エピローグ(前) 彼のはじめ


 


 なんとか、乗り切った。

 今はあの……高一の時にお世話になった静岡の旅館にいる。


「ふう……」


 左手の薬指を眺めてほっとひと息吐いた。

 敷いた布団には俺と名字が一緒になった千愛(ちが)が寝ている。

 布団の中から出た左手の薬指にはバイト三年分のダイヤ。


 死ぬ気で勉強して……大学行って、やっと入った会社で下積み。

 スマホを見ると会議ツールの通知が山ほど入ってくる。


「また……社長が、全部NG」


 はあ。

 いつまでも通らない企画、しかし迫るリリース日。

 正直、胃が痛いどころじゃない。


 ハネムーン帰りの後は地獄確定だ。

 ならせめてと思って布団に潜り込む。


 千愛の両親からもテイたちからも「奇跡」と言わしめること。

 一度もやらかさず、別れずにここまできた。


 ……と、いうのは式を挙げるまでの表向き。


「ん、ん……」


 身じろぎして寝返りを打った千愛が目を開ける。


「あ……ごめん、寝てばかりで」


 あの頃よりも艶っぽく成長した声で申し訳なさそうに言う。

 だから首を横に振って、頭の下に腕を伸ばす。


「なんか、胸がいっぱいで」

「お腹にも結晶があるわけですし?」

「大きくなる前に式あげれてよかった」

「そうとう助けてもらったけどね」

「式もこじんまり」


 笑って言うけど、全部千愛が言い出したことだった。

 入社が決まって三ヶ月後に式を、という予定だったんだけど……ただいま絶賛五ヶ月目。

 式場で千愛がサプライズ告白。色んな意味で泣かせてしまいました。

 今でもお義父さんからお腹にめりこませられた拳の感触が忘れられません。


「やっぱ出来婚になっちゃった」

「身内以外には言わなきゃよかったのに」

「産まれたら知らせる人しか呼ばなかったし、それならばれちゃうし」


 それはもういいの、という千愛に話題を変える。

 安定期に入るまで……つまり式を挙げる前から挙げてから、と。

 その頃はもうひたすら荒れていたし、ケンカも山ほどした。

 一緒に行った婦人科で説明を受けていたから、怒らずひたすらなだめるばかり。それが腹立つみたいな時もあって……大変だった。


 それでも俺たちは乗り越えて結婚して、次のステップに向かっている。


「就職出来ても安泰って世の中じゃないぞ?」

「内定取れたらタガが外れたの誰?」

「……俺です」


 ばか、と無邪気に笑う千愛と一緒に寝転がる。

 式にはテイや委員長たち……ナツおばあさんとか、ここいらの女将さんたちも呼んだ。


 あれから毎年夏になれば旅に出かけている。

 でも今年はさすがに……千愛の身体が落ち着くまで待っていたハネムーンも、行けて静岡が精一杯だ。


「もっと稼いで、もっといいとこ連れてくから」

「んー……たぶん無理だよ。ちゃんと産んで、育てて。大きくなるまではさ」


 うれしいけど、と額を擦り合わせてくる。


「子供かあ」

「したら出来るよ」

「……不安じゃない?」

「なんで?」


 さらっと聞いてくるけど、式を挙げるまでは「むり」「やだ」「死にたい」ばかりを繰り返してたんだからなあ。

 それを言ったら怒るのわかってるから、言うなら……そうだな。


「まだ、そんな実感わかないというか」


 精一杯のごまかしだった。


「結婚も、とかいいださないでよ?」

「そっちはめちゃめちゃ実感してるけど……」


 言いよどんでいたら千愛が俺の手を自分のお腹に当てた。

 少し……大きくなってきた。

 これからもっともっと大きくなっていくらしい。


「どんどん……わかってくるよ」

「……そっか」

「急に何かにはなれないって、高校の時にわかったでしょ?」

「確かに」


 笑って……素肌の奥から何かを感じ取れないか集中してみる。

 けど……まだまだ微かすぎてよくわからない。


「どんどん夫と妻になって、どんどんお父さんとお母さんになってくのかな」

「たぶんね。ゆっくり家族になるんだよ」


 深く息を吐き出すと、俺の手を離して代わりに背中に回してくる。

 すり寄ってきた柔らかい熱を抱き締めた。


「……ながいき、しようね」

「おう。仕事も、家事も頑張るし……なにより千愛のこと、ちゃんと幸せにするよ」

「うん」


 それから二人でどれだけ話しただろう。

 そばにある大きな旅館で働いていたにーさんはとっくに結婚して三歳の娘さんがいる。奥さんは仲居に復帰していたから会えたけど、まあ大変らしい。

 子供を育てるのって、ハンパじゃない。

 それは俺と千愛よりも二年早く出来婚したテイとユウちゃんの手伝いに行って実感している。

 何を言っているのかよくわからないし、急に走りだすし、怪我をするし……本当に小さなか弱い怪獣だ。

 そんなのが……俺と千愛の間に産まれる。

 だから正直不安だ。ちゃんとできるのか。千愛は大丈夫なのか。ちゃんと……産まれてきてくれるのか。

 けど……同じくらい楽しみ。

 千愛のお腹に触れていると……色々とつらくて苦しいこともあるって教えてもらったけど、それでも楽しみなんだ。

 ひとしきり話し終えた時だった。


「……ねえ、もう大丈夫だから」


 しよ、と甘えてくる千愛を抱き締めて……――


 ◆


 ――……雨が降っていた。


 傘も持たずに二人で走ってバス停の下に逃げる。

 土砂降りの雨は当分やみそうになかった。


「う、うう……ふう、うう……」


 つらそうな息をして、深呼吸を繰り返した千愛がこぼす。


「ああもう、最悪」


 高校の制服がずぶ濡れだった。

 髪も張り付いているし、雨水が肌に流れて落ちていく。


 小学校の頃から見てきたから……下着が透けている、なんて見慣れているはず。

 なのに、小学校でも中学でも意識してこなかったんだと思った。


 大きくなってて。胸が。

 ブラもこれまで見えた味気ないものじゃなくて、白地に可愛いレースがついていて。


 肌に張り付いた制服が浮かび上がらせる身体のラインは滑らかな曲線。

 全力で抱き締めたら折れてしまいそうな……くびれた腰とか。

 肌に張り付いた髪を絞っている仕草のなまめかしさ、とか。


 そういう全部が、幼なじみが女の子になったんだと訴えていた。


 えろい。

 千愛が、えろい。

 うわ、なんだこれ……なんだこれ!

 やばい! 千愛が、えろい!


 ごまかしがきかないくらいに胸が高鳴っていく。

 なんでだろう、

 小学校の頃のラブレターとか、そういうものじゃない。

 もっとずっと生々しくて、けれど切実な願い。


 離したくない。抱き締めたい。大好きだって言いたい。


「ち、千愛って可愛くなったよな」

「なに、どしたの急に」


 きょとんとした顔をして俺を見て……それから顔を赤らめる。

 俺もまあ濡れてひどい有様だったけど、千愛には違うように見えたみたい。


「……は、はやく帰って身体拭かないと……ね」


 恥じらうように視線をさ迷わせる千愛から……匂い立つ何かがあった。

 今ここにあるのは特別な空気なんだ。

 逃がしちゃいけない、大事な瞬間なんだと思った。


 言わなきゃ。言うんだ。なにを?

 好きだって? いまさら? ずっとごまかしてきたのに?

 いまになって急にかよ。でも。でもいまを逃したら。


「……コウ?」


 不安げな千愛の顔を見た瞬間、気がついたら叫んでいた。


「えっちさせてください!」




 つづく。

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