女帝の決意 1641

【西暦1641年12月 (寛永18年霜月)、もうすぐ満18歳の帝は、親政を宣言した。日本語では短い文章が残っているだけだが、ポルトガル語で、かなり長いスピーチの記録が残っている。帝自身が、大坂城内のClariumという宮殿で、キリスト教会関係者および副王の配下の者に向けて、ポルトガル語で語ったものとされている。ここに示すのは、ポルトガル語から現代の日本語に訳したものである。当時の日本語の言いまわしに合わせてはいない。なお、帝は、日本の天皇をさすのに、reiレイ, rainhaライニャ を使っている。そのふつうの日本語訳は「王」「女王」だが、ここでは、日本の天皇をさすばあい、とくに女性であることを明示する必要がある場合には「女帝」、そのほかは「帝」とする。】


わたしは日本国の君主です。12年前のキリスト紀元1629年に、父から位を譲られました。女がこの地位につくことは 8百年あまりにわたってなかったことですが、ありえないことではないのです。日本は、イスパニア、ポルトガル、フランス、イギリスなどの国ぐにと対等な国であり、日本の君主は、その国ぐにの国王とならぶものです。君主であり女であるわたしは、ラテン語ならばreginaレーギーナ、ポルトガル語ならばrainhaライニャ、イスパニア語ならばreinaレイナです【注】。日本では君主は「天皇」と呼ばれてきました。しかし「天」の字は、漢字を使う国ぐにのキリスト教徒にとって、「天主」つまり造物主の領分を思わせるものであり、世俗の君主であるわたしにはふさわしくないでしょう。他方「皇帝」は中華帝国、今はみん朝の君主をさしており、わたしはその地位をおびやかすものと思われたくもありません。そこで、わたしは「皇」または「帝」のどちらか一字を使うことにします。なお、「帝」の字に対応する日本語の「みかど」は、他人が使う遠まわしな表現なのですが、わたしも、ほかに適当な表現が見つからないときは、使ってしまうかもしれません。


わたしは5年ほど前から、副王の保護監督下に置かれてきました。日本国を代表するものとしては、これは屈辱であったと言わねばなりません。しかし、副王は、わたしに、父母のもとでも得られた日本や東洋の伝統に関する教育に加えて、西洋の伝統や世界の事情について学ぶ機会を与えてくれました。そのことについて、わたし個人としては、とても感謝しています。


むかし、帝が直接政治にかかわった時代がありました。その後、貴族政権の時代、さらに武士政権の時代となり、帝の役割は儀礼的なものになりました。しかし、今も、わたしの父である上皇は、東日本の実権を徳川家の将軍からいくらかでも取りもどそうと、さまざまなかけひきをしています。わたしに帝の位を譲って上皇という比較的自由なたちばになったのも、父なりの政治的行動なのでした。しかし、わたしには、皇室も徳川家も、女であることを理由に、帝となっても、政治にはかかわらず、儀礼的な役割だけをつとめることを、そして、結婚することも子どもを生むこともなく、いつか、ほかの皇族 (おそらく弟) に位を譲って隠居することを期待していました。


ところが、わたしは、西洋の歴史について学んで、2世紀前のイスパニアのイサベル女王や、1世紀前のイギリスのエリザベス女王のように、国の政治を大きく動かした女の君主もいることを知りました。


わたしはまだ、現実の政治にかかわるには、若すぎ、経験も浅すぎると思います。平常ならば、もっと成熟するまで、年長の人にまかせるところでしょう。しかし、西日本の統治は、今や副王の手にもおえなくなってしまい、かといって、上皇にも東日本の将軍にもまかせられるものではありません。わたしは、生まれと父の意思によって、日本国を代表する地位を引きつぎました。それに加えて、わたしは東日本の実権を握る将軍 徳川家光のめいでもあります。実のところ、皇室を中心とする貴族勢力と、徳川家を中心とする武士勢力とは、利害が対立しています。わたしが生まれたのは両者を融和させようとする試みの結果なのですが、融和はたやすくないことを、わたしは身をもって知っています。そして、わたしには、副王の、イスパニア勢力とポルトガル勢力の融和をはかってきた苦労もわかります。今の西日本の最大の課題は、在来の日本人と西洋人の平和共存です。両者が簡単に融和するとは思っていません。まずは暴力的な衝突がおきないことをめざします。そのためには、日本の朝廷が、副王の勢力をも取りこんで、変わっていく必要があります。そのかなめの位置にすわってかじとりをすることが、わたしの天職なのだろうと思うのです。


