菅原道真~怨霊伝説とマルチな神様~(日本史・平安時代)

 菅原道真すがわらのみちざね(845~903)と言えば「遣唐使廃止」と怨霊伝説が有名でしょうか。

 しかしこの方、語ろうとすれば山のようにエピソードが出てくる恐ろしい方でした(汗)

 ちょっと長くなりますので項目分けして行きます。


【菅原家】

 菅原道真すがわらのみちざね文章博士もんじょうはかせ(律令制の大学寮で文学や史学を教える役職)の地位を高めた菅原清公すがわらのきよきみの孫です。

 菅原清公すがわらのきよきみ遣唐判官けんとうはんがんとして空海くうかい最澄さいちょうと共に唐へ渡り、遣唐大使けんとうたいし藤原葛野麻呂ふじわらのかどのまろと共に唐の皇帝に謁見したこともある人物です。


 この文章博士もんじょうはかせという役職。当初は官位相当かんいそうとう従七位下じゅなないのげ程度でしたが、この祖父の活躍によって従五位下じゅごいのげ相当にまで地位が向上しています。これによって、大学寮の教官の中では最も地位が高い役職となりました。

(※当時は一定の位まで昇進しないと特定の役職に就けない仕組み(官位相当制かんいそうとうせい。ちなみに位階いかいが五位からは、貴族扱いとなり、様々な特権が得られます)


 また、この祖父の関わった事業と言えば、日本人の名前の付け方が「○○麻呂」などの日本固有の名前から二文字のものや一文字の訓読み方式などに変更されたことですね。

 他にも、律令の統一解釈である『令義解りょうのぎげ』の編纂に関わった人物でもあります。


 さて、そんな人物を祖父に持つ菅原道真すがわらのみちざねですが、その経歴は学者出身とは思えないほどの出世コースでした。

 879年に従五位下に叙爵した道真は兵部少輔ひょうぶしょう、ついで民部少輔みんぶしょうに任ぜられ、三年後には式部少輔しきぶしょう、ついで文章博士もんじょうはかせを兼任。886年には讃岐守さぬきのかみ(国司)になっています。

(※少輔しょうは長官同様に案件決済の権限があります)




阿衡あこう紛議ふんぎ

 その頃、朝廷では大事件が発生します。

 887年、藤原北家の嫡流ちゃくりゅう藤原基経ふじわらのもとつねが史上初の関白に任命された際、宇多天皇うだてんのうみことのりの文言に反発し、みことのりの起草者が処罰される事件が起きます。(阿衡事件あこうじけんあるいは阿衡あこう紛議ふんぎ


 宇多天皇うだてんのう藤原基経ふじわらのもとつねの推薦により天皇に即位した人物です。

 その即位に際して、基経もとつねを関白に任じるみことのりを出します。そこには、「よろしく阿衡あこうの任をもって卿の任とせよ」との一文がありました。


 「阿衡あこう」とは、中国のいん王朝の賢臣、伊尹いいが任じられた官職ですが、これを当時の文章博士もんじょうはかせ藤原佐世ふじわらのすけよが「阿衡は地位が高くても具体的な職掌しょくしょうがない」と主張したため、憤慨した基経もとつねは一切の政務を放棄し、そのために、半年にもわたって国政が停滞する事態に陥りました。

 結局888年6月、天皇は先のみことのりを取り消して、起草者であった橘広相たちばなのひろみを罷免しました。


 基経もとつねは、さらに広相ひろみを流罪にするよう求めますが、ここで菅原道真すがわらのみちざねが「これ以上の紛争は藤原氏の為にならないと」意見書を送ります。基経もとつねは怒りを収め、やっと事件が終息します。


 事件の発端の陰には、たちばな氏が天皇の外戚がいせき(皇后の一族)として権力を握るのを警戒した藤原氏の陰謀があったという話もあります。

 ただ、この事件により、橘諸兄たちばなのもろえから続いた上流貴族、たちばな氏が政治の表舞台から退場。基経もとつねは藤原氏の権力が天皇以上であることを世に示すことになりました。



阿衡あこう紛議ふんぎTIPS】

 悲しいことに、この事件に関わった人物はいずれも道真の父、菅原是善すがわらのこれよしとの縁がある人物でした。

 橘広相たちばなのひろみ藤原佐世ふじわらのすけよは是善の門下生。藤原基経ふじわらのもとつね是善これよしと共に六国史の五番目である『日本文徳天皇実録にほんもんとくてんのうじつろく』を編纂しています。道真みちざねも序文の執筆に関わっているとの話です。(『菅家文書』)



