第26話 子供って不自由

 ルネさんが莉夢りむを連れ帰ったことを伝えても、美蘭みらんからは「後はよろしく」というそっけない返事しかなかった。まあ確かに、なるようにしかならない。決めるのは僕じゃないんだから。そう達観してソファに寝そべり、テレビを見ていると、廊下を歩くルネさんの足音が近づいてくる。

「やだ、私ったらテレビ点けっぱなしにしてたんだ」

 そう言って彼女はショートコートをソファの背にかけ、俯きがちに後をついてきた莉夢に向かって「ほら、猫拾ったのよ。亜蘭あらんって名前なの。莉夢ちゃん猫好きでしょう?前のお家の時も、お散歩猫と遊んでたものね」と話しかけた。

 猫、と聞いて莉夢はようやく顔を上げた、そして僕と目が合うと一瞬息を呑み、「亜蘭」とかすれた声を出した。何度か見たことのあるピンクのパーカーに、小さな星がプリントされた水色のレギンスをはいて、背中にはいつものリュックサック。

「そうよ。すごく大人しい猫なの。私、ちょっと莉夢ちゃんのお部屋の準備してくるから、さっき買ったパンでも食べてて」

 ルネさんはローテーブルにコンビニの袋をおいて、玄関脇の小部屋に姿を消した。今回はあそこが莉夢の部屋になるらしい。僕はコンビニの袋を手にとると中をのぞいた。チョココルネとレモンドーナツと牛乳。いらないなら貰おうと思って「食べないの?」と声をかけてみると、莉夢は「ここで何してるの?」と質問で返してきた。

「何も。ルネさんにとって僕は猫だし、猫は何もしない。で、これ食べないの?」

「ドーナツと牛乳だけ食べる。これは、あげる」と言って、莉夢はチョココルネを差し出してきた。ちょっと強引だったかなと思いながら、僕はありがたく頂戴する。こしのないパン生地と、ぼやけた甘さのチョコレートクリーム。莉夢はリュックを下ろすと、ソファの隅っこに腰掛けて、ゆっくりとドーナツをかじった。

「美蘭はいないの?」

「残念ながら、ここにいるのは僕だけ」

「美蘭に電話して。お話がしたいの」

「猫は電話をかけない」

 僕はチョココルネの入っていた袋を丸めて捨てると、リモコンでテレビのチャンネルを替えた。莉夢は粘土でも呑み込むようにしてドーナツを食べ終え、牛乳を飲むと、何も言わずにニュースの流れている画面を見つめた。廊下の向こうからは重い物を動かしたり、ぶつけたりするような音が何度か聞こえ、しばらくして「莉夢ちゃん!」という声が響いた。

 名を呼ばれて彼女はびくりとしたけれど、すぐには動かず、リュックを膝の上に抱えてじっとしていた。ややあって、更に大きく鋭い「莉夢ちゃん!」が聞こえると、ようやく立ち上がり、のろのろと歩いてゆく。僕はチョココルネを食べたのは間違いだったと思いながら、舌に残ったクリームの変な甘さを流すためにキッチンでコーヒーを捜す。でもよく考えたらルネさんがいない間に自分で全部飲んでしまったわけで、仕方ないから近所のコンビニに行くことにした。


 昼間にベランダから近くの様子を見ていたので、コンビニのありそうな方向は見当がついたし、実際それは当たっていた。歩いて五分のほどのところにバス停があり、そのすぐ近くに首都圏でだけ展開している弱小チェーンのコンビニがあった。それでも定番のコーヒーマシンはちゃんと置いてあって、僕は深煎りヨーロピアンブレンドというのを選ぶ。

 コーヒーの入ったカップを持ったまましばらく近所を歩き回り、明かりの消えた薬局の店先にあるベンチでゆっくりと飲んでから、僕はマンションに引き返した。玄関を開けると、かすかに暖かい空気が漂ってきて、どうやらルネさんは入浴しているらしかった。莉夢が履いてきたはずの靴はどこかに隠されていて、ルネさんのパンプスだけが揃えてある。

 僕は玄関脇にある部屋のドアをノックして「いる?」と声をかけた。

 返事の代わりに、細くドアが開く。最初に目に入ったのは折り畳み式のベッドで、ルネさんはどうやらこれを用意するのに苦戦していたらしい。部屋にあった他の段ボールや何かは壁際に寄せてあるけど、今にも崩れそうなほど適当に積んである。

「ここが君の部屋?」と尋ねながら僕は中に入り、莉夢の姿を探した。彼女はドアの裏側にいたけれど、さっきまでのパーカーに代わって、紺色のスクール水着を着ていた。当然だけど僕に見られたくないらしくて、マントみたいに羽織った毛布をひきずっている。

