第23話 ずっと探してる

 美蘭みらんに騙された。

 宗市そういちさんから呼び出しって話だったのに、行ったらその場で車に乗せられ、強制的に一泊二日の検査入院なんて。

 病院、といってもここは新しいくせに評判が悪いのか、他の患者をほとんど見かけない。四階にある僕の個室は、ちょっとしたホテルのような雰囲気で、いま住んでるアパートより立派だ。十分に広い上にテレビがあって、テーブルと椅子が二脚、クローゼットに冷蔵庫まである。そしてもちろんバストイレ付き。でも枕元にナースコールや酸素の端末があるから、ここは病院だと思い出すのだ。

 僕をここに案内してきた看護師さんはかなりの美人。いやに身体のラインが出た白衣と甘ったるい喋り方のせいで、コスプレかもしれないという気すらした。でも実際にはてきぱきと体温や血圧を測って、僕の手首に名前が入ったプラスチックのリストバンドを取り付けた。そして「こちらの服に着替えて下さいね」と、水色のパジャマみたいな上下を置いていった。

 僕は優しい女の人の言うことなら素直にきくから、ちゃんと着替えて、子供の頃に寮でそうしていたように、脱いだ制服はクローゼットにかけておいた。それからベッドに寝転がり、もしこの後また彼女が現れ、僕の男性機能を検査しようとしたらどうしよう、なんて事を考え始めた。

 そこへいきなり誰かがドアをノックするもんだから、僕は慌てて飛び起きた、つもりだったけど、実際にはあちこち痛くて、安っぽいアニメーションみたいにしか動けない。その間にドアを開けて、入ってきたのは宗市さんだった。

「どう?何も問題ない?」

 さっきは有無を言わさず僕を病院送りにしたくせに、彼はとてもにこやかだ。

「こんなの面倒だから、帰りたいんだけど。まだ猫を預かったままだし、餌をやらないと」

 僕の言葉を聞いて宗市さんは「亜蘭あらんらしからぬ、責任感ある発言だね。心配しなくても美蘭がやっといてくれるよ」と笑った。

「ぶつかった相手が自転車だろうと、交通事故ってのは侮れない。僕の友達は乗っていた車が追突されて、三日してからとつぜん両腕が動かなくなった。色々と治療したけど、今も左手が少し不自由だ」

 例によって、宗市さんはお伽噺でもするような口調で脅しめいた事を言うと、ベッドに腰をおろし、手にしていたクリップボードに何やら書き始めた。

「それ何?」

「問診票。君がこれまでにどんな病気をしたか、毎日の生活習慣はどうか、なんて事を申告しておくんだ」

「そんなの別に関係ない」

「情報としては伝えておく必要がある。それに、いい機会だから頭のてっぺんから足の先まできちんと調べろって、美蘭が言ってるからね」

「美蘭の奴、僕が病院なんか大嫌いだと知ってて、わざとこういう嫌がらせするんだ」

「そうじゃなくて、君のことを気にかけてるんだよ。さあ、小さい頃の事は書いたから、あとは自分で答えて」

 宗市さんはそう言って、クリップボードとボールペンを僕の方に差し出した。「これまでにうけた手術」という欄があって、「生体腎移植」と書いてある。僕はその答えを見ないようにそろそろと紙をめくると、「妊娠していますか」なんて質問に答えていった。

「亜蘭、怪我だとか病気だとか、自分一人じゃどうにもならない時は、すぐに僕や美蘭に言わなきゃ駄目だよ」

「どうってことないよ。じっとしてれば、そのうちよくなるんだから」

「そんな猫みたいな事言ってないで」

 宗市さんは呆れたように溜息をついたけど、実際のところ僕は猫からこの真理を学んだのだ。きっと美蘭だって同じようにしてるはずだ。

玄蘭げんらんさんはちゃんと話してないかもしれないけど、夜久野やくの一族の人ってのは、とにかく不摂生で、治る病気をろくに手当もせずに亡くなったりしてるんだからね」

「まあ、当然じゃない?面倒だもの」

 僕は「一日の睡眠時間」の「十から十二時間」に印をつけながらそう答えた。うちの一族は不摂生というより自堕落だから、病気の手当なんかまともにするわけがない。おまけに、まあこれは僕自身もそうなんだけど、何かにつけて上の空だったり、思いつきで行動して命を落とすことも少なくない。

 台風が直撃してるのに、何だかそわそわして海を見に行くとか、自転車のブレーキをかけるのが面倒で、信号無視で交差点に突っ込むとか、そんな感じであっけなくご臨終。かと思えば、僕と美蘭の母親みたいに、何も考えずに子供を産んだりするから、増減はほぼゼロのはずだった。

