第15話 仲直りしたらどう?

 僕と桜丸さくらまるはベンチに腰を下ろし、福島からのバスを待っていた。土曜の夜だし、街は賑わってるけど、この辺りはそうでもない。たまにバスが入ってきた時だけ、吐き出されてきた乗客がたむろして、しばらくするとまた静かになってしまう。

 僕らが待っているのは、桜丸の父親、亮輔りょうすけさんだ。ただし、バスに乗っているかどうかは判らない。

「知ってる人がね、お父さまは福島で働いてるらしいって教えてくれたんだ」

 ここに来る前、桜丸はそう言った。

「何の仕事してるの?」

「たぶん、除染作業。何日か働いて、東京に戻って、また福島で何日か、なんて感じらしいよ。だからさ、都合のつく時は高速バスの降り場に行って、待ってみるんだ。亜蘭あらんも一緒なら、もっと見つけやすいかもしれない」

 頼りにされて、僕も悪い気はしない。でも、ここに来てから一本目のバスは空振りだった。そして次の最終便まではまだ一時間ほどある。さっき桜丸が自販機で買ってくれたカフェオレも飲み干してしまって、僕は何だかまたお腹が空いてきた。

美蘭みらんからだ」

 ふいに、桜丸が嬉しそうな声を上げて、スマホを僕に見せた。「今日はお疲れさま。動画アップした」なんて書いてるけど、お疲れなのはこっちだ。そんな僕の気も知らずに、桜丸は「さすが美蘭は仕事が早いな。ほら見て」と、動画サイトにアクセスした。

 なんせ金儲けが目的だから、動画はすぐに始まらなくて、まずは広告に連動する。そいつをスキップするとようやく、「猫少女ニャーニャ ボールあそび」というタイトルが出て、莉夢りむの扮するニャーニャがボールを投げ、それをサンドが前足で転がしながら運んでくるという動画が始まった。ご丁寧に音楽までついていて、けっこう短いけど、早くも「神猫さん!」「どうなってるの?」といったコメントがついていた。他にも「輪くぐり」「なわとび」というタイトルの動画が上がっていて、投稿者のハンドルネームは「猫舌」だ。

 相変わらず最低のネーミングだと思いながら、僕は桜丸が次々にチェックする動画を眺めていた。自分が操ってる猫の動画なんて、判りきったものかと思ったら、案外退屈しない。すごく短いってこともあるけど、何よりも莉夢が魅力的なのだ。

 まあ、普通に可愛い顔はしてたけど、目元のメイクが凝っているせいで、彼女本来の顔立ちというのは判らない。でも、声だとか、視線だとか、全身の動きだとか、全てにおいて人の目を惹きつける。もちろん、猫耳ウィッグや、フェイクファーをたっぷりとあしらった、尻尾つきのドレスの効果もあるだろうけど。

「すごいね。今日初めて撮影したのに、この子、ずっとテレビとかに出てるような雰囲気だ」と、桜丸は感心しきりだった。

「それにしても、美蘭もよくやるなあ。あの小道具ぜんぶ、彼女が僕のアパートに来てほとんど徹夜で作ったんだよ。あれからまだ寝ずに、編集すませたんだ」

「え、じゃあ美蘭は桜丸のとこに泊まったの?」

「うん」と答えてから、桜丸はようやく「泊まった」という言葉を意識したみたいで、「だからさ、僕もずっと手伝ってたんだ。輪くぐりの輪っかとか、魔法の杖とか、百均で買った小物をうまく組み合わせて作ったよ。あと、美蘭は衣装の毛皮と尻尾も縫い付けてたな。僕は途中で先に寝ちゃったけど」と説明した。

「ふうん」と受け流しながら、僕はあの狭いアパートで二人がせっせと内職に励んでいるところを想像してみた。無理。

「本当は、ボンドか何かで貼りつけたんじゃない?美蘭はそういう細かくて面倒くさい事、死ぬほど嫌いだよ」

「そうは言ってた。でもさ、嫌いだけど、できないわけじゃないんだ。むしろすごく器用だね」

「でも、やってるうちに怒りっぽくなってきただろ?針で突き刺してきたりしなかった?」

「するわけないよ。でもまあ、とにかく時間がかかるから、小さい時の事なんか話して、楽しかった。美蘭って色々とよく憶えてるんだ。特に亜蘭の事」

「どうせ僕の失敗とか、そんな話ばっかりだろ」

「違うよ。もっといい話。でもそれ以上は言えない。もし言ったら殺すってさ」

 いたずらっぽく笑う桜丸を見ていると、やっぱり僕を馬鹿にするネタで盛り上がってたんだという確信が湧いてくる。僕が均衡を保とうとしていた三角形は、知らない間にかなり歪んでいたのだ。美蘭が桜丸に近づいたのは、江藤えとうさんにふられたからに違いない。