 僕は何と言っていいか判らず、とりあえず折り畳みベッドの座り心地を確かめてみる。薄い敷布団は大して役に立ってなくて、鉄パイプの違和感がじかに伝わってくる。ふだんならまだしも、自転車事故のダメージが残ってる身体には不快極まりない。莉夢はいぶかしげにこっちを見ていたけど、ようやく話しかけてきた。

「亜蘭はどうしてここにいるの?何もしてはいないけど、理由はあるんでしょ?」

「そうだね」

 僕は少しでも座り心地のいい場所を求めて、身体の位置を変える。

「ここでの僕は猫だから何もしない。でも君のことは見てる。そして何があったかを、美蘭に教える。ねえ、もう一度逃げ出す気はある?」

 莉夢は毛布にくるまったまま、眼を伏せて首を振った。

「きっとまた同じことになる。ママが色々と忙しくて大変だから、ルネさんは親切で莉夢を預かってくれてる。なのに、莉夢が勝手に逃げ出したりたせいで、ルネさんは何も悪いことしてないのに警察に呼ばれたりして、すごく迷惑したって。ママは莉夢がいい子じゃないから、とても悲しくて、眠れなくなったって。何度も何度も言われた」

「なるほど。じゃあこれからはどうするつもり?」

 僕の残酷な質問に、莉夢はしばら黙っていた。答えが見つからない、というよりは、形になっていないものをどうにかまとめようとしているみたいに。それからようやく、かすれた声で答える。

「美蘭は、大きくなるまで我慢し続けるのも、一つの方法かもねって言った。莉夢もそうしてみようかと思ったけど、やっぱり無理かもしれない」

「子供ってのは何かと不自由だね。一人じゃ生きてけないし」

「莉夢も、猫になりたい」

 僕はあえて何も答えなかった。時には夢物語も必要だろうけど、それだけじゃ物事はどうにもならないから。


 翌日は土曜で、ルネさんはさっそく動画の配信を再開しようとした。部屋にいる莉夢に水だけを与えておいて、自分はメープルシロップをかけたパンケーキと、ラズベリーソースを山盛りにしたギリシャヨーグルトのブランチを楽しむ。それから部屋の掃除をして、洗濯物を干し、DVDを見ながらヨガのレッスンを一時間ほどやった後で、リビングの床にレジャーシートを敷き、カメラを三か所にセットした。パソコンのモニターで映り具合を確認してから、こんどはキッチンへ行き、冷凍庫から「特濃チーズのえびグラタン」を選び出すと電子レンジにセットする。

 彼女が一連の作業に没頭している間、僕はずっとソファに寝そべっていた。朝食はルネさんが買い置きしているシリアルバーを頂戴し、コーヒーが切れてるので、飲み物は箱買いしてある「健康三十品目野菜ジュース」で我慢だ。

 グラタンができるまでの間に、ルネさんはペット用のボウルを二つ、レジャーシートの上に置いた。一つには水を入れ、もう一つにはパック入りの豆サラダをあける。それから温まったグラタンをその真ん中に置くと、カウンターにもたれてスマホをさわり始めた。溶けたチーズの匂いは僕のいるところまで漂ってきて、こっちも何かちゃんとしたものが食べたくなる。

 五分ほどしてから、ルネさんはグラタンの温度を確かめ、「莉夢ちゃん!ごはんできたよ」と呼びかけた。返事もなければ、ドアが開く気配もなく、彼女は「もう!」と小さく呟くと、スリッパの足音をわざとらしく響かせながら莉夢の部屋に向かった。

 グラタンが適温を通り越して冷めてしまう頃に、莉夢はようやくルネさんの後についてリビングに入ってきた。しかし床に並んだ食事の支度を見ると瞬時に表情を強張らせ、「やっぱり、いらない」と言った。

「何言ってるの、前からうちではずっとそうしてたでしょ?それがお約束なの。莉夢ちゃんのママも判ってるんだから」

 声を荒げるほどではなかったけど、ルネさんは明らかに不機嫌そうだ。

「でも、いらない。ちゃんと座って、テーブルで食べたいの」

「それは無理って言ってるの。莉夢ちゃん、前はいい子だったのに、すごくわがままになったね。私すごくがっかりしちゃった。傷ついちゃったよ。どうして判ってくれないの?」

 ルネさんは被害者になるのが上手なタイプらしい。大きな溜息をついてみせると、「せっかく莉夢ちゃんのために用意したのに、悲しいな」と言いながら、サラダとグラタンをこれ見よがしにゴミ箱に捨てた。更にその上から、流しに溜まっていた生ゴミも放り込む。これで、後からゴミ箱をあさるという選択も難しくなったわけだ。