「だからさ、そういうところに気をつけないと」

 宗市さんは心配そうにたしなめる。でも、と僕は思う。彼や玄蘭さんが曲りなりにも僕の健康状態を気にかけていたのは昔の話、正確には今年の五月、僕と美蘭が十八になるまでの事だ。それまでは僕らの父親から養育費が支払われていたから、生かしておく必要があったのだ。

 じっさい会った事はないけど、僕と美蘭の父親はひいらぎ貴志たかしといって、政治家の秘書をしている。彼の父親、つまり僕らの祖父は国会議員の柊源二げんじで、閣僚経験者でもある。その伯父もまた政治家というわけで、要するに政治家ファミリーの人間だ。

 僕らの父親は学生時代、夜久野火積ほづみという小娘に引っかかって、出来心でつき合った。あっという間に別れたけれど、彼女の顔すら忘れた頃に、双子が生まれると知らされた。この話を携えて柊家に接触したのは玄蘭さんで、彼は祖父の柊源二と、どう片をつけるか談判した。たぶん脅迫まがいの手口でも使ったんだろうけど、僕らのことは公にしない代わりに、けっこうな額の養育費を受け取るという話に落ち着いたのだ。

 だからまあ、僕と美蘭は玄蘭さんにとって頭痛と厄災の種ではあったけれど、ちょっとした金蔓でもあり、おかげでどこかの海中に遺棄されずにすんだ。しかしその魔法も既に解け、玄蘭さんの仕事を引き継ぐ美蘭はともかくとして、僕には何の利用価値もない。だから本当のところ、死のうがどうしようが、問題じゃないのだ。


 病院の早い夕食の後は絶飲食という命令が下って、僕はこれといってすることもないまま、無駄に立派な病室に閉じ込められていた。

 テレビも大して面白くなくて、ただ寝転がって白い天井を見上げる。退屈しのぎに宗市さんが置いていってくれた推理小説も読む気がしないし、スマホも触ろうと思わない。とにかくこの、病院という場所が僕の意志を吸い取っているので、濡れた毛布みたいにまとわりつく無力感に耐えるしかない。その合間に息継ぎするように、もしやあの優しい看護師が現れるんじゃないかと期待してみるのだ。

 そうするうちに、僕の意識は時々白く飛んで、今がいつで、自分は何歳なのか判らなくなってくる。病室は静まり返っていたかと思うと、奇妙なざわめきに包まれ、明るくなったかと思うと暗くなり、枕元で何かの機械がせわしなく泡をたてていたり、身体中に奇妙な管がつながれていたりする。

 僕の全身はどんどん重くなり、自力では指一本動かせず、足元から少しずつ冷たく痺れてゆくのが判る。このままではどこか暗く凍った場所に引きずり込まれるような気がして、僕は誰かに助けを求めようとする。でも鼻と口にはプラスチックのマスクが覆いかぶさり、乾いた空気を送り込み続けていて、唇も喉もからからだ。それでも僕は何とか声を絞り出して助けを求める。

「美蘭…」

 言葉が零れ落ちた途端、現実の世界が戻ってきた、部屋の明かりは煌々と辺りを照らしていて、身体には管も何もつながれていない。僕は軋むような背中の痛みに耐えながら腕を伸ばし、枕元のスイッチを探って明かりを落とした。

 これだから病院は嫌なのだ。普段は思い出そうにもぼやけきっているあの出来事が、この場所にくると封印を解かれたように息を吹き返す。もう全てすんだ事なのに、始めから終わりまでやり直す羽目になる。

 僕はそろそろと寝返りをうち、大きな枕を抱え込んで丸くなった。そして、近くにいる猫を探し始める。

 

 車に乗っていた時から、この病院が海に近いことは判ってたけれど、ここからあの、撮影用に借りた猫を飼っている、ナツメさんという元女優のマンションは遠くなかった。どうやらベイサイドの同じ再開発エリアにあるらしい。最初に僕が捉えた猫の波長は、アビシニアンのロブ。彼はキャットタワーの上で毛づくろいをしている最中だった。

 僕はしばらく彼と一緒に全身を舐めまわし、悪夢の名残をどうにか拭い去ると一息ついた。そのまま寝てしまってもいいんだけど、ロブはこれから遊ぶつもりらしくて、大きく伸びをするとキャットタワーを跳び降り、人の声がする方へと駆けていった。

