第24話 君の守護天使

 自分の車なのに、久しぶりに座る助手席は窮屈だと思いながら、僕はシートを下げた。美蘭みらんはハンドルに両手をおいて前を見たまま、「呆れた」と溜息まじりに言った。

「あんたってさ、リード引きちぎって逃げて、人骨くわえて戻ってくる犬みたい」

「それ、誉めてるのか、けなしてるのかどっち?」

「どっちでもない、客観的なコメント。病院から脱走したと思ったら、亮輔りょうすけさんみつけたっていうし、本当に理解不能」

「仕方ないよ。僕だって予想してなかったんだから」

 僕は数時間前の、亮輔さんとの再会を思い出していた。病院のそばで追いついて、それから一緒に地下鉄に乗ったのだ。通勤帰りとは逆方向なので車内は空いていて、僕らは並んで座ることができた。向かいの窓に映る頭の高さはそう変わらなくて、僕は亮輔さんの背中に登って遊んだ記憶が急に遠ざかったような気がした。

「君はいま、高校だね?ずっと博倫館に通ってる?」

「高三だよ。でも博倫館は寮が嫌だから、高校から有隣館にかわった」

「なるほど。だから東京にいるんだ」

桜丸さくらまるも東京にいるよ。大学に行ってる」

 そうやって僕が桜丸の話をするたびに、亮輔さんの顔に困ったような表情が浮かんだ。何年も連絡とってないし、やっぱり気まずいんだろうか。

「ねえ、桜丸はずっと亮輔さんのこと探してるよ。一緒に住みたいってさ。青龍軒ってラーメン屋でバイトしてるから、会いにいくといいよ」

 僕がそう言うと、彼は「うん」とかって頷くんだけど、青龍軒の場所を尋ねたりはしない。「桜丸の携帯の番号教えようか」と言っても、「今ちょっと、人のを使わせてもらってるから」としか言わない。こうなると「桜丸にはもう会わないって決めたの?」と確かめるしかない。

 僕だってわざわざそんな事ききたくなかったけど、亮輔さんはもっと困ったんだろう。もし煙草を吸う人だったら、とりあえず火をつけて、最初の一息を長々と吐き出すほどの間をあけてから、彼は「父親失格だからな」と呟いた。

「別に失格してないと思うよ。桜丸も全然そんな事言ってないし」

「自分でそう思うのさ。俺はあの子に、償いようのない事をした。会うならせめてもう少し、ちゃんとしてからにしたい」

「今だって、ちゃんとしてるよ」

亜蘭あらん、父親ってのはすごく見栄っ張りな生き物なんだ。武士の情けで、俺のことは見逃してくれないか?」

 そう言われると、父親という物をよく知らない僕は納得せざるを得ない。

「わかった」とは答えたけど、桜丸はともかく、美蘭には言うつもり。

「でも、大体どれくらい待ったら、ちゃんとする予定なの?」

「そうだな、できるだけ早く、かな」

「可及的速やかにって奴だね」

「その通り」と亮輔さんが深く頷いたところで、地下鉄は目的地に着いた。僕はそのまま彼について、長距離バスの乗り場に行ったけれど、行く先はやはり福島だった。

「向こうで何の仕事してるの?」

「その時々で変わるけど、基本的に除染作業だな」

「大変じゃない?」

「そうだな、楽じゃない。でも何ていうか、少しだけ気が楽になるんだ。失われたものを元に戻してるような感じがしてね。でもそれは気休めかもしれない。俺が駄目にしたものは、もう帰ってこないんだから」

 僕は亮輔さんの言うことがあまりよく判らなかった。これだから美蘭に馬鹿呼ばわりされるんだけど、仕方ない。彼も僕がぽかんとしてるのに呆れたのか、「相変わらず、君は猫みたいな顔で人の話を聞いてくれるな」と笑った。そして「会えて嬉しかったよ。車には気をつけて帰るんだぞ」と言った。

