副王の述懐 [1636-] 1641

【副王の日記。 日記といっても毎日書いていたわけではなく、このページは日付もない。 内容から見て1641年12月の帝の親政宣言の直後と推測される。 言語はガリシア語を主として、イスパニア語、ポルトガル語、日本語がまじっている。 訳者はガリシア語の専門知識があるわけではなく、 ポルトガル語の知識をもとに意味を推測した。】


帝 (Micado) とわたしの連合軍としては勝利。しかし帝に対してわたしは完敗。 帝と友好的な関係でいることができてほんとうによかった。


思えば、5年前の帝 捕獲作戦は、わたしが日本に来ていちばん気をつかった仕事だった。帝は学問のために伊賀の宮殿を離れて京都の東にある南禅寺という仏教寺院に滞在していた。 わたしは南禅寺を襲うにあたって、帝をけっして傷つけないこと、 帝のまわりの人をできるかぎり傷つけないこと、 そして偶然であろうともだれかの意図であろうとも火事を起こさせないことに注意をはらった。 兵士の3分の1に消火を最優先任務とせよと指令したほどだ。


上皇と徳川将軍が別のことで忙しいのを計算に入れて、この作戦の日程を決めたのだけれど、それにしても南禅寺はあまりにも無防備だった。帝自身が、上皇と徳川家の二重の監督からのがれたくて、わずかながら認められた実質的権限を行使して、軍による護衛を拒否したようなのだ。そのおかげでわたしの軍はだれも殺さずにすんだのだった。ふつうの征服軍司令官の作戦指揮だったら、帝には命の危険があった。今では帝のたちばから考えることが多くなったので、司令官がわたしだったことがとても幸運だったと感じる。わたしにしても、当時、帝の生きたままの捕獲をめざしたのは、 帝への好意からではなく、人質としての価値をねらったのだったが。


帝は満12歳の少女以外のなにものでもなく、あきらかにおびえていたのだけれど、その表情の底にはとても強靭なものが感じられた。上皇の子であり、徳川家康のひ孫でも、織田信長の妹のひ孫でもあることを思えば、驚くほどのことではなかったのだが。


わたしが連れていった通訳を通じて、帝はたずねた。

「わたしをどうするつもりなのですか?」

「あなたを傷つけることはありません。ただ、大坂城に移動していただきます。」

「大坂城に行って、わたしは何をするのですか?」

うかつにも、わたしが答えを用意していなかった問いだった。帝の勉強のじゃまをしてしまったという思いがよぎって、答えはこうなった。

「イスパニアやポルトガルなど、西洋のことについて学んでいただきます。」


帝はやはりおびえてはいたが、表情が少し明るくなった。通訳がわたしを喜ばせるためにうそをつかなかったとすれば、帝はこう言った。

「よろしい。行きましょう。」

その「よろしい」の口調は、「喜んで」ではなかったが、いやいやでもなく、 熟慮のすえの決断の表明であり、細い声でありながら君主らしい威厳のあるものだった。帝は、強い意志で、わたしに立ち向かってきたのだ。敵としてではなく、交渉によって自分の利益になる帰結を得ようとする主体として。それが、帝を捕虜として拘束しておくことしか考えていなかったわたしの意志を少しずつ変えていくことになった。


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わたしは帝との約束を果たさなければならなかった。わたしが帝の保護者であると公言できればこの国でのわたしの たちば はとても強くなるが、そのためには、帝が、わたしが与える教育が両親のもとでの教育よりも望ましいと認めてくれることが必要なのだった。帝には、大坂城内で Iago といっしょに授業を受けてもらうことにした。わたしには Iago に帝を監視させようというもくろみもあったのだけれど、 Iago は監視の役にはたたなかった。しかし、帝の教育への満足度をたかめる役にはたった。西洋のことばで講義してさらに日本語で説明できる教師を求めたところ、見つかったのはイエズス会の教育を受けた人たちで、講義の言語はポルトガル語になった。帝はまたたく間にポルトガル語を習得して、講義をよく聞きとったし、 そのあと何時間も教師や Iago と議論することもあり、ときにはわたしも加わって議論した。 Iago とわたしがガリシア語で会話していると、帝が割りこんできて、こちらも言語をポルトガル語にずらして話を続けることもあった。


帝はわたしの家族になったわけではないが、家庭の場を共有する同居人のようになった。日本では高貴な人の本名を口にしないという規範があるはずなのだが、 Iago が帝の本名を敬称なしで呼んでも、帝は苦にしなかった。 (わたしは少し遠慮してミカドと呼ぶようにしていた。) 帝と --帝という地位にある人という意味ではなくて、この探究心旺盛な少女と-- そのような近さでいられることを、わたしは幸福だと感じるようになっていた。ただし、わたしが何かを少人数のなかまうちの秘密にしようとしたとき、 そのなかまから帝をはずすことがむずかしくなった。 ほんとうに秘密にしたいことは、自分ひとりの胸のうちにしまっておくしかなくなった。