 この前ここへ来た時に僕らが座っていた人間用スペースには、ナツメさんが寛いでいた。彼女の傍には男が一人、こちらに背中を向けて座っている。けっこう大柄で、彼氏ってやつかもしれない。遊牧民のキャンプを思わせる、絨毯とクッションで構成されたその空間で、二人は酒を飲んでいるみたいだった。

 床に置かれた小さなスピーカーからはジャズが低く流れ、そのすぐ前に寝そべっているロシアンブルーのソフィアの長い尻尾が、ベースのリズムに合わせるように揺れ動く。ロブはナツメさんが羽織っているストールのフリンジが気になるらしくて、後ろからこっそり回り込んだけれど、手を出す前に「もう!ママのお洋服においたしちゃ駄目」と、つかまえられてしまった。

 ナツメさんはそのままロブと僕を抱え上げ、胡坐をかいている膝にのせると、喉元を撫でる。でもロブはそこで落ち着く気などなくて、軽く猫パンチをくらわせると逃げ出した。頭の上からは「遊び足りないんだな」という太い声が降ってきたけれど、何だかその声に聞き覚えがあるような気がして、僕はロブの耳をそちらに向けた。しかし後に続いたのはナツメさんの、「うちの末っ子ちゃんだもの、ねえ」という笑い声だけだった。

 再び伸びてきたナツメさんの腕をすり抜けて、ロブはソフィアに近づいた。僕はそのついでに少しだけ彼の視線を上げ、男の顔を確かめる。そして驚きのあまり立ち止ると、その名を呼んでいた。

亮輔りょうすけさん!」

 もちろん猫の口は人間の言葉を話す構造じゃないから、ロブが発したのは「ニャオ」とか、そんな声だった。それでも僕の気持ちは十分に伝わったようで、彼は「おう、どうした?」と返事をした。僕は慌てて彼の膝に前足をのせると伸びあがり、その顔をよくよく確かめる。記憶よりくたびれた感じで白髪もあるけど、桜丸さくらまるの父親、亮輔さんであることに間違いない。

「何か用でもあるのかな」と彼は笑い、ナツメさんは「猫って男の人の膝が好きなのよ。体温高いから。冷え症で損しちゃったあ」と不満そうに言うと、氷だけになっていたグラスに焼酎のボトルを傾けた。

「雄猫に気に入られても仕方ないな」と言って、亮輔さんは大きな手で僕とロブを頭のてっぺんから尻尾の先まで何度か撫でた。そして「じゃあ、そろそろ失礼するよ」と告げて立ち上がる。ナツメさんはグラスの氷を軽く鳴らして「人間の雌には興味ないの?」と尋ねた。

「なくはないけど、これから仕事じゃしょうがない」

 亮輔さんは桜丸によく似た声で笑うと、ゆったりとした足取りで玄関へと歩いていった。ナツメさんは無言のまま、見送ろうともせずにグラスを口に運ぶ。よく見ると飲んでいたのは彼女だけで、亮輔さんのグラスはなかった。僕は急いでロブを促すと、亮輔さんを追った。

 彼はトレーナーの上にナイロンのジャケットを羽織り、下はジーンズにスニーカーという服装だ。どれも量販店の一番安そうな奴。手ぶらで、ジーンズの後ろポケットに入れてる財布だけが所持品らしかった。

「亮輔さん」

 僕はもう一度呼びかけてみた。玄関のドアノブに手をかけていた彼は振り返ると、「じゃあな」と笑みを浮かべてもう一度頭を撫でてくれた。僕は何だか涙が出そうだったけど、猫はこんな時に泣くような動物じゃないので、ただじっとしていた。そして、海沿いの湿った夜気の中に出て行く亮輔さんを見送るしかなかった。


 気がつくと、僕は薄暗い病室でベッドに横たわっていた。とりあえず、寝てる場合じゃない。亮輔さんのことを美蘭に知らせようと電話してみたけど、着信拒否。病院に入れるために騙し討ちにしたから、報復を警戒してるんだ。では桜丸に伝えるべきか?そうなると、どうやって亮輔さんを見つけたか、説明するのが難しい。いや、それより、今この瞬間にも、亮輔さんはこの病院からそう遠くない場所を歩いているはずだ。

 僕は痛む身体をなだめすかして起き上がると、クローゼットの制服に着替えた。名前の入ったリストバンドはつけておくしかないけど、袖に隠れるから大丈夫。そして、誰かに見とがめられると面倒だから、建物の外にある非常階段で降りることにした。一度出てしまったら戻れない構造になってるけど、その方が有難いし。