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ところで、わたしが副王のもとに来てから、わたしの動静が世間にほとんど伝わらない日々が続いていました。そのうちに、わたしが帝の位を譲って仏門に入ったという説を述べる人びとが現われました。彼らはわたしを「明正院」と呼びます。実際は、わたしは位を譲っておらず、仏教について学問として学びはしましたが、入信はしていません。しかし、この「明正」という名まえはとても気に入りました。「明」は あかるい、「正」は ただしいという意味を持ち、わたしのめざす理想に合っています。それに加えて、この名まえは、9百年あまり前、日本の基礎がつくられた時代に君臨した二代の女帝にのちの人が贈った名まえ「元明天皇」「元正天皇」にちなんだものとも言われています。わたしはこの二人の後継者とみなされることを誇りに思います。この大坂の地が、元正天皇が、甥の聖武天皇に位を譲って上皇となったのちの短い期間ですが、本拠としていたところであることにも、縁を感じます。「院」はもともと、建物を含む土地区画をさすことばですから、この大坂城の一画をわたしの宮殿として改修するにあたって、その区画を「明正院」と呼ぶことにしました。「院」という名まえは隠居所に使われることが多いのですが、これはそうではなく、仕事場です。


わたしは近ごろになってキリスト教に入信し、洗礼を受けました。これはずいぶん迷ったすえの決断でした。今、西日本の人口のうちで、約3分の1がキリスト教徒です。このうちには西洋から来た人やその子孫も、在来の日本人でキリスト教に入信した人もいます。西日本の統治は、キリスト教徒と、キリスト教から見た異教徒や無信心者と、どちらを排除しても成り立ちません。両者がともに国民として共存しなければならないのです。そして西日本は、西洋のキリスト教諸国とも、キリスト教を排除している東日本とも、つきあっていかなければなりません。君主がキリスト教徒であるほうが、キリスト教国から見た信用は高まるでしょうが、日本人のうちでキリスト教を嫌う人々は、わたしの帝としての権威を認めなくなるかもしれません。しかしわたしには、女帝に対する日本の伝統の呪縛を破るために、キリスト教世界の力を借りたいという思いもあります。迷っても答えが出ないので、キリスト教のほうに賭けることにしました。洗礼名は、「明正」と近い意味あいの名まえがほしい、と司教さまにねだって、Clara とつけていただきました。外交のためにつくったわたしの印章には、ラテン語で「Clara, Regina Japoniae」、漢文で「日本国 明正皇」と彫ってあります。この宮殿「明正院」もラテン名「Clarium」をもつことになりました。


Claraを名のるからといって、わたしはアッシジの聖クララのように信仰に身をささげるわけではありません。わたしはあくまでも、世俗の国の君主です。キリスト教徒とそうでない人が まざって住む国を代表する者ですから、そのうちでのキリスト教徒の利害のたちばには立ちません。わたしはキリスト教会を尊重しますが、特定の教会や聖職者に特権を与えることはしません。日本には、8百年あまり前の女帝が特定の仏僧に特権を与えたことが失敗であったという教訓が残っています。聖職者である個人を政治の職に登用することはあるでしょう。登用された人は国の政治家として働くのであり、教会のたちばで政治にかかわるのではありません。


