第13話 おっそろしい話

 週が明けても、美蘭みらん亜蘭あらんのいるマンションには戻らず、どこかのホテルから学校に来るようになった。

「制服着て朝ごはん食べてたらさ、オランダから来てるおじさまに写真撮らせてって言われちゃった」なんて笑ってる。でもまあ、手頃なアパート探してるって話だし、そのためなのか、今日も午後の授業をすっとばして消えた。もし彼女が本当に一人暮らしするようになったら、俺は毎週のように泊まりに行くだろう。誰かに邪魔される心配なしに彼女を抱けるかと思うと、色んな考えがとりとめもなく浮かんでしまう。

 妄想の中の俺は、押しつけられた肉体を捨て去り、桜丸さくらまるの姿を手に入れている。その力強い腕で、シーツの上に美蘭を荒っぽくねじ伏せ、ためらうように引き寄せられた白い足を押し広げて、彼女が濡れるのも待たずにその身体を貫く。本当はそんなやり方じゃ美蘭を悦ばせられない事、女の身体に縛られた俺は十分判ってるんだけど、どうしたって考えてしまうのだ。

 俺は初めての男として、彼女の身体に痕跡を残したい。それができる肉体を手に入れたくて仕方ない。そしていつの間にか美蘭の姿は沙耶さやに変わっていて、彼女は桜丸の広い背中の下で息を乱している。もうそこには俺も美蘭もいないんだけど、俺はその様子をじっと思い描き続ける。

 自分でも判ってるのだ、こんな事考えるのは相当おかしいって。

でもまあ、クラスの男たちも似たようなもんだろうし、美蘭だって「時々、いかれたこと考えちゃう」って言ってたことがあるし。しょせんまともな女子高生じゃない俺は、こうして開き直りでもしない限り、普通のふりを続けることができない。

 羊の群れに紛れ込んだ狼。俺は羊の皮を脱ぎ捨てることもできず、牙を隠したままで放課後の廊下を歩き、羊たちと「もう帰るの?」なんて言葉を交わす。そして思うのだ、この生暖かい偽りの皮を肌に貼りつけたまま、一生を過ごすことになったらどうしよう。

 中学の頃には本気で死にたいと思ったこともあるけど、美蘭が現れてからは少しだけ楽になった。でも今だって何かの拍子に、ふとそんな恐怖に呑まれそうな時があるのだ。一生、一生ずっとこのまま。

風香ふうか

 名前を呼ばれて、俺は我に返った。いつの間にか学校の外に出ていたけれど、周りには誰もいない。思いつめすぎて幻聴でも起こしたのかと、少し自分が心配になったところへ、また「風香ちゃんってば」という細い声がした。

 よく見ると、植え込みの陰に隠れるようにして、女の子が立っている。こないだ美蘭と一緒に会った、莉夢りむとかいう名の子だ。俺が「びっくりした。何してるの?」と声をかけると、彼女はどこか緊張した顔つきで辺りを見回した。

「美蘭は?まだ学校?」

「ううん。今日はお昼で帰ったよ」

「帰っちゃった?」

 はっきりと落胆した莉夢の表情を見てると、なんだかこっちも悲しくなってしまう。この子って何故か、そんな風に人の気持ちを動かすところがある。美蘭もそう感じてるから、この間はわざとそっけなく振る舞ってたのかもしれない。

「電話してみれば?出るかどうかは判んないけど。美蘭の番号知ってるよね」

「電話は亜蘭のしか知らないし、莉夢は携帯持ってないから、おばあちゃんの家にある、大きな電話しか使えないの」

「ふーん。亜蘭の電話じゃ何の役にも立たないよね。いいよ、私から美蘭に伝えとく。莉夢が会いに来てたって」

「じゃあ、他の事も伝えてもらっていい?」

「いいけど?」と俺が請け合うと、莉夢は落ち着かない様子で、肩で息をしながら言葉を紡ぎだそうとした。俺は何だか心配になって、「慌てなくても、ゆっくり言えばいいよ」となだめた。

