科学者である夫が死んだとき、私は三日で髪をだめにした。ストレスを抱えると白髪が増えるだなんて迷信だと思っていた。鏡にうつった自分の髪が真っ白になっているのを見て、いつ死のうか考えた。眠っていないせいでクマもできていて、そのときの私は何十歳にも老けこんで見えた。

「ユミはさびしがりやだなぁ」

 夫と住んでいた家で過ごしていると、嫌でも彼のことを思い出してしまう。それは、一緒に食事をとるリビングで。並んで朝、歯を磨く洗面台で。笑いながらすれ違う階段で。一日の出来事を最後に話す寝室で。彼の姿が浮かんでくる。やさしい笑顔。あたたかい言葉。家のあちこちに、彼の断片がある。それがつらくて仕方がなかった。こんなところにはいたくなかった。だけど私は、外にも出ることができなかった。夫を奪った世界など大嫌いだった。学校にも連絡し、事情を説明して休職扱いにしてもらった。

 夫のトレードマークは青色だった。靴や、腕時計、シャツに上着、ズボン。出会ったころから彼は、体のどこかに必ず青色を身につけていた。大学で出会い、付き合ってから、一人暮らしの彼の部屋に遊びに行ったことがあったが、壁には海の絵がかけられていた。

 卒業して一年後には結婚し、一緒に住んでからも青色を身につける習慣はもちろん変わらなかった。

 卒業すると同時、彼は薬品の製造会社に勤めた。私は科学の教師になった。そのころにはすでに同棲していた。研究職として、彼は爆薬を開発する仕事についていた。職種がら別にスーツを着る必要はないのに、彼はかたくなにスーツを着ようとした。しかも青色のスーツを着ることをゆずらなかった。

「ユミだってきっちりとスーツを着ているんだ。僕がそうしないわけにはいかない」

「それでも青色のスーツなんて、電車のなかで浮いちゃう」

「この格好なら、どこにいてもすぐに僕を見つけられるだろう? きみはいつも、さびしがり屋だから」

「奇抜なひとのそばには寄りたくありませんよーだ」

「そんなきみにオマケだ」

 そう言って夫がだしてきたのは、青色のメガネだった。青色はなかったから、わざわざ店に特注でつくってもらったのだと説明してきたときは、さすがにやりすぎだと、おお笑いした。

「念には念を、だよ。スーツを会社で置いてきたときのための保険だ。メガネをかけていれば、青色を身につけていられる」

 念には念を。

 夫の口癖だった。いつしかそれが私にもうつって、私たちの生活には「念には念を」があふれていった。

 あるとき、私が髪型を変えたときも。

「あれユミ。その髪型は?」

「変かな、ツインテール。ちょっと子供っぽいかな」

「とてもきれいだ。きみがやると、不思議と大人っぽく見える」

「この髪型なら、どこにいても私を見つけられるでしょう?」

「どんな姿でも見つけるよ」

「念には念を、よ」

 他人が見ていたら恥ずかしなるような会話も、彼となら平然とできた。幸せとはこういうものだと理解できた。

 念には念を。「これが最後の時間だったときのために」と、そんな冗談を口実に、でかけるときには必ずキスをした。

 最後の日はとつぜんやってきた。

 青色が大好きだった彼の最後は、真っ赤な血にまみれたものだったという。のちに夫は、町にあらわれた連続殺人鬼の、最初の被害者と呼ばれるようになった。

 連続殺人鬼が捕まったというニュースが流れても、そんなものは気休めにもならなかった。むしろ自分で殺人鬼を捕まえられなかったことに憤った。殺せなかったことを、悔やんだ。

 そんなときにあらわれた。

 死神が。

「こんにちは。夫を亡くしたきみの心を癒しにきたよ」

 死神。初めて男と会ったとき、本当にそんな印象を抱いた。高い身長。黒いコートにハット。深い青色の瞳。右目のまわりの傷をみて、かろうじてその男が、私と同じ人間なのかもしれないという感想がわいた。

「記者か何かですか? 取材ならお断りしています。帰ってください」

「違うよ。とんでもない。職業柄、私のことを死の商人などと呼ぶものもいるが、そんな物騒なものじゃない。カウンセラーのようなものさ」

「カウンセラー? そんなもの、頼んでいません」

「頼んできたのはきみじゃない。きみの夫からだ。きみを助けるように言われてきた」

 嘘だとすぐにわかった。

 ふざけている。

 すぐに追い返すべきだ。

 だけどなぜだろう、その嘘に、のってもいいと思っている自分も確かにいた。男の言葉はどこか重く、そして内側に響いてくる声だった。長らくひとと関わってこなかった時間があったせいで、ひとの信頼をはかる力を失っていたのかもしれない。