 僕はといえば、色んな気持ちが入り混じって結局何も言えず、バスに乗る亮輔さんの背中をただ見送るしかなかった。


「で?ちゃんととってある?」

 美蘭はまだ車を出さず、後ろのシートに置いていたショルダーバッグを手繰り寄せる。僕はスマホの液晶保護フィルムにはさんでおいた亮輔さんの髪をつまんで、差し出した。

「白髪じゃん。そんなにロマンスグレーのおじさまになってた?」

「そこまでじゃない。黒っぽい服着てて、見つけやすかったから」

「まあ、五十近くなれば白髪もあるか」と自分に言い聞かせるみたいにして、美蘭はショルダーバッグから掌にのるほどの竹籠を取り出し、そっと開いた。中からスズメバチが一匹顔をのぞかせ、彼女は僕から受け取った亮輔さんの髪をその大きな顎へと差し入れる。蜂は前足を器用に使ってあっという間に髪を呑み込むと、籠を出て美蘭の白い指にとまった。

「いづくにおはしますや」

 美蘭はそう囁くとウィンドウを下げ、夜明けに近い冷気の中へと腕を伸ばす。蜂はその指先からふわりと浮かび、しばらく同じ場所を回っていたけれど、やがて東の方へと飛び去っていった。それを確かめると美蘭はウィンドウを閉め、車のエンジンをかけた。

「アパートまで送ってくれる?」

「何言ってんの。病院に戻るのよ」

「嫌だ、もう戻る必要ないよ。今だって全然大丈夫だし」

「嫌もへったくれも、料金前払いしてるんだから」と、美蘭が車を出そうとしたので、僕は慌ててキーを奪い、エンジンを切るとポケットに入れた。

「馬鹿!さっさと返せ」

「馬鹿はそっちだ。病院で検査なんかしたって何の意味もない。僕は別に長生きしたくないし、自転車にぶつかってあのまま死んでたってよかった。それより、病院にいると必ず思い出す、あの嫌な感じの方がよっぽどリアルでしつこくて、うっとうしいんだよ!美蘭には絶対にわかるはずない」

 美蘭の奴、また言い返してくる、と思ったけど、何故だか静かだった。背筋を伸ばし、軽く溜息をつくと、「じゃあ好きにすれば」と言って、右腕を背中にまわす。そしていつも身に着けている守り刀を抜き、「手、出して」と命令した。僕がそろそろと右手を出すと、「そっちじゃない!」と怒る。なので左手を出すと、彼女は僕の腕をつかみ、病院でつけられたリストバンドと手首の隙間に守り刀の先を差し入れた。でも、あと一息というところで、「やめた」と呟いた。

「これで最後にしてやるから、今日だけは病院に戻りな」

 そう言って守り刀を収めようとしたから、僕は「なんでだよ!」と怒り狂った。そして美蘭の右手をつかみ、そのままリストバンドを切ろうとしたけれど、向こうも凄い勢いで抵抗するもんだから、撥ねた刃先は僕の頬にあたった。そう思ったけれど、実際には彼女の左手が一瞬先にそれを遮っていた。

 気がつくと美蘭の掌から血が滴り落ちていて、彼女は「ちくしょう」と唸りながらハンカチを取り出していた。僕は少し冷静になって「手伝おうか?」と言ってみたけど返事はなく、彼女は片手と口を使って器用に傷を縛ると、守り刀についた血も拭って鞘に納めた。それからようやく「キー返せ」という命令があって、僕は仕方なくポケットを探った。

「運転、代わろうか」と言ってみたけど、やっぱり返事もない。美蘭はそのまま車を出したけど、横顔は恐ろしく無表情で、これは内側に怒りの嵐が吹き荒れているが故のホワイトアウトだ。僕は再び囚人になる覚悟を決めて、助手席に沈み込んだ。美蘭は横目でちらりとこちらを見て、「あんたにだって、絶対にわかるはずがない」と言った。

「何が」

「生きるか死ぬか、ぎりぎりなのをじっと見てるしかないのが、どんな気持ちか」

 彼女はまだ無表情なままで、やがて高速道路の明かりが規則正しくその横顔を照らし出す。僕はようやく、夏からずっと棚上げにしている事を思い出して「美蘭」と呼びかけてみたけれど、「うるさい」という返事しかなくて、そのままふりだしへと送り返された。


