行くと冷蔵庫を開けて、ペットボトルの水を飲んだ。それから冷凍庫をあさり、サーモンと生クリームのフェトチーネを取り出して電子レンジにかけた。他にもカレー、ビーフシチュー、ペスカトーレにラザニアと選択肢は豊富で、しかもいちいち有名シェフ監修だったりして、コンビニには並んでなさそうな高級感のあるものばかり。どうやらルネさんは食べ物にもお金をかけるタイプらしい。でも食材そのものはほとんどないから、料理はあんまりしないようだ。

 冷凍フェトチーネは予想に違わず、なかなかの味だった。僕はそれから例のマシンでコーヒーを淹れてみたけど、これもいい加減な店より遥かにおいしい。勢いあまって二杯めを飲んでから、僕はこの部屋をもう少し探ってみることにした。もちろん猫が皿洗いなんかしたら異常事態だから、食べ終わった食器やなんかは、ルネさんが朝残して行ったコーヒーカップと一緒に流しに突っ込んでおく。

 僕が最初に目をつけたのは、テレビ台に置いてあるノートパソコンだった。一人暮らしの油断というべきか、起動した時のパスワードも設定してないので、ファイルや何かは全部見られるし、ネットで利用しているサイトに至ってはログインの入力内容をを全て保存しているから、大した手間もなしに履歴をたどることができる。

 通販は何種類も利用してるし、海外ドラマのネット配信や占いのサイトも頻繁に使ってる。クレジットカードは三種類持ってるけど、ふだん使ってるのは一つだけ。銀行口座はメガバンクが一つとネット銀行。給料はメガバンクの方に振り込まれていて、賞与も年に二回入ってるけど、うちの学校の生徒がもらってるお年玉と大差ない額だ。

 実際のところ、ルネさんのちょっとした贅沢を叶えてるのはネット銀行の口座らしい。ここには給料ほどではないにせよ、コンスタントな入金があって、振込人名義から察するに、動画サイトらしい。入金額には波があるというか、最近目に見えて減っているのは、莉夢がいなくなったせいだろう。

 そして僕は少し考える。大体のところは判ったから、あとは他の部屋を見て回ろうか。でもやっぱりうろつくのが面倒になって、そのままルネさんが配信している動画のアカウントに潜り込んだ。

 彼女が莉夢の動画をサイトに上げ始めたのは半年近く前だ。最初はけっこうまともというか、莉夢に可愛いドレスを着せてシャボン玉を吹かせたり、公園でボートに乗せたりしている。でもそれに対するコメントの中に、もっと短いスカートがいいとか、水着姿も見たいといったリクエストが現れたのに呼応するように、動画の内容は変質しはじめる。わざと下着が見えるような角度で座らせたり、お風呂上りの彼女との追いかけっこを装ってバスタオルを引っ張ったり。

 そういう演出が始まるとアクセス数は目に見えて増え始め、反比例するように莉夢の顔からは表情が消えてゆく。そしてうつろな目をした彼女は家の中に閉じこもったまま、水着姿で床に四つん這いになって食事をすることになる。動画のファンたちは熱心に彼女の愛らしさを称賛するコメントを寄せ、次はこれを食べてほしいとリクエストを出してきた。まあ大体は何かを連想させる形状の品物で、ルネさんはかなり忠実にその要望に応えていた。

 冷静に見ると、ルネさんという人はかなり真面目に仕事をこなすタイプらしい。だから会社勤めもずっと続いてるんだろう。でも彼女は莉夢のことを道具、あるいは使い勝手のいい人形ぐらいにしか思っていない。自分以外にひどく冷たいという点では、僕と美蘭の母親も負けてはいない。でも僕らはこういう搾取はされなかった。まあ、試みたところで、美蘭が黙って耐え忍ぶはずもないんだけど。そういう点では莉夢は運が悪いとしか言いようがない。

 ルネさんがアップした動画を次々と覗き見するうちに、僕は男に生まれた自分の、どうしようもなさみたいなものに気づき始めていた。ひとことで言うなら業が深いって事だろうか。醜くねじくれたものに対する嫌悪の向こう側に、何か自分を昂らせるものが透けているのが判るのに、それは僕のせいじゃない、というふりをしながら目をこらしている。

 僕はかなりの努力をしてノートパソコンをシャットダウンすると、元の場所に戻した。それからもう一杯コーヒーを淹れたら、買い置きのカートリッジはなくなってしまった。でも猫はそんな事を気に病んだりしない。僕はカップを手にしたまま、ベランダに出てみた。

 五階建てマンションの三階とはいえ、周囲も似たような高さの建物がひしめきあって、開放感のない眺め。人の姿はなくて、郵便配達のバイクが狭い路地を行ったり来たりしているだけだ。午後の空は鉛色の雲に覆われていて、太陽がどこにあるかも定かではない。風は冷たくて、季節が足早に冬へと移り変わっているのを教えてくれる。

 今頃学校では何をしてるだろう。ふだんさぼりまくってるのに、こんな時に限って気晴らしに行ってみたくなる。別に誰に会いたいってわけでもないけど、ちょっと話でもして、教室で昼寝して、目が覚めたら外でも眺めて。ここからだとけっこう遠いし、一限目には間に合わないだろうけど、明日はとりあえず行ってみようか。

 殊勝にもそう考えたんだけれど、僕の思いつきは実行されることはなかった。夜遅くにルネさんが莉夢を連れて帰ってきたから。

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