第7話 終わりの夜

 味気ない夕食を食べ終わると、優也はすぐに食卓の上にうつ伏せた。

 昨晩の徹夜のせいで、眠気は限界だった。幸い昨日から声は聞こえないままで、緊張感も薄れている。昨日この食卓を囲んだクラスメイトのことを想い出したりしてるうち、優也は気持ちの良い眠りに落ちてしまっていた。

 そして彼が眠ったまま日は暮れ、夜が深まる。

 深夜0時。

 夕方から眠っていたため、部屋には明かりがついていない。

 もはや暗闇といっても良い状態。

 そうした頃合であった。


“フヒヒッ”


 その声がした。

 深く眠っていたはずの優也の背筋に、冷たいものが走った。

 

“アハッ、ウハハッ”


 例の声だった。

 あの不快極まりない、甲高い声がしていることに気づいた。

 そしてその声は続けて言った。

 こう言った。



“ツイニ出ラレタゾ!!!”



 確かにそう言った。

 優也は慌てて顔を上げた。

 見回しても居間は真っ暗で、夏にもかかわらず冷たい空気があたりを満たしてた。

「今、なんて……」

 出られた、と。

 ひどく不快な声が、確かにそう言っていた。


“ヤッタ、ヤッタ!”

“ヤッタヤッタヤッタヤッタヤッタヤッタヤッタ!”

“ヤッタヤッタヤッタヤッタヤッタヤッタヤッタ!”


 声は気が狂ったように喝采する。

 優也は慌てて立ち上がり走った。もちろん納戸に向かってだ。

 納戸に着くと彼は立ち止まろうともせず、そのまま戸を引き開けて中へ駆け込んだ。


“ヤッ――――” 

 

 彼が扉を開けたとたん、笑い声は途切れた。

 彼の到着に反応したことは明白だった。

 蛍光灯を全部付け、納戸の中を睨みつける。

 一見した限りは、何か変なことは起きていない。

 むしろ不自然な沈黙が、そこにはあった。

 まるで何かが息を潜めているような。

「どれ、だ……?」

 だが睨みつけて探す。

 君谷ほたるに習ったこと。五感を研ぎ澄ませてよく観察すること。

 違和感という名の第六感を、最大限に引き出すこと。

 それが解決への糸口となる。

 やがて彼は些細なこと気づく。


 猫の置物の位置が変ではないか?


 君谷ほたるは変人のようでいて、意外と几帳面であることを彼はもう知っている。昨日この納戸の陶器を調べたときも、彼女はとても丁寧に並べ直していた。そのことが今も見て取れる。

 だがその中にあって、猫の置物だけがずいぶんと棚の奥に置かれていた。

 些細な違いだが、だが明らかに不自然だった。

 優也はジリジリと動きながら、見る角度を変えて猫像を観察する。

 日光東照宮の眠り猫のような、丸まって眠る猫の像である。

 見る限り割れた様子や、ひびが入っている様子は見受けられない。

「大丈夫か。気にしすぎか……」

 そう言ってから、気づく。

 置物には底の面というものがあるのだ。

 周囲から観察して穴やひび割れが無くても、実は底の面に穴がという可能性がある。

 彼は近くにあったハタキを持つと、柄の部分で猫像の尻尾を引っ掛けて軽く浮かせる。そして恐る恐る底の面を覗き込んだ。

「何も……無いか」

 だが底の面も傷一つなく、やはり問題は見受けられなかった。

 落款の無い作品であることだけ分かった。

「やっぱりこれじゃないのか、な」

 やはり彼女のように慣れていないと、手がかりは見つけられないものなのか。

 これからどうするか逡巡する。声も止まって手がかりも無くなった。一度彼女に電話をかけて方針を相談するべきだろうかと考える。 

 だがその前に一つだけしなくてはならないことを思い出した。

「五感を使う」

 まだ猫の置物は『見ただけ』だ。

 五感を使って、重さを、硬さを、温度を、匂いを、確かめなくてはならない。

 彼は両手で猫像を持つと、戸棚からゆっくりと持ち上げ


“ギギギッィイヤヤアアアアァアアアァァ!”

 

 この世の物と思えない強烈な悲鳴がした、猫の置物の中から。

 

「うわわぁっ!」

 その結果。


 彼は落とした。


 落ちて、そして割れる。


 彼は見た。

 半ば砕けた猫の中から、灰色のナニカがとてつもない速度で飛び出すのを。

 

“ヤァッタァァアアッ!!!!”