 翌日の午後、やっと解放された僕がアパートに戻ると、不思議な事が起きていた。物が増えてるのだ。キッチンには冷蔵庫と電子レンジとガスコンロに、オーブントースターまである。おまけに冷蔵庫を開けると、いつも飲んでる炭酸水のボトルが何本か入っている。鍋とフライパンも一つずつ置いてあって、食器も一通り揃ってる。そして部屋には小さなローテーブルとクッションまであった。

 まるで、僕が病院に強制収容されてる間に、誰かが住みはじめたような感じで、なんだか気味が悪い。留守番していた猫のサンドとウツボだけが相変わらずで、僕が戻ると早速、足元にまとわりついてきた。

 でもまあ、こんな事をする人間なんてたぶん一人しかいないから、僕はすぐに宗市そういちさんに電話をした。

「僕の部屋に冷蔵庫とか入れたよね」

「そんな事より、病院で何て言われたか報告してほしいな」

「全部異常なし」

「本当に?」

「ええと、肋骨にひびが入ってるけど、放っておいても大丈夫らしいよ」

 僕としては、猫と同じようにしてれば治る、という持論を肯定されたようで得意だったけど、宗市さんはそれを見透かしたように「とはいっても、君は猫じゃないからね」と言った。

「でもさ、どうして冷蔵庫とか置いていったの?」

「それは僕じゃないから、何とも言えない」

「じゃあ誰?」

「君の守護天使」

「そうなんだ」と言いながら、僕は宗市さんってどうして時々メルヘンに走るんだろうな、と呆れていた。まあ、僕のことを未だにサンタクロースを信じてる子供ぐらいにしか思ってないんだろうけど、自分のした事は素直に認めてほしい。

 僕は電話を切るとマットレスに寝転がり、天井を見上げた。昨夜あんまり寝てないせいもあって、瞼が自動的に降りてくる。病院じゃない場所なら、どこだって楽園だ。サンドが肩のあたりで寝場所をつくっている気配があり、ウツボはお腹の上に伸びている。好き勝手にふるまってるように見えるけど、猫たちは僕が傷めてる場所には決して体重をかけたりしない。こういうところが人間よりずっとつき合いやすいんだよな、と思いながら、僕は眠りに落ちていった。


 そうしてどれだけ眠ったんだろう。僕を起こしたのは、ふだんほとんど沈黙を守っているインターホンだった。

 部屋は薄暗くなっていて、身体を起こした途端あちこちに痛みが走り、猫たちが体温を残して逃げてゆく。素早く動けない僕が受話器をとるまでの間に、インターホンはもう一度鳴った。「はい」と答えてからようやく、別に出る必要もなかった事に気がついたけど、もう遅い。でも面倒だから受話器を置いてしまおうと思った時、「亜蘭?」と不安そうな声が聞こえた。

 声の主は莉夢りむだった。ドアを開けてやると、彼女は小さく「こんにちは」と挨拶して、「猫ちゃんいる?」ときいた。要するに、僕じゃなくて猫達に会いたかったのだ。「いるよ」と答える前に、彼女は「それ、叩かれたの?」とまた質問した。僕の顔にある痣のことらしい。

「違うよ」

「よかった。前にトシアキさんが怒って莉夢のママを叩いた時にね、ママのここがそんな風になったから。亜蘭も誰かに叩かれたと思った」

 言いながら、莉夢は自分のこめかみのあたりに触れた。今を時めくDV亭主って奴らしいけど、莉夢の母親は男運が悪そうだ。そんなやりとりをする内に、気配を察した猫たちが飛びだしてきて、仕方ないから僕は彼女を中に通した。

 部屋を見回した莉夢は「お買い物したんだ」と言った。テーブルとかクッションに気づいたらしい。そして隅っこに腰をおろすと、いつも背負っているリュックから「猫おやつ」シリーズのささみスティックを取り出して「あげていい?」ときくので、僕は「どうぞ」と言った。