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副王は、これまではイスパニア・ポルトガル同君連合のもとでその国王の臣下として働いてきたのですが、このたび、両国が別々になり争っている情勢の中でどちらにも加担したくないという心情から、日本の人になりたいという申し出がありました。わたしはそれを受け入れることにしました。副王には、わたしの重臣のひとりとして、西日本の統治のために、働いてもらうつもりです。職務内容と官職名はあとで決めますが、本名よりもVirreyビレイ delデル Japónハポンの職名で知られてきた人ですから、イスパニア語ではひきつづきそのように名のることができるようにします。ただし、これからは、イスパニア国王の代理ではなく、日本の帝 (Reina レイナdelデル Japónハポン) の副官です。


外国出身者が日本の官職につくのはまずいとお考えのかたには、逆を考えてみてくださいと言います。かつて、阿倍仲麻呂あべ の なかまろは唐の官僚に抜擢されました。近ごろも、山田長政がシャム王の重臣になったという例があります。残念ながら、王の代がわりにともなう争いの中で倒されてしまいましたが。これからも、日本人に外国でも活躍してほしい。そのためには、外国人も日本で活躍できるようにすることが必要でしょう。


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さて、日本の女帝が位につきながら結婚していた例はこれまでにありません。ずっと独身だったか、あるいは、皇后や皇太子妃だった人が、夫が亡くなってから帝の位についたのでした。しかし、西洋を見れば、イスパニアのイサベル女王のように、結婚して、しかも結婚のあいてを戦略的に選んで、国のすがたを大きく変えた人もいます。わたしは、結婚したいです。まず、国の大事な決断をしなければならない身として、身近に頼りになる人にいてほしいのです。わたしの判断がまちがっていたら正してほしい。わたしのものの見かたが偏っていたら、ほかの見かたもあることを示してほしい。それができる、思慮深い人に、そばにいてほしいのです。ただしそれだけならば、そばにいる人が結婚あいてでもある必要はないでしょう。しかし、わたしは子孫を残したいとも思っています。そして、自分の子どもに、自分の性質のほかに、どんな人の性質を受け継いでほしいかを考えます。子どもが君主の候補者となるならば、なおさらです。そこで求められる性質は、さきほど述べた、そばにいてほしい人の性質と同じです。


みなさんはもう、わたしが心に決めた人がいることを察しているかもしれません。副王の息子、Iagoです。彼の名は、副王の故郷、Santiagoサンティアゴ de Compostelaコンポステラにちなんだものだと聞いています。この5年間、彼とわたしは、共通の家庭教師たちのもとで、いっしょに学んできました。おたがいの性質はよくわかっています。彼は、わたしの言うことがまちがっていたら、臆せず、しかし怒らずに指摘してくれます。もっとたびたび、「それはまちがいではないが、このようなほかの考えもあるので、両方をならべて、どちらがよいか考えてみよう」というような指摘をしてくれることがあります。反面、彼には、決断がなかなかできないという欠点があります。彼は、将軍や王のような役職にはむかないでしょう。副王が後継者あつかいしてこなかったのも、もっともなのです。


彼はキリスト教徒ですから、司教さまのもとで、キリスト教の規律に従って、結婚したいと思っています。


日本では、男の帝の配偶者は皇后と呼ばれますが、女帝が配偶者をもつことは考えられていなかったので、適切な称号がありません。ただし、「中宮」ということばがあります。これは本来、皇后がいる場所をさすのですが、皇后の別名とされたこともありました。そこで、結婚とともに、Iago は明正院の中宮に入る、ということにしたいと思います。西洋のことばでは、彼は、王 (ポルトガル語でReiレイ) ではなく、公 (Príncipeプリンシペ) と呼ばれることになるでしょう。


キリスト教に入信するだけでなく、西洋人と結婚することによって、わたしはさらに一歩、西洋世界に近づき、他方、日本の伝統からは遠ざかることになります。わたしに帝の権威を認めなくなる人も出てくるでしょう。さらに、わたしの子どもは、父系主義をとれば皇族ではなく、日本人でないとさえみなされるかもしれません。西日本では、そういう主張には負けないつもりです。東日本で自国の君主として認められなくなるかもしれないことは覚悟しました。西日本を統治する者として認められればよいとしましょう。