 開いていた納戸の扉から廊下へ、灰色のソレは一瞬で床を走り抜ける。

「うわっ、うわわっ」

 優也が腰を抜かして座り込んでいる間に、


“ヒッカカッタァァァァアアアア”

“アハハハハハァハハハハハハハぁッッッ!!”


 トタタタタという足音と笑い声が、廊下の彼方へと消えていく。

「あ、あ、あ、あ……」

 優也の口から、力ない声が漏れる。

 嫌でも理解できた。

 

 出してはいけないものを。

 出してしまった。



       ●        ●



『大丈夫よ。私がついてるわ』

 電話に出た彼女は、まずそう言った。

 無茶苦茶な理屈だったが、意外にもその一言で優也は落ち着きを取り戻した。

 そして状況を聞いた彼女は、若干不満そうな声で返した。

『なるほど……猫の中だったのね。悔しいけど、正直ピンと来なかったわ。容疑者候補としては7、8番目ぐらいだったわ……』

「そ、それはいいけど。どうしよう。これからなにが起きるんだろう」

『そうね。そこはその逃げた相手の習性次第だけど……相手はどんな外見だったのかしら』

「え、えっと……それが突然のことでよく見えなかったんだけど、灰色で、素早くて、大きさはそんなに……たぶん15cmぐらいだったと思う」

『あら、なら大して危険はなさそうね』

「いやいやいや、何言ってるの! 小さいからって危険じゃないとは限らないでしょ!」

『いえ、いいのよ。そこは「こちら側の常識」で大丈夫よ。「小さい」は「弱い」よ……。あ、あと足音がしてたのよね」

「あ、うん。トタトタって細かい足音が」

『じゃあ、足があるのね。それもひとつ情報だわ』

「あ、うん、そうか。そうだね」

 言われてみればそうだが、意外と気付かなかった。

 彼女が冷静に情報を整理するのを聞いて、少しずつ心が落ち着いてくる。

『ところで山岸君は今どこにいるのかしら?』

「一緒に食事をした居間だよ。スマホここに置きっぱなしだったから、走って戻ってきてかけてる」

『来る途中にその「灰色」を見なかったかしら』

「見てなかったよ。今もあたりを見てるけど、見当たらないよ」

 背後から近づかれるのが嫌で、明かりを全部つけた上で広い部屋の中央に立って周囲を見回し続けているが、今のところ居間に変化はない。

 耳も澄ますが、特に変な声も音も聞こえない。

『うーん。そう。下手をすると、もうソレは家自体から逃げた可能性あるわね』

「え、あ、そうなの?」

『うん。まあ、正直言って私との対決を避けるために逃げた方が懸命だわ』

「だと、良いんだけど……」

『ただもう一つ、貴方からエネルギー補給したくて狙っている可能性が考えられるわね』

「エネルギー補給?」

『そう、怪異現象のエネルギー源は人の感情。貴方がソレを怖がれば怖がるほど、相手は力を得ることになるわ。特に相手は長らく封印されていてお腹がすいているだろうし、今からほかの家に行って一から雰囲気作りするより、貴方を狙ったほうが手っ取り早いわ』

「じゃあ、その場合は」

『ええ、貴方を怯えさせるために何か仕掛けてくるわ』

「だとすると、やだな……あっ、じゃあ家の外に逃げたらどうだろう」

『もう封印が解けた以上、家の外でも襲われるわよ』

「ダメか……」

『だからホームグラウンドである家の方がマシだと思うわ。大丈夫よ。もう私が向かっているし、相手が小さいなら大したことはできないわ。むしろ過剰な恐怖を抱かないことのほうが大切よ。むしろ迎え撃つぐらいの気合が功を奏するわ』

「そう言われても……」

『安心して。今から経験豊富な私が対ホラー戦のノウハウを教えてあげるから』

「う、うん……ありがとう」

 優也はぎこちない返事を返す。

 この変人クラスメイト。彼女を信頼していないわけではないが、彼女の言うことが100%自分に当てはまるかどうかは別問題な気がして不安になる優也であった。 

 そんな優也の気持ちなど気にもせず、彼女はレクチャーを始める。

『まず第一に、幽霊は半透明までなら無視して構わないわ』

「ホントにっ!?」

 いきなりコレであった。

 


