タイムリミットは目の前だった。

 おそらく一分もない。この間に、杉本の本当の死因をつきとめなければならない。全神経を脳にめぐらせる。風見が何かおれに話しかけてきていたが、もう聞こえなかった。

 蜂のことは忘れろ。あれは死因ではなかった。杉本の死体を彩る飾りの一部でしかなかった。

 では本当の死因は? ランナーの突然死に多い、心筋梗塞? 心筋梗塞は発作性のものだ。杉本のいまの苦しみ方は、それとは違う気がする。急激な変化ではない。徐々に、彼の体を死が飲みこもうとしている。そんな感じだ。

 何かほかの持病が発症しているのか? 杉本本人がないと断言していた。

 では熱中症か? 彼は普段からそれには気をつけている。今日に限って怠るだろうか。いつも通りに走っていたと、彼自身もつぶやいていた。逆にいえば、それだけは回避するために、杉本は常に水分補給はかかさなかった。

「水が、水が足りないんだ」

 ぶつぶつと杉本がつぶやく。

「喉がかわく」

 左もものバンドに触り、水筒を取り外そうとするがなかなかうまくいっていなかった。視界の焦点が定まっていないのだろうか。

 一度のランニングに三回は中身を交換するという、あの水筒。かなり大きい、二リットルは入る。三度補給すれば六リットル。

 待て。

 それは、多すぎないか。

 連鎖的によぎったのは、いつかで見た、テレビのアナウンサーの言葉。

『日本中が夏の熱気につつまれて、いよいよ本番の季節が到来です。ハイキングや海水浴など、レジャーの機会が増えることも多くなりそうですが、注意しなければならないのは熱中症です。が、実はそれと同じくらい注意の必要なものがあり……』

 その先の正体。

 思い出して、叫んだ。

「風見! 杉本の水筒をうばえ!」

 おれの言葉を疑いもせず、風見はすぐさま行動に移っていた。杉本はバンドから水筒を取り外し、いままさに飲もうとしていたところだった。風見が強引にそれをふんだくる。奪った拍子に杉本は態勢をくずし、その場で膝立ちになる。彼はそれでも諦めず、すがりつくように風見につかまった。

「返せ! ふざけるな、おれは熱中症なんだ。水分補給を……」

「頭を冷やしなさい」

 言って、風見は水筒の中身を杉本に頭にぶちまけた。彼の髪が、顔が、服が、体が、次々と濡れていく。水筒が完全に空になったところで、杉本はその場であおむけに倒れこんだ。

 風見はそばの地面に視線をうつし、何かを確認したあと、おれに言ってきた。

「凪野くん。未来の死体が、消えた」

 杉本は苦しそうではありながらも、目は閉じていなかった。呼吸もちゃんとできている。それでも死を回避したからといって、危険な状態には変わりなかった。顔面も蒼白のままだ。おれは携帯を取りだし、救急車を呼んだ。

 電話が終わり、再び杉本とそれを介抱している風見のもとへ戻る。

 杉本が力をふりしぼって言ってくる。

「喉が渇いたんだ。水を飲ませてほしい。死んでしまう」

「だめです。それに死にません」

「熱中症だ」

「違う。あなたのそれは、熱中症なんかじゃない」

「じゃあなに?」風見が訊いた。

 彼の訪れていた危険。

 それは心筋梗塞でも、熱中症でもない。

 夏場では特に多い症状。レジャーをたしなむひとや、ランナーを苦しめる、もうひとつの落とし穴。

 それは。

「水中毒だ」



 救急車がやってくるまでの間、杉本は一度だけ嘔吐した。が、それでも死ぬことはなかった。

 水分の多量摂取により、血中のナトリウムの濃度が低下して、脳や肺が膨張することがある。それが水中毒。引き起こされるのは、疲労や精神の錯乱、けいれんに嘔吐。最悪の場合は脳浮腫という病にかかり、死にも至る。という説明を、最近テレビで聞いていた。去年も確か、水中毒という言葉を耳にしたことがあった。最近のテレビでは、熱中症の危険とセットで語られることも多い。

 担架に乗せて運ばれるとき、杉本が一度、風見の腕をつかんだ。

「きみの名前は?」

「風見夜子。もう大丈夫、死は通り過ぎたわ」

 彼は安心したように目をつぶり、そのまま救急車に乗せられていった。

 これでようやく、解決だ。

 残っている問題があるとすれば、

「テストの出来は?」

「科学のテスト? 一応、回答欄はすべて埋めたけど。満点になるかは微妙ね。仕方がないわ」

 今日一日のテストは科学だけだ。午前中には終わるスケジュールだった。それだけが救いだろうか。

 風見にまともな生活を送らせるという目標は、結局、微妙な結果で幕を閉じた。

 遊園地のチケットは、自腹で買っておいてやろうと思った。

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