わたしが Iago を選ぶのは、副王の子だからではありません。しかし、もちろん、わたしは、西洋の政変でたちばがむずかしくなっているとはいえ今も西日本随一の実力者である副王を、身内にもつことの、戦略的意味も考えています。


副王の政権を帝の政権に統合する政治的事業のために、副王には朝廷の役職についてもらう必要があるのですが、中宮の親ですから、6百年ほど前からの前例にならって、関白に任命したいと思っています。ただし、わたしが関白に全権を委任するわけではありません。本来の趣旨どおり、関白は帝の決裁にかかわる公式な助言者です。


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この大坂城は、副王の城から、わたしの朝廷に変わりました。これまで副王のもとで働いていた西洋人やキリスト教徒に加えて、在来の日本人にも、政治家や官僚として働いてもらいます。


まず、副王の軍勢が攻めてきたときに大坂城から逃げ、それ以来隠居している豊臣秀頼に、太政大臣に復帰してもらいます。わたしは副王の保護下にあったあいだ、秀頼と直接会うことはできませんでしたが、彼の妻である千姫はわたしの母の姉であり、親戚として連絡をとってきました。千姫は、幼いうちに結婚させられ、夫の家と父の家との争いにまきこまれて、苦労しましたが、結果として、たぐいまれな調整能力を身につけました。わたしにとって Iago とは別の方向の大事な相談あいてなのです。


大坂城内の一画に彼らの住まいを用意します。名まえは豊徳院としようと思います。彼ら両人の生家の名にちなんだものですが、この国が豊かであり道徳がおこなわれる国になるように政治を進めたいという願いをも反映しています。ラテン名はこれから学者に考えてもらいます。ただしこれは、彼らに与えて世襲を認めるのではなく、朝廷の公有財産のまま、彼らが職にあるあいだ、公邸として使ってもらうものです。千姫には、大臣の妻であるだけでなく、豊徳院を管理する公職についてもらって、さまざまな会合の場を提供してもらいたいと思っています。


両人にとって、かつて城主であった城に勤め人として帰ってくることは屈辱だろうと思います。西洋人が城主としてふるまっていた間は、客人として訪問することさえ避けていたのです。帝の招きでも、固辞されたかもしれません。ここでは、親戚であることが幸いしました。千姫は、姪であるわたしがとても大きな政治の課題をかかえて心細くなっているのを察して、そばで助けたいと言ってくれました。秀頼も、父親たちの利害対立にもかかわらず、千姫の気持ちをよくわかっている人で、いっしょに働く気になってくれました。


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新しい朝廷の政治体制を整えていかなければなりません。これから1年ほどかけて、太政大臣を中心として、日本じゅうから知恵のある人を集めて、立案をしてもらい、関白が見て、そしてわたしが見て、問題がなければ決定とします。


そのあいだも、政治を休むわけにはいきません。日照りになったり長雨になったりの天候で、作物の不作が起きています。飢える人々がいないようにすることは、本人たちの幸福だけでなく、国の安定にとっても大事なことです。


新しい体制が決まるまで、暫定的に、副王庁を存続させます。副王のもとで働いていたみなさんは、仕事を続けてください。キリスト教会のみなさんも、引き続き、副王庁と連絡をとってください。ただし、およそ1年後に体制が変わります。どのように変わるかは今後の検討しだいなので、今すぐ生活のしかたを変えることはお勧めしません。ただし、変化があることを予期しておいてください。


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【注】記録のここのところに、「別紙参照」という注がついている。別紙の内容はつぎのとおりで、帝のたちばで書かれているが、中宮 Iago によるものと思われる。

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「帝」は rainha ではなく imperatrizインペラトリズ とするべきだと指摘されることがあるが、それにはしたがわないことにした。まず、別々になったイスパニアとポルトガル、それからフランスなどの国ぐにから、彼らの国王と同格とみとめてもらおうとしているからだ。彼らよりも高い格を主張したら逆効果になるだろう。また、西洋人の多くが 東日本の「王」とみとめている徳川家光と、上でも下でもなく横ならびと見てほしいからだ。家光の上司とみなされて家光への苦情をもちこまれてもこまるのだ。

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