「あの、あのね、ルネさんちが火事になったの」

「え?家が火事?いま燃えてるの?」

「違う、今じゃなくて、火事になったのは昨日。ルネさんが会社に行ってる間に、電気の線が切れちゃって、そこから火事になったんだって」

「じゃあルネさんて人は、大丈夫だったの?」

「うん。お昼だったから、すぐに消防車で消したけど、ルネさんちは半分ぐらい焼けちゃって、水浸しで、もう住めないの」

 さっぱり全体が見えない話だけど、俺は記憶を総動員して、この間の美蘭と莉夢の会話を思い出していた。

「でも、莉夢はこないだ、ルネさんちに住むとか言ってなかった?」

「だからそれも、なしになったの。しょうがないから、まだおばあちゃんと、かっちゃんのところにいていいって」

「そっか。じゃあ、結果としてはよかったんだ。ルネさんには気の毒な話だけど」

 俺がそう言うと、莉夢はまだ肩で息をしながらこくんと頷いた。

「わかった。じゃあそれを美蘭に伝えとけばいいのね。でもさ、ずっとここで待ってたの、寒かったでしょ?コンビニで何か暖かいもの飲まない?」

「ううん、今日は内緒で来てるから、早く帰らないとだめなの。じゃあね、美蘭にちゃんと言っておいてね」

 莉夢はまた念を押すと、手を振ってから駆けだした。その小さな後ろ姿が角を曲がって消えてしまってから、俺はやっぱり途中まで送ってやればよかったかな、なんて考える。こないだは変な男に付きまとわれてたし、一人じゃ危ないかもしれない。そう思い直して後を追ってみたんだけど、どこの小路に入ってしまったのか、もうその姿は見えなくなっていた。

 

 伝言を預かったとはいえ、学校を出てしまうと美蘭の行方は本当に判らない。ラインだろうと電話だろうと、向こうから連絡してこない限り、全くつかまらないのだ。まあ、さして緊急でもなさそうだし、俺はとりあえず用件だけ送っておいたけど、実際に話ができたのは次の日、二限目の後に彼女がのんびり登校してきた時だった。

「おっそろしい話よね」

 俺が伝えた火事の話に、美蘭はそう感想を述べたけど、「おっそろしい」なんて言葉とはうらはらに、驚きなんて少しも感じてない様子。そして大あくびをすると、「やっぱ帰ろうかな」なんて気怠そうに言う。

「早退の翌日は遅刻って、お前どんだけ遊んでるんだよ」

「別に遊び歩いてるわけじゃないけど、色々と用事があるのよね」

「住むとこ探してるから?」

「それは先送りかな。ホテル暮らし、けっこう気に入ったから。ねえ、放課後ちょっとつきあってよ」

 俺はどうせ暇人だから、美蘭に誘われたらどこだって行く。彼女が律儀なのは、俺に授業をサボらせようとはしないとこ。だからちゃんと午後の英語が終わってから、俺たちは「待ち合わせ場所」である、近くのファミレスに行った。

「誰と待ち合わせてんの?」

 もしや江藤えとうの奴かと勘ぐってたんだけど、窓際の席にぼーっと座っていたのは亜蘭だった。学校には来てなかったので、ベッドの中から直行してきたようなジャージ姿。美蘭は接触を最小限に留めたいというオーラ全開で、俺を置き去りにしたまま早足で奴に近づくと、無言で手を差し出した。亜蘭も負けじと、黙ったままで何かをテーブルの上に放り投げ、美蘭はそれをひったくると回れ右をして戻ってきた。

 彼女が持っていたのは車のキーだった。どうやらこのファミレスに来た目的は、車の受け渡しみたいだ。美蘭は無言のまま駐車場に行くと、一番奥に停めてあった黒のGTRにキーを向けた。

「ったく、嫌がらせしやがって。出しにくいんだよ」

 悪態をつきながらロックを解除し、俺に向かって「一応保険はかけてあるから、乗って」と、怪しげな事を言う。でもまあ、車に乗ってるって話は聞いてたし、あちこち行ってるみたいだから、たぶん大丈夫だろう。少なくとも、うちのママよりはましな運転のはずだ。