「どうしたの?怒ってる?」

 気がつくと、桜丸が心配そうな顔つきで覗き込んでいる。

「別に」と否定すると、彼は「美蘭のために言っておくけど、彼女はいつだって君のこと気にかけてるんだから」と付け加えた。

「判ってるよ。いつもそれで、最悪のタイミングを狙って攻撃してくるんだ」と、僕が率直な見解を述べると、彼は目を丸くして「亜蘭、少し日本語の勉強した方がいいかもね」とだけ言った。僕はもう、美蘭のことなんか思い出したくもなくて、話題を変える。

「ねえ、スマホに亮輔さんの写真とか、入ってる?」

「ああ、これには入れてないな。もしかして、お父さまの顔、よく憶えてない?」

「いや、もちろん憶えてるけど、何年も会ってないからさ」

 確かに僕の記憶力は大したことないけど、それでも亮輔さんのことははっきりと思い出せる。濃い眉と力強い目元が印象的で、角張った顎のあたりが少し頑固そう。がっしりした体格で、よく僕のことを片腕で抱え上げては「子猫みたいに軽いなあ」と、太い声で笑った。桜丸は母親の百合奈ゆりなさんに似た顔立ちだけど、体つきと声は亮輔さん譲りだ。

「知り合いの人は、すぐ判ったって言ってたけどね。大人って、子供ほどは変わらないのかな。君と美蘭なんか、見違えるほど大きくなったもんね」

「それは桜丸も同じだよ。でもさ、亮輔さんが東京と福島を往復してるって事は、東京に住んでるのかな」

「多分ね」と、桜丸は頷いた。

「でもね、お父さまって一時期、ホームレスみたいな生活してたらしいよ。だから、今もそんなにお金は持ってないかもしれない」

「じゃあ、友達のとこに居候とかしてるのかな」と言いながら僕は、女の人かもしれない、なんて考えていた。

「もし亮輔さんに会えたら、一緒に住むつもり?」

「もちろん。今のとこじゃ狭いけど、二人で家賃を出しあったら、もう少し広い部屋に移れるんじゃないかな」

「そうなったら亮輔さんも、東京で働くかな」

「どうだろう。お父さまにも考えがあって、除染作業してるのかもしれないし」

 桜丸はそこで言葉を切り、暗い地面を見ていたけれど、ふいに顔を上げて、「君たち、いつまで喧嘩してるつもり?」と言った。

「え?君たち、って、僕と美蘭のこと?」

「そうだよ。いいかげん仲直りしたらどう?別々に住んでるなんておかしいよ」

「だって互いに嫌いだからしょうがないだろ。心底うんざりしてたから、今は本当にすっきりしてるし、美蘭にはもう帰ってきてほしくない」

「よく言うよ。家族なんだから一緒に住むの、当然じゃないか。外から帰ってきて、ただいまって言って、今日は何してたとか、ちょっと話するだけでも楽しいだろ?」

「楽しくないよ、そんなの。桜丸は家族と離れてるから、勝手にいい事を想像してるだけさ。家族なんて、本当はすごく鬱陶しいから」

 僕がそう否定すると、桜丸の目元に翳りが浮かんだ。でもそれはほんの一瞬のことで、彼は笑みを浮かべ、「そうなのかな」と呟いた。その時になって僕はようやく、何かひどい事を言ったような気がしてきた。もし美蘭がそばにいたら、「次から検閲したげるから、何か言う前に紙に書いて」とか言いそうな感じ。

 僕は自分の失敗を検証しようとしたけれど、ちょうど福島からの最終便が入ってきて、話はそこで途切れてしまった。そして更に残念なことに、乗客の中に亮輔さんの姿はなかった。

 

