エピローグ(後) 彼女のおわりから、はじまり


 


 痛かったのを、よく覚えている。

 次に覚えているのは、ぎこちなく私に触れるコウは……人への触れ方をまるで知らないんだってこと。

 強すぎたり、弱すぎたり。急だったり、しつこかったり。

 何かを変えてくれることを期待して流されて……でも、気づいたら「痛い」とか「もっと……やさしく」とか言っていたと思う。

 でもあたしだってぎこちないから、上手く伝えられなくて。


 大変だったよね……。


『……あ』


 走馬燈のように過ぎるよ。

 旅に出る前の日のこととか。

 旅に出てからのこととか……結婚式のこととか。


「死が二人を分かつまで」


 そんな決まり文句、よくあるじゃない。

 なのに仏頂面でキスしてから「死に別れても追いかける、そんで幸せにし続ける」とか言って。

 段取りと違うことして微妙な空気になっちゃった。

 結婚式会場のスタッフさんが手慣れていたから、ささやかなささやかな式だったけど無事に終わったよね。

 実は子供がいるって言ったらお父さんすごい泣いちゃって、それからコウをすごく怒ってた。

 お母さんは……言わないだけで気づいていたみたいだったけど。


『――……あ』


 ハネムーンなんか一瞬で……予定日が迫ってきて。

 血を吐いて……どうしたんだっけ。


 なんだか懐かしい顔があたしを見ている。

 先生だ。


『――ない、こんな』


 いまさら……どうしたんだろう。

 なんでそんなに苦しそうな顔であたしを見下ろしているんだろう。


 そばにいるコウはあたしの手を握って泣いている。

 何度もあたしの名前を呼んでいる。


 ちあ、ちあって。


 ぼやけて聞こえる。身体もちっとも動かない。

 ただ痛みだけがある。


『こどもは』

『……母体が耐えきれるとは』

『治ったって、高校生の頃に言ったはずだ!』

『申し訳ありません……もっと早く出会えていれば……いえ、やり直せもしないのに、こんな……』


 お母さんとお父さんが泣きながら訴えている。

 けど先生はつらそうな顔だった。


『もし、もっと早く……ごめんなさい』


 これまでのことを……思い返すのは、そっか。

 ……だめなんだ。


 幸せすぎたから、いけないのかな。

 それとも……大事な何かをずっと見落としていたのかな。


 わからない。


 いつかノンちゃんが見せてくれた……漫画みたいに。

 何かを残そうと喋ることさえ出来なかった。

 管が喉まで入り込んでいて、唇もまともに動かないよ。


「ぉ、ぅ」


 何にもならなかった音は、けれどコウにはしっかり届いた。

 目と目が合う。


 絶対どうにかするから。


 コウの目はそう言っていた。

 泣きながら笑う。


 見送られるんだ……と思った時、感じるのはね。

 何かが繋がったような――……そんな感覚だけ。


 何かに引きずられるように落ちて、落ちて。

 けれど手に繋がる熱は離れずに追いかけてくる――……。


 ◆


 千愛の手から力がなくなった。

 先生があわてて延命治療をする。

 けど……だめだった。


 それからの出来事は凄く、すごく……早くて。

 とても心が追いつかなかった。

 俺を殴りつけて冷静にさせると、親父さんは先生に頭を下げたんだ。

 子供だけは、なんとか子供だけはって。


 けど――……だめだった。


 怒り、落胆し、嘆き、枯れずに落ちる涙をこぼす親父さんたち。

 先生も途方に暮れた顔で立ち尽くしていた。

 だから聞いたよ。


 なにがわるかったんだって。


 そしたら……本当に微かな病変が残っていたらしい。

 ひょっとしたらきっかけだったかもしれない……かすかな印。

 それは緩やかに、けれど確実に――……あとは言わずもがな。

 調子が悪くなったその日に精密な検査が出来ていれば、あるいは。


 まともに頭に入ってこない。

 病室に戻ると、顔に白い布がかけられた……冷たくなった鷹野千愛が待っている。