「この車、亜蘭の趣味?」

 遠慮なく言わせてもらえば、少しオヤジっぽい選択だ。

「これはスポンサーの趣味かな。亜蘭の脳には“趣味”って概念、ないからね」

 美蘭はシートの位置を調整してから、「駄目、馬鹿の匂いがする」と窓を全開にした。俺にはわかんないけど、これも亜蘭への敵対心って奴か。でもまあ、文句言ってた割にすんなり駐車場を脱出して、車は川崎の方に向かった。


「どこ行くの?」と尋ねても、美蘭は「そんなにかからない」としか言わない。「もしかして、江藤さんのとこ?」と言ってみたけど、「まさか」とそっけない。でも俺は「あの人に会うのは、夜になってから?」と、ねばってみた。美蘭はちらりと視線を投げてよこし、「そんなんじゃないわ」と切り捨てる。

「じゃあ、何なの?嫌いな相手じゃないだろ?見てりゃわかるよ」

 実のところ、はったりなんだけど。でも美蘭は少しだけ眉を上げ、前を向いたままで軽い溜息をついた。

「私には判んない」

「え?」

「自分じゃ判らないの。好きか嫌いか。あの人といると、何もかも調子狂っちゃう感じで、自分が自分の思い通りにならない」

「それはさ」と言ってから、俺はこっちが何故かドキドキしてることに気づいた。美蘭がこんな風に答えるなんて、ちょっと予想してなかったのだ。

「やっぱ、好きってことじゃない?俺も沙耶と仲良くなりかけた頃って、そんなだったもの。自分の一言がすっごく気になってさ、あれで嫌われたらどうしよう、とか、彼女がさっき笑ったのって、どういう意味だろう、とかさ。とにかく何でも心配で仕方なくて、ちょっとした事がひどく嬉しくて、でも少しも前に進めなくて。まるで迷路に放り込まれたような気分でさ」

 てんでうまく説明できないけど、俺なりに美蘭の言葉を解釈してみたら、彼女は「ふうん」とだけ言って、あとは黙って運転を続ける。表情は変わらないんだけど、頬と耳がほんのり紅くなったようにも見えた。


 車はいつの間にか住宅地に入っていって、何の変哲もない家の前で停まった。車を降り、先に立った美蘭がインターホンを押すと、返事より先にドアが空き、五十代ぐらいの小柄なおばさんが出てきた。何だかせっぱつまった顔つきで、「もう、本当に大変なのよ」なんて言ってる。

「上がってもらいたいのは山々だけど、よそのお嬢さんに何かあったら一大事だし、ここで勘弁してちょうだいね。そちらは、お友達?」

「はい、ちょっと手伝ってもらいに。もう準備はできてますか?」

「ええ、でもちょっと待ってね。カリカリとか、トイレの砂とか、買い置きがあるから持って行ってちょうだい」

 それだけ言うと、彼女は家の中へ戻っていった。俺は話がさっぱり見えなくて、美蘭に「どうなってんの?」ときいてみる。

「こないださ、亜蘭のとこに猫が二匹いたでしょ?」

「ああ、ベージュのと、まだらの」

「あの子たち、ここの飼い猫なのよね。でもこの家、屋根裏にスズメバチが巣を作ってたらしくて」

「スズメバチ?あの、でっかい奴?」

 やっぱり話が見えてこなくて、俺が「なんで蜂の巣と猫が関係あんの?」とか言ってたら、おばさんが戻ってきて「そうなの、もう本当にびっくりしたわよ!腰が抜けるかと思ったほど!」と話に加わった。

「それがね、ちょっと前から、近所でスズメバチを見かけたって話はあったのよ。でもこんな街のど真ん中だから、飛んでるうちに迷いこんだんじゃないの、なんて言ってたの。そしたら向いのご主人が、うちの軒下にスズメバチが入っていくのを見たっておっしゃるのよね。まさかと思って、旦那に覗いてもらったら、本当に何匹かとまってたの。オレンジ色の、それこそ雀みたいに大きいのが、壁の隙間から出入りしてるのよ。