 結局、その夜は何となく桜丸のアパートに泊まって、日曜の昼過ぎにマンションへ戻った。なぜか玄関の鍵が開いていて、僕はどうやら施錠せずに出かけていたらしい。美蘭がいたら嫌味を言われそうなところで、やっぱり彼女がいないのは有難い。そう思いながら中に入ると、見覚えのない靴が三足も脱いであった。これは、美蘭がまた何か企てているのかもしれない。警戒しながらリビングに進むと、知らない人がいた。

 スーツを着た三十前後の男。ジャケットにセーター姿の、白髪混じりのおじさん。薄手のニットの上にストールを羽織り、年の割に攻撃的なタイトスカートのマダム。この二人は夫婦みたいだ。スーツの男は僕が戻ったのに気づいていたらしく、目が合うといきなり「お邪魔してます。夜久野やくのさんですね?」と話しかけてきた。

「あ、はい」と、僕は慣れない呼び方に更に当惑する。

「保証人様から、お話を聞いておられませんか?」

「いや、何も」

 僕の答えに男は少し驚いた顔になり、それから名刺を取り出すと「三栄さんえいエステートの馬上まがみと申します」と自己紹介してきた。

「このお部屋は先週から退去可能物件に登録されていますので、ご紹介を始めているんですが、こちらのお客様からご覧になりたいとうご要望がありましたのでお連れしたんです。保証人様からは、いつでも見学してよいとの許可をいただいていますから」

 保証人様、というのは玄蘭げんらんさんの事だ。たしかにこのマンションはそろそろ貸しに出すって話だったけど、こうもいきなりだとは思ってなかった。僕は「わかりました。どうぞご自由に」とだけ言うと、隅の方に移動した。

 ふと外に目を向けると、ベランダの手摺に鴉がとまってこちらを見ている。僕は急いで外に出て、「ちょっとひどいんじゃない?」と言った。鴉は少し首を伸ばし、「何を勘違いしてるんだい」とはねつける。

「あんたがそこに住んでるのは、事故物件をリセットするためだよ。そうでもなけりゃ豚小屋で十分なんだからね」

「でも、一言ぐらい言ってくれてもいいじゃないか」

「前からずっと言ってるだろう、借り手がついたらすぐに出ろって。せいぜい愛想よく尻尾を振るんだね。まあ、猫には難しいだろうが、美蘭がいないんじゃ仕方ない」

 鴉の奴、嘴を大きく開き、真っ赤な舌を見せびらかす。

「ここ出たら、次はどこに住むの?」

「心配しなくても、事故物件なら山ほどある。さしあたっては、強欲親父が愛人に頭を割られて死んだ、ワンルームかねえ」

「あんまり狭いと美蘭が怒るよ」

「二人で住めとは言ってない。それはそうと、お客様を放っておいていいのかい?」

振り返ると、マダムが不思議そうな顔で僕を見学している。鴉と会話する、ちょっと危ない人。僕はすぐ中に入り、後ろ手に窓を閉めた。

「滅多に鳥やなんか飛んでこないから、珍しくて」と言い訳すると、彼女は穏やかな微笑みを浮かべた。

「ご両親とは離れて住んでらっしゃるの?」

「はい。両親は仕事の都合で外国にいます。二人とも南極圏に生える苔の研究をしてるんですけど、向こうはこれから夏だから、ずっと調査旅行で」と、これは美蘭がいつも使う台詞。季節が春先の場合は、北極圏の話になる。マダムは「それは大変なお仕事をしてらっしゃるのね」と頷き、あらためてリビングを見回して「日当たりも眺めも素晴らしいわ」と言った。

 不動産屋の馬上さんは「ここはバスルームからの眺めも最高なんです」と、マダムを促し、美蘭お気に入りの場所を見に行った。

 その頃になってようやく、僕は猫の事を思い出した。しかし探し回るまでもなく、サンドもウツボもキャリーケースの中に身を潜めているのが見える。そういえば外泊したので、水は置いてあったけど餌がまだだった。

 これだから生き物って面倒だ、と思いながらキッチンに行き、キャットフードの袋を開けていると、その音でもう猫たちが駆け寄ってくる。これが駒野こまのさんの家なら、獲物を捜しに出かけるという手段もあるだろうけど、マンションの二十七階だとそうもいかない。なんせ猫はエレベータの使い方を知らないから。ちょっと気の毒な事したな、と思いながら、僕は乾いた音をたてて食事をする二匹を眺めていた。