「もういいよ、好きにしたらいいわ。でもあげられるのはお水しかないからね」

 その言葉に莉夢は何も返さず、のろのろとした足取りで自分の部屋に引き返して行った。ドアの閉まる音が聞こえると、ルネさんは「あーあ」と声をあげ、「あの子、だんだん母親似てきた感じ。依怙地なとこなんかそっくり」と心底嫌そうに呟いた。

 それからルネさんはソファにいる僕を追い払うと、録画してあった海外ドラマを見始めた。仕方ないので僕はコーヒーを飲むために出かけたけれど、莉夢の部屋をのぞく勇気はなかった。


 また昨日のコンビニでコーヒーを買って、僕はあてもなく近所をうろついてみた。空は曇りがちで、時々薄日がさす程度。この辺りはみんなが好き放題に土地を売って集合住宅を建てたという雰囲気で、曲がりくねった細い道が、迷路みたいに入り組んでいたり、いきなり途切れたりしている。しばらく歩き続けると、砂場と鉄棒しかない小さな公園があったので、ベンチに腰掛けて、ぬるくなったコーヒーの残りを飲み干す。

 誰にだってそうだけど、飲み食いさせてもらえないのは子供には特にこたえる。僕と美蘭の母親も、僕らを痛めつけるのに一番効果的な方法だと判っていて、しょっちゅうそんな真似をしていた。でも、食べ物がないのはかなり長時間でもしのげる。辛いのは何も飲めない場合だ。特に夏場やなんかは気が変になりそうな時がある。

 でもまあ、美蘭と一緒にいればたいていは何とかなった。彼女は監禁されても何とか脱走して、どこかから口に入れるものを調達してきた。たとえそれがドッグフードでも文句は言えない。ただ、何度も繰り返すうちに、母親も美蘭の狡猾さに気がついて、僕らを分断するという手を選んだ。

 今でもそう変わらないけれど、小さい頃の僕は本当にぼんやりしていて、自分一人ではふつうに生活するのも覚束ないほどだった。だから食べ物や飲み物を自力で調達するなんて全く無理な話で、クローゼットに半日閉じ込められただけですぐにへばってしまった。そして、何の疑いもなしに、母親が差し出した、毒物入りのミルクを一気に飲み干してしまったのだ。

 あの時、美蘭はベランダに締め出しを食らっていた。夏の暑い午後だったけれど、彼女はエアコンの室外機から浸みだす水滴を舐めてしのぎ、母親から受け取った毒入りミルクは全部排水口に流した。

 その後の事はもう思い出したくもない。僕は長い間病院に閉じ込められて、退院できた頃には季節は秋に変わっていた。それからも僕らは預かり手の見つからない時には母親のところに送り込まれ、色んな事に脅かされながら過ごしてきた。母親と全く会わずに済むようになったのは、中学校に上がってからだ。

 

 すっかり日が暮れてからルネさんのマンションに戻ると、ドアを開けるなりカレーの匂いが漂ってきて、それはもちろん莉夢の部屋にも流れ込んでいるはずだった。ルネさんはまだ海外ドラマの録画を見ていて、キッチンの小さい鍋には封を切ったレトルトパックのカレーが湯煎されたままになっている。彼女は先に食べてしまったらしくて、流しには空になったカレーのパウチと、炊きたてごはんパックの容器と、汚れた食器が放り込んである。

 ルネさんは僕に気づくと「お散歩してたの?何か食べる?」と声をかけてきた。「お構いなく」と答えると、「本当にこの猫って、手がかからない」と呆れたように言った。テーブルにはチューハイの缶が三本と、ポテトチップスの空き袋がのっている。僕のいない間に宅配便が届いたらしくて、部屋の隅には段ボールがいくつか積んであった。

 何が届いたんだろうと開けてみると、「料亭の味 和惣菜シリーズ」、「至高のパスタソース」、「美と健康計画 食彩サラダ」といった食べ物ばかりだ。

「亜蘭、いたずらしちゃ駄目よ」

 ルネさんはまだ酔いが残ってる感じで、大あくびをすると立ち上がり、莉夢の部屋へと向かった。僕はその間に湯煎されているカレーのパウチを覗いてみる。中にはビーフの塊がごろごろしていて、即座に呑み込みたい衝動に駆られたけれど、何とか我慢して冷蔵庫の水を飲んだ。