もう大変だって事になって、区役所だの保健所だの電話して調べてもらったら、屋根裏に大きな巣があるって言うじゃない。恐ろしくって、すぐに駆除して下さいって泣きついたんだけどね、特別な業者じゃないとできないらしくて、しかもこの夏は異常気象だったから、あちこちでそういう依頼が来ていて、予約がいっぱいなんですって。

 結局、半月ほど待たされることになったんだけど、こんな状態で住むわけにいかないから、にゃんこ達を全員疎開させることにしたのよ。それで、サンドとウツボはちょうどこの前、美蘭さんに預かってもらった事があるし、少しでも知っているおうちの方がいいからって、お願いしたのよね」

 たぶん俺は、文字通り「目を白黒」って顔をしてたと思う。おばさんは「もう、今は窓を全部閉め切って、毎日怯えながら暮らしてるの。殺虫剤も買ったんだけど、下手に使って、逆切れとかされたら怖いじゃない」と訴えた。

 スズメバチって逆切れするのか?という疑問は口にせず、俺はじっと話を聞き、美蘭は「そうですよね」なんて、絶妙のタイミングで相槌をうっている。

「サンドとウツボをお願いしたら、あと残ってるのはロロだけだから、この子は私たちと一緒に、町田に住んでる娘のところに疎開させてもらうのよ。でもねえ、駆除の費用とか、あれこれ考えると本当に大変」と言って、おばさんは一息ついた。そしてキャットフードと猫トイレの砂の大袋を、次々と玄関から引っ張り出してきて「はいこれ、どうぞ持ってってちょうだい」と並べた。

 美蘭と俺はそいつを車のトランクに積み込み、最後に猫の入ったキャリーケースを二つ受け取ると、後部座席に並べた。おばさんはまるで人間相手みたいに「じゃあね、サンド、ウツボ、お行儀よくしてね。母ちゃんのこと忘れちゃ駄目だよ」なんて、窓越しに言い聞かせてる。猫達はニャアのひと声もなく、ケージの奥で大人しくしていた。

「写真とか動画とか、送りますから」と、美蘭は愛想よく言ってるけど、たぶん亜蘭にやらせるつもりだろう。「それじゃあ、失礼します」なんて、優雅に頭を下げて挨拶してから車を出したけど、おばさんは家の前に立ったまま、ずっと手を振っていた。

「すごいね。なんか、猫が本当の子供みたい」

 角を曲がって彼女が見えなくなってから、俺は率直な感想を口にした。

「まあ、ペットなんてそんなもんよ。しっかし、餌だとかトイレの砂とか、何が嬉しくてあんなもの運ばなきゃなんないのよ。亜蘭に来させればよかった」

「いいじゃん、下ろす時はまた手伝うよ」

「ありがと。でも下ろすのは猫だけ。荷物はトランクに入れといて、後で亜蘭に運ばせるから」

「でもさ、屋根裏にスズメバチの巣って、すごいよな。襲われたら死ぬかもしれないって、きいたことあるけど」

「本当に、おっそろしい話よねえ」

 美蘭の口から、今日二度めの「おっそろしい」が出たけど、やっぱり少しも怖がってる様子なんかなくて、むしろどこか楽しんでるような気配がある。彼女は時計をちらりと見てから、「近くに子持ち鯛焼きの店があるんだけどさ、寄ってかない?」と言った。

「いいけど、猫は置いてくの?」

「テイクアウトして、車ん中で食べるの」

「わかった。でもさ、子持鯛焼きって一体何?」

「それは食べてのお楽しみ」

 美蘭は慣れた手つきでギアを入れると、少しスピードを上げた。本当のところ、彼女にとって怖い事なんてあるんだろうか。どんな事が起きても「おっそろしい」なんて口先では言いながら、軽々とハンドルを切って、かわしてしまうような気がする。



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