 手を握って……願う。

 何を引き替えにしてもいい。

 積み重ねたすべてがなくなったとしても……また積み重ねる。

 だから、どうか。


 どうか、もう一度……やり直したい。


 泣き疲れている内に眠って――……


『ぉ、ぅ』


 千愛の声が聞こえた、と。

 そう思った瞬間に何かに打たれた衝撃が身体を襲った。


「――……はっ」


 あわてて目を開けて身体を起こすと、どうしたことか。


「あらごめん、掃除の音がうるさすぎた?」


 困惑した顔の母さんが掃除機を片手に突っ立っていて。

 そこは確かに俺の部屋で……二十歳過ぎて衰えたはずの筋肉は戻り、少しビールで膨れたはずの腹は引っ込んでいた。

 それどころか、明らかに背が縮んでいるし……中学に上がって変える前の、ちび怪獣布団だった。


「……いま、何年だっけ」

「なあに? 寝ぼけてるの?」

「いいから!」

「変な子」


 呆れた顔をした母さんが言った年は――母さんが死ぬ一年前。


「……夢かよ」


 痛いくらいに握りしめているものがあった。

 あわてて左手を開くと……俺と千愛二人分の結婚指輪がある。

 ほっぺたをつねればちゃんと痛い。

 

 じゃあ、これは……マジで。


「っ」

「ちょっと、パジャマでどこいくの」

「千愛んち!」


 がむしゃらに走った。

 どんどん思うように動かなくなっていった身体が弾けるように前へ進む。


 記憶よりもずっと新しい家の扉を叩いて叫んでいたら、ちあのお母さんが扉を開けてくれた。

 まあ、どうしたの? なんて挨拶に付き合っている余裕なくて「お義母さん、ごめん!」と叫んで中へ。

 縋るように扉を開けると、果たして……自分の部屋に千愛はいた。


「……どしたの?」


 きょとんとした……まだ胸も膨らまず、腰もくびれず、あどけない千愛。

 けど……生きてる。息をしている。パジャマ姿の子供でしかないはずなのに、俺にはたまらなく愛しく思えて――


「千愛!」

「え」


 気づいたら抱き締めてた。


「え、ちょ、え? なに、どしたの?」


 あわててうろたえるところも、子供の頃の千愛だった。

 構うものか。


「結婚しよう!」

「えええ!?」

「絶対、絶対……幸せにするから!」

「ちょ、ま、え? やだ、う、うれしい……じゃなくて! ど、どうしたの!」

「いいから!」

「う、うう……う、うん」


 頷いた千愛から少しだけ離れて……けど腕を握ったまま、見つめる。


「身体、どっか悪いとこないか」

「……ちょっと、うで、いたいかも」

「わ、わるい!」


 あわてて離すと、耳まで真っ赤になった千愛が上目遣いに俺を見つめてきた。


「ど、どしたの、きゅうに……コウ、あたしのこと、だんだんさけて……男の子とばっかり遊んでた」

「そんなことないし!」


 っていうか正直覚えてない、まるで。


「とにかく、俺は千愛がずっとずっと前から好きなんだ」

「……ほんと?」

「ほんとにほんと!」

「……明日友達に言いふらして、ばかにしたりしない?」

「しねえよ!」

「……ほんとに、ちあのこと、すき?」

「好きだ!」


 涙目になる千愛に何度でも伝える。


 伝わらない気持ちを好きに変換するように、何度でも。


 君を幸せにするためにやってきたんだ。

 これがどんな奇跡で、どこまで続くかどうかもわからないけれど……知ったことか。


 やり遂げてみせる。

 絶対に。


 愛を誓った。

 えっちから始まって……愛に辿り着いた。

 なら、どんな困難だって乗り越えて、塗り替えてみせるよ。


 もう二度と、取りこぼさないように。




 おわり。

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えっちからあいへの進み方 しお @yurumes

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