 あのお客たち、あとどれくらいで帰ってくれるだろう。バスルームを見たら、あとは寝室か。ウォークインクローゼットのある、一番広い部屋を美蘭が占領していて、次に広いのが僕の部屋で、もう一部屋は緩衝地帯の空室。そこまで考えて、僕ははっとした。

 美蘭の部屋。

あそこには侵入者、つまり僕を迎え撃つためのトラップが仕掛けられている筈だ。或いはタランチュラかサソリといった毒虫。鍵はかかってるけど、馬上さんは合鍵を持ってるだろうし。ここで何かトラブルが発生したら、玄蘭さんがブチ切れるに違いない。

 僕は慌ててキッチンを出ると美蘭の部屋へ向かった。

待って!と声をかける前に、馬上さんはドアを開けていて、彼は怪訝そうな顔で僕を振り返った。来客ふたりはもう部屋の中だ。

「そこは」危ない、と言おうとした僕の目に入ったのは、がらんとした空間だった。何もない、わけではなくて、ベッドもあれば本棚も、デスクもある。でも美蘭の私物一切が消えていた。

 切羽詰った僕の存在を気にも留めず、おじさんは窓を開けて「富士山は見えないかな」と首を伸ばしていた。マダムはウォークインクローゼットに姿を消し、「まあ、ここはバスルームとつながっているのね」なんて弾んだ声が聞こえてくる。そこで僕はようやく、のんびりしている場合じゃないと我に返った。

 急いで自分の部屋へ入ると、ベッドの毛布は渦を巻き、床には脱いだ服がインスタレーションよろしく点在し、雑誌だとか本だとか、いつ使ったのか憶えてないマグカップやペットボトルもある。机の上にも種々雑多なものがひしめき合い、作品としてタイトルをつけるなら「混沌」だった。

 しかし、と、少し冷静さを取り戻して僕は考える。今からこの惨状をどうにかするのは無理だ。それに、彼らにどう思われようと、痛くも痒くもないし。僕はそのまま部屋を出ると、リビングのソファに腰を下ろして、嵐が過ぎるのを待つことにした。


「まあ本当に申し分ないお部屋だわ」

 僕の部屋も見た上で、マダムは機嫌よくビングに戻ってきた。おじさんはただ穏やかな表情で頷いているだけだ。馬上さんは「率直に申しまして、この立地と間取りでかなり抑えたお家賃になっていますので、他にもお問い合わせは受けております」と、追い込みに入っている。マダムの気持ちはもう決まってるらしくて、彼女は有無を言わせない感じで話しかけてきた。

「あなた、お引越しはいつまでにできるかしら?ここに住むのはうちの息子なの。イタリアで美術史を研究しているんだけれど、お世話になった先生から学芸員のポストに空きが出たってお誘いいただいて、戻ることになったのよ。お嫁ちゃんのお腹にベビーがいてね、安定期のうちに帰国させたいし、そうなったらすぐここに住ませてあげたいじゃない?さっきのあの、クローゼットのある大きなお部屋なら、お嫁ちゃんも喜んでくれるわ」

「はい、引っ越しはいつでも」

 お金さえ積んでもらえれば、今すぐでも大丈夫です、と続きを呑み込んで、僕は精一杯の笑顔を浮かべた。マダムは「ああ、それは助かるわ!本当にありがとう!」と声をあげ、馬上さんはすぐさま「では、事務所の方で手続きを」と号令をかけて、一行は慌ただしく去っていった。


 気がつくと、膝の上にウツボがのっている。足元にはサンドの気配。ウツボは声を出さずにニャアと鳴き、どうやらきれいな水が欲しいらしい。ボウルに汲んでやると、二匹は涼しげな音をたてて飲み始める。僕はそれを聞きながら、さっき目にした美蘭の部屋について考えていた。

 いつの間に荷物を運び出したんだろう。

 僕が最後にあの部屋を見たのは、夏だった。友達を泊めるからってマンション全部を大掃除させられて、あちこちに転がっていた雑多なものの大半は僕の部屋に押し込み、美蘭の私物と判定したものは彼女の部屋に放り込んだのだ。あの時は特例で鍵も開いてたけど、読み終わった本が所狭しと積み上げられて、ジャングル状態だったのに。

 水を飲み終えたウツボが足元に戻ってきて、僕は彼女を抱き上げた。こんな風にわけが判らない時は猫といるしかない。少なくとも僕はこれまでの人生を、そうやってやり過ごしてきたのだ。











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