       ●        ●



 優也はジリジリと廊下を進んでいた。

 左手には懐中電灯。右手はいざという時のためフリー。胸ポケットにはスピーカーモードにした携帯が収められている。目指す先は、廊下の突き当たりにある物置。そこでまずは武器となるバットを手に入れるのが第一目標だ。

『対ホラー戦で重要になるのは、傲慢な「世界観」よ』

 ポケットからは君谷ほたるのレクチャーが続いている。

『貴方が14年間生きてきて培った「世界観」は間違っていない。幽霊はいない、妖怪はいない、お化けは見間違い。間違っているのは「ヤツら」の方。その傲慢な思い込みが貴方を守るわ』

「うん」

『特に貴方の体は100%貴方自身の「世界観」に支配されている。だから貴方が突然奴らの呪いで耳から血を吹いて死ぬような「貴方の世界観にとって非常識」なことは起きないわ。貴方の体内はとても抵抗力が高いの』

「なら……安心だけど……」

『だから、逆に注意しなくちゃいけないのは「常識的な」物理攻撃よ。殴られたり、首を絞められたり』

 それを聞いて、優也は少し納得する。

「なるほど。だから小さいと危険は少ないって言ったのか」

『ええ、そして武器を手に入れなくてはいけない理由もそれよ。物理的に「身を守る」必要はあるから』

「うん、なるほど……と、もう少しで、物置につくよ。大丈夫、今のところは」

 と、その時だった。

 

 パツン。


 と電灯が一斉に消えた。

 廊下、それに廊下に面した部屋も含め全て真っ暗になる。

「で、電気が、消えた……」

『でしょうね』

「うん」

 優也は慌てず懐中電灯を付ける。

「予想通り、だね」

『ええ。予想通りまずはブレーカーを落としたわね。この程度の小賢しさで山岸優也 feat 君谷ほたるを脅かそうなんてちゃんちゃら可笑しいわ』

 優也は言い含められていたとおり、予備の懐中電灯も付けて廊下の先に放り投げる。

 二つの懐中電灯に照らされ、廊下は十分な明るさを取り戻す。

『まずは明かりを落として恐怖心を煽る。腕力に優れない妖怪である証拠よ』

 彼女の予想通りであった。

 懐中電灯一個だと照らしていない方向に隙ができる。よって懐中電灯をもう一つ用意し、そちらは常に目的地に向かって蹴って移動する。そうすれば自分の懐中電灯が照らしていない方向から襲われる可能性は激減する。 

「無事に、物置に着いたよ」

『グッドよ、山岸君』

 物置をから金属バットを取り出して、優也は深くため息をついた。

 空いている右手にバットを短く持って構えてから、優也は訊ねる。

「これからどうする。ブレーカーを戻しに行く?」

『いえ、何か罠を用意している可能性があるから、このまま居間に籠城をしましょう。あと三十分で着くわ』

「分かった。あと三十分ね」

 あと三十分。最初にあと一時間と言われたときは絶望的だったが、あと三十分と聞くと大分希望が持ててくる。今のところ全て彼女の予言通りで、武器がちゃんと手に入ったことも心の支えになっている。

「どうにかなりそうだ」

『そうそう。そうやってドンと構えるのが重要よ』

「うん。じゃあ、居間に戻るね」

 優也がそう答えて、居間に向かおうとした時だった。


 かゆい。


 その感覚が不意に沸いた。

 左足のふくらはぎが妙に痒くなったのだ。

 不思議に思った優也は、手持ちの懐中電灯で照らす。


 かじられていた。


 鼠色の小男が、笑いながら優也の足をかじっていた。


「うぎゃああああああああああ!!!!!」

 鼠色の体毛。

 首から下は四つ足の動物で、首から上は禿げた男の小人。

 その奇妙な生き物が、ニヤニヤと笑いながら優也のふくらはぎをかじっていた。

「うわあっ、うわあっ、うわあああっ」

 鋭い前歯しかないその口で小人はガジガジと貪り、すでに傷口から肉が見え始めている。

『殴って!!』

「うわあっ、うわあっ!」

 言われるがままに慌ててバットを振るうが、場所が悪い。

 右手に持ったバットで、左足は攻撃できない。

 大きく空振りをする隙に、灰色の小人は足から離れて逃げ出す。


“ギャハハハ、ギャハ、ギャハハハ”

 