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イスパニアとポルトガルの歴史は、わたしが講義した。わたしは学者ではないが、両国のことをバランスよく語ることにかけては おそらく世界でも両手の指にはいるという自負はある。帝がいちばん関心をもったのは、カスティーリャのイサベル女王のことだった。帝はそこに生きかたの手本を見いだしたようだった。


それだけに、レコンキスタを説明するときには気をつかった。イスパニアがイスラム教徒のモロ人を排撃したように、 日本がわれわれキリスト教徒を排撃することはじゅうぶん起こりうる。実際、帝のおじである将軍 徳川家光が支配する東日本の政権の態度はそうだ。武力衝突が避けられて冷たい戦争ですんでいるのが不幸中の幸いだが。そこで、わたしとしては、まだキリスト教徒になっていなかった帝が 「国を異教徒からとりもどすために戦う君主」として目ざめることを防がなければならなかった。しかし、歴史的事実についてうそをつくのは道徳的にいけないことだとも思ったし、あとでばれたらこわいとも思った。わたしは、当時のイスパニアがモロ人を殺したり追放したりしたこと、今のイスパニアもそれを正当としており、わたしもその体制の一員であることを、率直に認めたうえで、わたし個人としては、異民族支配からの脱却には、異民族との共存という道もあったのではないかと思う、と話した。 それは、帝を誘導する方便として考えはじめたことだったが、 いつか、わたしは本気でそう思うようになっていた。


即位前のイサベル王女が、王であった兄から勧められたポルトガル王との結婚の話を断わり、アラゴンのフェルナンド王子と結婚する意志をつらぬいた、ということも話した。そこでわたしは自分の推測として、彼女には二つの動機があっただろうと言った。個人として親戚づきあいの中で面識があったフェルナンドが信頼できるという判断と、カスティーリャの国として近づくべきなのはポルトガルではなくアラゴンだという戦略的判断をしただろうということだ。


今になって思うと、あれが、帝の人生計画を変えたのだろう。それまで、帝にとって、結婚は自分に関係のないことがらだったようだ。女帝である自分は一生結婚できないと教えこまれていたし、親族の例を見ても年長者の意志による政略結婚しか考えられず、自分から積極的になる理由がなかったのだろう。しかし、このとき、自分が政略の主体ならば、そして あいてが個人として信頼できるのならば、 政略結婚もおもしろいのではないか、と考えはじめたようなのだ。そのとき、目の前にいるIago を あいてとして考えてみることもあったにちがいない。しかし、当時の力関係では、帝が副王の息子と結婚することは、象徴的に日本がイスパニアの属国になることを意味しうる。帝としては積極的になりえない案だったにちがいない。


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イスパニア・ポルトガル同君連合解消で、力関係が変わった。わたしが忠誠を誓ってきた対象、わたしの政治スローガンのよりどころとしてきたものが崩れてしまったのだ。わたしがポルトガル語でイスパニア王家への忠誠をよびかけたことは同君連合の軍の結束のためには有効だったのだが、いまではポルトガル人からもイスパニア人からもきらわれる。そして、わたしは中立のつもりでも、人びとは日本副王の地位をイスパニア側のものと見る。なかでも、わたしの日本での仕事で、とくに言語の面でいちばん頼りにしてきたイエズス会は、もはやイスパニアの日本副王の要請を聞いてくれない。ポルトガル語を話せる日本の帝の要請ならば、よく聞いてくれる。ここで帝の身内になることは確かにわたしにとって利益になるのだが、それは帝の政略カードになってしまった。


しかし実際わたしは、帝が Iago を結婚あいてに考えているとは気づいていなかった。 秘書官あるいは顧問としてそばに置きたい、ということならばありそうだと思ったのだが。帝の教育をはじめたころわたしの意欲がとぎれなかったのは帝がかわいい女の子だったからなのだけれど、教育内容が政治や世界情勢のことになってくるうちにわたしは生徒の性別をわすれていた。帝は、わたしの不意をつき、 さらに、数百年まえの帝の配偶者の父親たちが帝を利用するためにつくった制度を逆向きに使って、 いや、制度の名目からすれば正しい向きに使って、わたしに対する主導権をとってしまった。 わたしは大きな権限をもちつづけられることになった。しかしその権限の限界は帝の裁量によって変わりうるものなのだ。帝は名目だけでなく実質的にわたしの上司になった。もしかすると Iago が帝の共謀者なのかもしれない。しかし Iago 主導ではこんなことは絶対にできない。帝は、まだ若いが、したたかな政治家に育った。わたしの気持ちは、生徒の成長を喜ぶ教師と、主導権争いに敗れたライバル政治家との間でゆれている。


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ともかく、わたしは王家の身内にくわわる。本国にいたのではけっして得られなかった光栄。そして、帝は子どもを生む意欲をもっている。わたしの孫がつぎの帝になるかもしれない。かつての帝の配偶者の父親は、帝にその子に位をゆずらせ、若い帝の後見人として権力を行使した。われらの帝は、わたしにそんなことをさせてはくれない。しかし、わたしが生きているあいだに得た知識・経験を孫にひきつぐことは、わたしだけでなく帝ものぞむところだろう。

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