「だったら自分の名前くらい名乗ったら? カウンセラーさん」

「わたしだってそう簡単にひとは信用しない。きみと同じようにね。きみが本当に助けるべき人間かどうかわかるまでは、名前を教えるつもりはないよ。念には念を、だ」

 念には念を。

 夫が言っていた言葉。

 もしかしたら、本当に夫に頼まれてきたのだろうか。妙なタイミングでの、縁のある言葉に、そんな幻想を抱かせた。

 カウンセラーはいつのまにか、玄関の外から内側に移動していた。家のなかに、はいりこんでいた。自分で招き入れたのだったか、もう思い出せなかった。

 男の言葉が耳の奥で響く。脳が揺れる心地がした。深い青色の瞳に、目が離せなくなっていた。

「きみは世界を憎んではいない。夫を失って悲しんでいるのでもない。きみは怖いんだ。自分が夫を忘れるかもしれないと思っていることが、恐ろしいんだ。きみが家を離れられないのは、離れて違う時間を過ごせば、いつしか夫を忘れてしまうと思っているからだ」

 カウンセラーと名乗る男の言葉が、脳内をかけずりまわる。違う、こんなものはカウンセリングなんかではない。一方的な言葉の制圧だ。だめだ。屈してはいけない。中身を見せてはいけない。それがわかっているのにできない。無茶苦茶に乱され、方向感覚が揺らいでいく。内面をひきずりだされ、からっぽになった体が倒れそうになり、男に抱きかかえられた。気づけば涙がでていた。

「私は、どうしたらいいの?」

「簡単だ。いつでも夫を思い出せるようにしたらいい」

「どうやって」

「きみの夫がつくっていたものがあるだろう?」

 すぐに思い当たった。

 爆薬の開発。

 爆弾の製造。

「同じ科学を専門とするきみになら、可能なはずだ。爆薬をつくるたびに、彼を思い出すことができるだろう。大丈夫、絶対に忘れたりしない。つくりつづけていれば」

 失われていく。

 嫌だ。彼を失いたくない。

 人間の脳は忘れるようにできている。時限爆弾みたいに、いつしか爆発して、その記憶はあとかたもなくなってしまう。

彼の笑った顔も、怒った顔も、驚いた顔も、悲しんだ顔も、喜んだ顔も。口癖も、仕草も、態度も、ぜんぶ忘れたくない。

 気づけば私は、夫の研究室へ向かっていた。夫の仲間は、私が「彼の形見になるようなものを探している」と言うと、快くなかに入れてくれた。研究室にはさまざまな薬品が置かれていて、訪れるたびに少しずつ拝借していった。調合を繰り返し、爆薬をひとつ完成させた。爆弾というひとつのカプセルに、それをおしこめた。私はとにかくつくり続けた。

「よくできた。次はそれを試すといい。きみが夫を想ってつくったものが、本当に正常なものなのか。正しいものなのか、確かめてみるといい」

 カウンセラーの言うことに、疑問ももたずに従った。わたしは髪を染めなおし、髪型も整えて、教師の仕事に復帰した。もう大丈夫なのかと校長先生に驚かれた。爆薬を蜂の巣に流し込んだ。ついでに誰かが死ねばなおいいとカウンセラーが耳打ちをしてきたので、そのとおりにすることにした。私に好意を抱いている高藤先生に、爆薬を仕込んだ巣の駆除を依頼した。巣はきっと焼却炉に入れられる。そこで引火し、衝撃で爆発し、あわよくば死体も生まれる算段だった。結果的には何の関係も害もない作業員が、二人も死んだ。

 爆発のとき、私の脳裏によぎったのは夫との会話の光景だった。カウンセラーの言うことは正しかった。爆弾をつくり、使うと、彼を忘れずにすむことができた。

 私が仕事に復帰する前、カウンセラーは「風見」という名前をだしてきた。調べてみると、私の受け持つクラスに、その名字の生徒がいた。風見夜子。

「彼女を殺してほしい」

「え?」

「大丈夫、きみが直接手を下すわけじゃない。きみはただ爆弾を作動させ、その爆発を見ているだけでいい。私が策をすべて用意してある。言うことに従っていれば、きみの願いはすべて叶うんだ」

 利用されているのだとわかった。私の夫への想いにつけこみ、私のつくった爆弾を利用しようとしているのだと、はっきりわかった。それでもいいと思えてしまった。

「風見さんは、あなたにとってどういう存在なの?」

「とても邪魔な存在だ」

「あなた一人でどうにかできるものではないの?」

「念には念を、だよ」

 念には念を。

 夫の言葉。私の言葉。

「私は夫のもとにいける?」

 カウンセラーは私をじっと見つめてきた。少しだけ考えるそぶりを見せ、答えた。

「そういう道も用意できる」

「ねえカウンセラーさん。あなたの名前は、なんというの?」

「私かい?」

「『死の商人』だと呼ばれていることは聞いたわ。カウンセラーだとも。私が信頼できるまで、名前は教えないと言っていたでしょう? いまは教えてくれないの?」

 カウンセラーはかぶっているハットを外した。右目のまわりの傷と、髪の一部分が白髪になっているのが見えた。私は男がハットを外したのを初めて見た。信頼の表れなのかもしれないと思った。男が口を開いた。

「私の名前はね……」

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