「炭酸水しかないけど、飲む?」

「水筒あるから大丈夫」

 相変わらず、僕の方なんか見向きもせず、莉夢は猫たちにおやつを食べさせ、「おいしい?」なんておしゃべりしている。自分の部屋なのに、居場所がないような気すらして、僕は莉夢とは対角線上の隅っこに膝を抱えて座っているしかない。

 おやつを全部食べ終わってしまうと、猫たちはキッチンに水を飲みに行って、戻ってくると好き勝手に寛ぎ始める。莉夢はサンドを膝に抱き上げると、「会えなくなるけど、ちゃんと憶えててね」と話しかける。僕はつい「どっか行くの?」と口をはさんでしまった。

 莉夢は何か迷っているようだったけれど、かすれた声で「またルネさんのところに行く」と答えた。

「いつ?」

「たぶん来週。本当は行きたくないけど、みんなが困るし、美蘭も大人の言うことは聞かないとだめって言ったから」

 最後の方は消えてしまいそうな小さな声。僕は返事のしようがないので、黙っておいた。莉夢は俯いてサンドの頭を何度も撫でていたけれど、ふいに「亜蘭は猫の言葉が話せるの?」と言った。

「僕は日本語と英語しか話せないよ。あとフランス語が少し」

「でも、ニャーニャの撮影をした時、猫ちゃんたちに何をするか教えたのは亜蘭でしょ?」

「別に教えてない。あれはニャーニャに魔法の力があったから」

 宗市さんに見習って、メルヘンで回答してみる。

「あのさ、莉夢はもう十歳だから、魔法とかそういうの、本気で信じてるわけじゃないよ」

「へえ、そうなんだ」

 僕は何となく面白くなってきて、毛づくろいを始めていたウツボの身体を借りると、莉夢の背中に軽く体当たりした。そして驚いて振り向いた彼女の顎に前足でそっと猫パンチ。それからジャンプして肩に飛び乗り、マフラーみたいに身体を巻きつけると、尻尾の先で頬をくすぐる。莉夢はこらえきれずに笑いだし、「もう!亜蘭、やめてよ」と悲鳴をあげた。

「だから僕じゃないって」とやりあってるうちに、こっちもつい笑ってしまう。ふだん子供なんて種族と接触する機会はないけど、自分の小さかった頃を考えると、連中がそう天真爛漫とか無邪気ってものではないのはよく判ってる。でもまあ、女の子をからかうのって、そう悪くない娯楽だ。

 莉夢の腕に抱きとられたウツボを離れると、僕はサンドに乗り換え、床に転がっていたリュックサックをくわえて引きずり回した。小柄なウツボと違ってサンドは力があるので、けっこうなスピードが出た。

「もう、いたずらしちゃ駄目!」と、莉夢は慌てて追い回すけれど、声にはどこか楽しんでる響きがある。でも、勢い余って水筒や何かが中から転がり出すと、莉夢は急に真剣な様子になり、猫たちには目もくれずにそれらを拾い集めた。大事なものでも入ってたのかと、僕はサンドと一緒に莉夢の持ち物を点検する。彼女が真っ先に手にしたのは、竹で編んだ小さな籠だった。

「莉夢、それ…」

 つい僕が声をかけると、彼女は一瞬びくりとして、その籠を大切そうに両手で抱えたままこちらを向いた。

「もしかして、美蘭にもらった?」

 彼女は黙って頷く。

「何が入ってるか、知ってるの?」

 しばらく考えている様子があり、彼女は小さく頷くと「亜蘭は知ってるの?」と聞き返してきた。

「知ってる。中にいるのはスズメバチだろ?」

「そう。一日一回お水だけ飲ませてあげればいいって」

「怖くないの?」

「少し怖いけど、美蘭が大丈夫って言ったから」

「それ、どうするかも聞いた?」

 彼女は少しこわばった表情で頷く。そしてそれ以上僕が何か尋ねるのを遮るように「もう帰らなきゃ」と言って、他の持ち物をリュックにつめこんだ。

 莉夢が慌ただしく立ち去るのを見計らっていたかのように、美蘭からメッセージが入った。せっかく自由の身になったのに、僕はまた出かけなければならない。こんな時、素知らぬ顔で寛いでいる猫が心底うらやましくなるのだ。

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