【宇多天皇政権~醍醐天皇政権】

 891年、藤原基経ふじわらのもとつねが死去すると藤原氏には若者が多く、有力者がいなくなります。阿衡事件あこうじけんの影響もあり、宇多天皇うだてんのうは事件を収めた菅原道真すがわらのみちざねを重用します。

 二年後には公卿くぎょう(三位以上)になり、894年には遣唐大使けんとうたいしに任命されますが、唐の衰退を建議し、遣唐使が廃止されることになります。(907年に唐は滅亡)


 翌年には他の藤原氏を押さえて従三位じゅさんい権中納言ごんちゅうなごんに就任。この出世スピードはかなり異例です。さらに長女を宇多天皇うだてんのうの女御とし、宇多天皇うだてんのうの皇子にも三女を嫁がせて姻戚関係も構築します。


 897年には道真が権大納言ごんだいなごん(官位相当正三位)と右近衛大将うこんえのだいしょう(官位相当従三位)を兼務。

 基経の子の藤原時平ふじわらのときひら大納言だいなごん左近衛大将さこんえのだいしょうを兼務し、太政官だいじょうかんはこの二人がトップとして並ぶことになります。


 ここで宇多天皇うだてんのうは息子の醍醐天皇だいごてんのうに譲位し、その治世でも出世していきますが、ここで陰りが見えてきます。


 菅原道真すがわらのみちざねが主張していたのは中央集権的な朝廷。

 しかし、藤原氏たちは朝廷の権力集中を嫌っていました。中級・下級貴族にも反道真みちざね派が生まれ、藤原氏たちに同調し始めます。


 そして、899年に道真みちざね右大臣うだいじん(官位相当は正・従二位。店員一名)になります。

 道真みちざね儒家じゅかでしたが、彼の昇進は明らかに家格を超えたものでした。これに対して妬む者もいたようです。




昌泰しょうたいの変】

 901年。従二位じゅにいじょせられた直後、道真みちざね追放の動きが発生します。昌泰しょうたいの変です。

 醍醐天皇だいごてんのうを廃して、娘婿の斉世親王ときよしんのうを皇位に就けようと謀ったとの密告により、道真は大宰府だざいふに流され、息子たちも流刑に処されます。


 この事件については讒言ざんげん(=嘘)であるという説から、宇多上皇うだじょうこう醍醐天皇だいごてんのう間の確執に道真みちざねが巻き込まれた等の説があります。宇多上皇うだじょうこう醍醐天皇だいごてんのうに取り成そうとしたそうですが、会えなかったという話からもあり得ますね。


 京の都を去ることになった道真ですが、去る時に歌を詠んでいます。

東風こち吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」


 切ない心境がうかがえます。

 その梅は、京の都から大宰府の道真の屋敷の庭へ飛んできたという逸話も残っていますね。(「飛梅伝説」)


 道真は大宰員外帥だざいのいんがいのそちとして左遷されますが、この役職は左遷用の名前だけの役職みたいなもので、大宰府だざいふの人員扱いにもならず、大宰府だざいふ本庁にも入れず、給与も従者も与えられないといったものです。

 左遷から二年後。903年に道真は亡くなります。享年は59歳でした。




【朝廷~相次ぐ不幸~】

 お待たせしました。さあ、ここからが道真の怨霊伝説です。

 道真の死後、朝廷では不幸が相次ぎます。

 まず909年。政敵だった藤原時平ふじわらのときひらが39歳の若さで病死します。

 913年には道真みちざね追放の首謀者の一人とされる右大臣うだいじん源光みなもとのひかるが狩りの最中に泥沼で溺死。遺体も見つからなかったそうです。

 更に干ばつ、疫病の流行など、悪いことが立て続けに起こります。


 923年には醍醐天皇だいごてんのうの皇子の保明親王やすあきらしんのう時平ときひらの甥)が死去。

 925年にはその息子で皇太孫となった慶頼王よしよりおう/やすよりおう時平ときひらの外孫)が幼くして病死。

 二人は藤原時平ふじわらのときひらと関係が深かったことから、菅原道真すがわらのみちざねの祟りとの風評が立つようになります。


 これを受けて醍醐天皇だいごてんのう道真みちざねの罪を解き、道真みちざねの子どもたちも都に呼び戻します(このため、菅原すがわら家は存続しており、その子孫には『更級日記さらしなにっき』の作者である菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめなどがいます)。