 外はけっこう寒く、風も強かった。わけもなく胸騒ぎを誘う海の匂いを感じながら、僕は足音をたてないように階段を下りていった。目の前には高層マンションが三棟並んでいる。

 カーテンごしの暖かい明かりだったり、蛍光灯の青ざめた光だったり、真っ暗だったり。マンションにある無数の窓はそれぞれ違った表情を見せながら、不思議なモザイクを作っている。ナツメさんの部屋は一番向こうの棟にあるけど、その先は海岸だ。亮輔さんはこれから仕事って言ってたから、この病院の方から大通りに出るつもりだろう。まだ近くにいればいいけど。

 僕は非常階段を降りると、植え込みの脇を抜けて二車線の通りに出た。それからナツメさんのマンションとは逆方向、大通りを目指して、できる限りの急ぎ足で亮輔さんの姿を捜した。でも、殺風景な湾岸の再開発エリアは、どれだけ歩いても前に進んだという感じがしない。遠くには高速道路とビルの群れが見えるし、行き交う車の音だけは川の流れのように聞こえてくるのに、僕の周囲の景色だけは変わろうとしない。

 何だかまだ、さっきの悪夢の中に閉じ込められたままで、同じ場所を回り続けているような気分になってきた頃、僕はようやく前方に黒い人影を見つけた。

「亮輔さん」

 呼び止めようと叫んでみたものの、僕の声は一瞬で風に吹き散らされてしまった。実のところ、普段から大声なんて出したことないし、叫ぶって一体どうしたらいいのか、よく判らないのだ。とにかく、僕は少しだけ立ち止まり、二三回深呼吸らしきものをして、喧嘩で唸り声を上げる雄猫を思いだしながら、「亮輔さーん」ともう一度呼んでみた。

 ようやく、その人影は立ち止り、何かを確かめるように辺りを見回す。僕はまた彼の名を呼んで、なるべく「走る」という行為に近い動きで彼の後を追った。

「…亜蘭?」

 意外なことに、彼はすぐに僕が誰か判ったみたいだった。僕がようやく追いつくと、彼は険しい表情で「誰かに追われてるのか?」と言った。

「そうじゃなくて、僕が亮輔さんを追いかけてきたんだよ」

「でも、その顔はどうしたんだ」

 言われて初めて、僕は自分の顔にひどい痣があるのを思い出した。

「これは大丈夫。ちょっと自転車にぶつかっただけだから」と説明すると、彼はやっと少しだけ笑顔になった。

「そうか。しかしなんて偶然だろう。ついさっき、知り合いの飼い猫から同じように呼び止められたところなんだ。それで、わけもなく君の事を思い出していたんだよ。猫とすごく仲のいい子がいたなあって」

 それから亮輔さんは、実在するかどうか確かめるように僕の肩や腕に触れると、「背が伸びたな」と言った。

「桜丸も背が伸びたよ。亮輔さんのこと、ずっと探してる」

 僕がそう言うと、亮輔さんの笑顔は消えて、代わりに何だか申し訳なさそうな表情が浮かぶ。彼は僕に触れていた腕を引っ込めると「せっかく会えたのに悪いけど、これから仕事で移動なんだ」と言って、また歩き出そうとした。僕が慌てて「ついて行っていい?途中までだけど」ときくと、亮輔さんは困ったような顔になり、「こんなところで、また亜蘭に追いかけ回されるとはな」と笑った。

 小さい頃、桜丸の家へ「お泊り」に押し掛けると、僕はとにかく亮輔さんの後をついて回った。彼が仕事とボランティア活動に明け暮れていて、あまり会う機会がなかった事もあるけれど、男親が物珍しくて仕方なかったのだ。小学校は女の先生が多かったし、男の先生はけっこう年齢が高かった。後見人である玄蘭さんは男とはいえ、ひねくれた性格だからなるべく離れていたかったし、宗市さんは優しすぎて物足りない。だから僕が一番気に入っていた大人の男性は亮輔さんだった。

 美蘭も亮輔さんのことは好きだったけど、僕に比べると距離を置いていた。それよりも百合奈さんと過ごす方が好きらしくて、僕にとって男は男どうし、というのがまた嬉しかったのだ。

「そういえば姉さんは、美蘭は元気かい?」

「殺したくなるほど元気だよ」

「相変わらず仲がよさそうだな」

 どうしてそういう解釈になるのか判らないけど、亮輔さんは自分の言葉に納得したみたいに頷いた。そして腕時計を見ると「悪いけど、少し急いでいいかな」と言った。



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