 朝よりもずっと長い間、ルネさんは莉夢の部屋にいて、結局一人で戻ってきた。それからレンジの火を止めると、蛇口から勢いよく水を出して、カレーを全部流してしまった。食器も洗い、ゴミも全部片づけると、忌々しげに「可愛げのない子!」と唸り、バスルームに消えた。

 僕は莉夢のところへ行き、ドアをノックしてから細く開いてみた。彼女はこちらに背を向け、毛布にくるまり横になっている。かける言葉なんて思いつくはずもないので、そのままドアを閉め、ルネさんの寝室に入るとベッドに潜りこんだ。

 

 翌日の日曜、やっぱりソファで眠っていたルネさんは、昼前にようやく目を覚ました。それから大急ぎでシャワーを浴び、野菜ジュースだけ飲むと綺麗に身支度を整えた。それから莉夢の部屋を覗くと、ペットボトルの水だけ放り込んでドアを閉め、リビングとキッチンに通じるドアには南京錠をかけてしまった。どうやら昨日のうちに自分で取り付けたらしい。

 小学生の工作みたいに不器用なやり方ではあったけれど、南京錠は役割を十分に果たしていて、莉夢は彼女の不在に乗じて食糧をあさることができない。反対に玄関の方はまるっきり無防備で、逃げられるはずがないとふんでいるらしい。そしてルネさんは廊下に立っている僕には構いもせず、バッグを肩にかけると玄関を出て鍵をかけた。

 僕は少しだけ間をおいてから、ルネさんの後をつけてみた。猫だからもちろん、戸締りなんかしない。彼女は車を使わず、バスと私鉄を乗り継いで都心に出ると、外資系のホテルに入っていった。

 ロビーには同い年くらいの女性が二人待っていて、彼女たちは「元気だった?」「変わらないわね」などと華やいだ声をあげながら、「秋の収穫祭ランチバイキング」というプレートの出ているレストランへ入っていった。このバイキングは時間制限がない代わりに、けっこうな料金が設定されていて、たぶん彼女たちはディナーのサービスが始まる頃まで居座るだろうから、僕はそのまま引き返すことにした。


 マンションの近くまで戻ってくると、赤い首輪をつけたキジ猫がブロック塀の上で日向ぼっこをしていた。こうして自由に外出させているんだから、少しぐらい拝借しても差し支えないだろうと思って、僕はそいつを連れて帰った。人間でいえばおじさんという年頃のがっちりした雄猫で、かなり呑気な性格らしく、知らないマンションに連れ込まれても平然としている。

 僕は莉夢の部屋のドアをノックして入ると、「おみやげ」とキジ猫を毛布の上にのせた。突然の生き物の感触に驚いたのか、莉夢は慌てて起き上がると、びっくりして跳びのいたキジ猫に目を丸くした。

「猫ちゃんだ。これ、どうしたの?」

「外にいたから、連れてきただけ」

 僕は床に降りたキジ猫を抱き上げると、莉夢の傍に座らせた。彼女は相変わらず水着しか着ていなくて、毛布を器用に羽織ってからキジ猫を膝にのせる。髪は寝乱れ、唇は荒れていて、眼の下には隈があった。

 莉夢はしばらく黙ってキジ猫を抱いていたけれど、やがて思い切ったように「もういい」と言った。

「もうお家に帰ってもらって」

 あまりにも彼女がきっぱりと宣言するので、僕はそのままキジ猫を受け取り、玄関から外へと逃がした。それからまた莉夢の部屋に戻ると、彼女はリュックサックをベッドの上に置き、中からあの、竹で編んだ小さな籠を取り出していた。

「亜蘭、私もう決めた。これを使うことにする」

「でも…」

「いいの、ちゃんと判ってる。これを使ったらすごく遠いところに行くから、もうママにも、大輝にも、ばあちゃんや、かっちゃんにも会えないって。でも、もういい。いっぱい考えて、そう決めた」

 それだけ言うと、莉夢は籠をゆっくりと開けた。中からスズメバチが一匹顔をのぞかせ、外へと這い出してくる。レーダーのように触覚を動かし、複眼を光らせて、自分の役割をいつ果たそうかと思案しているように見える。莉夢は息を殺してその昆虫が掌に移るのを待った。そして空になった籠をリュックに入れると、もう片方の手でスズメバチを覆い、眼を閉じてその両手に力をこめた。

 一瞬、彼女の全身がぴくりと動き、次の瞬間には全ての力を失ってベッドの上に崩れ落ちた。彼女の手から零れ出たスズメバチは、扇のように広がった黒い髪の上を歩き回っていたけれど、やがて羽を広げて飛び立った。僕は格子のはまった窓を細く開け、そいつが主のもとへ行けるよう手助けをしてやった。






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