 道真みちざね右大臣うだいじんに戻して正二位しょうさんい追贈ついぞうするみことのりを出しましたが、洪水、疫病など災厄は収まりませんでした。




清涼殿落雷事件せいりょうでんらくらいじけん

 そして930年、朝廷内の清涼殿せいりょうでんに雷が落ちます。その結果、昌泰しょうたいの変に関与したとされる朝廷の要人に多くの死傷者が出ました。死亡したメンバーの中には道真みちざねの大宰府での動向を監視する命令を受けていた者もおり、道真みちざねの怨霊に殺されたとの噂が広まりました。

 そして、事件を目撃した醍醐天皇だいごてんのうも体調を崩し、後日退位。三ヶ月後に崩御ほうぎょしました。


 清涼殿落雷事件せいりょうでんらくらいじけんから、道真みちざねの怨霊は雷神と結び付けられました。雷神らいじん天神てんじんとも呼ばれます。

 朝廷は、火雷神ほのいかづちのかみが祀られていた京都の北野に天満宮を建立し、「天神様」として祟りを鎮めようとします。しかし、以後百年は災害の度に道真みちざねの祟りと恐れられていたそうです。

 災害の記憶が風化するにつれ、道真みちざねが生前優れた学者であったことから、天神は学問の神様として信仰されることになったようです。



【TIPS】

 天神様こと菅原道真すがわらのみちざねですが、現在はその御霊は神格化され、「天満大自在天神てんまんだいじざいてんじん」と呼ばれています。


 ・別号

 日本太政威徳天にほん だいじょう / だじょう いとくてん

 火雷天神からいてんじん

 北野天満宮天神きたのてんまんぐうてんじん

 実道権現じつどうごんげん


 ・信仰

 現在、菅原道真すがわらのみちざねは様々な分野で信仰されています。以下はその分野です。


 学業・豊穣

 武運・武芸

 慈悲

 正直・至誠

 儒教・禅・忠義

 和魂漢才・和魂洋才

 和歌・連歌

 芸能

 厄除・病除

 火除・雷除

 書道・筆

 長寿

 交通安全

 縁結び・縁切り

 商売

 冤罪を晴らす

 極楽往生

 海難除け

 怨敵調伏

 戦勝祈願

 王城・国家鎮護

 鬼門・魔封じ

 仏法守護

 子供の守護神


 凄いですね(汗)

 様々な分野に通じているようですので、迷ったら北野天満宮に行ってみたらどうでしょうか。




【おまけ~その後の藤原氏~】

 藤原時平ふじわらのときひらの一族は、時平ときひらの早世とその後の子孫が振るわず、歴史の表舞台から姿を消します。代わって、時平ときひらの弟の藤原忠平ふじわらのただひらが嫡流となります。

 彼は、宇多天皇うだてんのうの下で働き、道真みちざねとも親交のあった人物でした。醍醐天皇だいごてんのうが病気がちとなり、宇多法皇うだほうおうが国政に復帰。そこから忠平ただひらは異例の出世を遂げます。

 35歳にして左大臣さだいじん(官位相当は正・従二位)となり、醍醐天皇だいごてんのう譲位後は朱雀天皇すざくてんのう摂政せっしょうとして幼い天皇を支え、天皇が成人後には関白かんぱくに就任しています。

 記録上、摂政せっしょうを退いた人物が続いて関白かんぱくになった例はこれが初めてとされています。


 出世が早かったこともあり、左大臣さだいじんになってから亡くなるまでの35年間に渡り、地位を維持しました。

 そのため、忠平ただひらとその子孫が嫡流となり、江戸時代まで摂関職を継承することになります。

 道真みちざねの名誉回復が早急に行われたのも、怨霊として恐れられた以外に、時平ときひららの死亡、道真みちざねと親交のあった忠平ただひらの出世があるのでしょう。


【TIPS】

 ちなみに、藤原忠平ふじわらのただひら家人けにんには日本三大怨霊の一人、「平将門たいらのまさかど」がいたという話です。

 忠平ただひら摂政せっしょうから関白かんぱくになった辺りで遠縁の藤原純友ふじわらのすみとも将門まさかどが反乱を起こしています。(承平じょうへい天慶てんぎょうの乱)



 長くなりました。

 お付き合いありがとうございました。今回はこの辺で。

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