 とても追えない素早さで廊下を走り去る。

『大丈夫、山岸君!?』

「か、かじられた!」

『え?』

「足。あしっ。鼠色の小人が、僕の足をかじってたんだっ!」

 改めて見るとふくらはぎの皮が大きく欠け、血がダラダラと流れている。

「信じられないっ! 全然、こうなるまでぜんぜん気付かなかった! 血が、血がっ!」

『タオルでもハンカチでも良いから足に巻いてっ。圧迫止血!』

「ひいいいっ」

 優也はYシャツを脱ぐと、慌てて袖をちぎり足に巻きつける。

 だがそれをしながら、気づく。

「うわあ、変。変だっ!」

『え? 何があったの優也くん!?」

「黒い斑点がっ」

 見ている間に、傷口の周りの皮膚に黒い斑点が広がっていく。

「なにこれぇっ! 皮膚に黒い点が広がってく!」

『黒い斑点……鼠色の小人……出して――!! 「チェスト・イン・デヴィル」!』

「なにっ!? 何を言ってるのさ!?」

『山岸君、正体は「チェスト・イン・デヴィル」、「引き出しの悪魔」よ!』

「なにそれ!?」

『引き出しの中から声をかけて、それにつられて開けた子供に呪いをかける悪魔。起源は十五世紀の西洋。ネズミの怪異よっ! 黒死病系統の亜系! 日本にも生き残っていたなんて!』

「黒死病!? なにそれ、ど、どうすれば良いの。足がしびれるよっ!」

 叫んでいる間にも、黒い斑点は広がっていく。

 今にも膝に到達しそうだ。

「どんどん斑点が登ってくる!」

『落ち着いて! 相手の世界観に呑まれすぎよ! 噛まれたとたん発症するペストなんてあるわけないわ! 常識で考えて!』

「で、でも」

『私を信じて、優也くんっ!!』

 彼女が言った途端、ピタリと斑点が止まる。

「と、止まった」

『そう。大丈夫よ。大丈夫』

 優也はそう言われて、大きく一つ深呼吸する。

「ありがとう。止まったみたい」

『ええ、そのはずよ。貴方の体の中は貴方の世界観が100%支配してる。その世界観が揺らがない限り、怪異の力の侵食はほぼ抑えられるわ』

「そう、良かった……」

『つまりそれは、相手はこれから貴方の世界観に揺さぶりをかけてくるということだけど』

「……か、勘弁してよ。し、しかも斑点が止まったはいいけど、代わりに激痛が出てきて」

 優也はバットを杖にして、なんとか立ち上がる。

『でも相手がネズミサイズで確定したから、物理的な致命傷喰らう心配はほぼ無くなったわ。あとは見つけさえすれば、バット一撃で優勢に持っていける』

「で、でもかなり素早いかったよ」

 それに彼女は優也の足を見ていない。

 この足の機動力で戦うのはあまり現実的とは言えない。

『あとは妖怪の性質上、どこかに閉じ込めるっていうのも有効そうね。チーズでも仕掛けてみる?』

「うーん。そうかもしれないけど……」

 そう言われても、現実的にそんな罠を仕掛ける余裕は無い。

 むしろこの暗闇の中、いつ次に襲われるのか気が気ではないぐらいだ。

 それに、

「あ……」

『どうしたの?』

「無い、予備の懐中電灯が」

 廊下に落としておいた、予備の懐中電灯がいつのまにかなくなっていた。

『デヴィルが隠していったのね……そうね。欲張らずまずは居間に戻りましょう。周りが開けていて、物陰が少ない空間が有利のはずよ。捕まえるのは私が到着してからでいいわ。対抗手段も考えたし』

「対抗手段?」

『良いから。まずは居間に戻るわよ。懐中電灯一つしかないから気をつけて』

「うん」

『自分の足元を中心に照らして、足に噛み付かれたらすぐに振り払えばいいわ。大丈夫。相手は小さいんだから』

「うん……」

 そう答えて、優也は慎重に廊下を進んでいく。というより、足の痛みのためもう早く進むことは出来ない。彼女が到着するまであと二十五分はあるか。気持ちのみが焦る。

 ズリズリと足を引きずりながら、廊下を進む。

 気は強く持ち、緩めない。



       ●        ●



 彼はなんとか居間に到達する。

 彼女の檄が聞いているおかげか、足の斑点も膝下に留まっていた。

 居間の中を照らしてみるが、鼠色の小男は見当たらない。

 優也はスマートホンに報告する。

「良かった。無事に居間に着いたよ。アレも居ない」

『そう。良かったわ。ならそのまま襖を全部閉じて、可能ならば目張りをするべきね』

「うん、分かった」

 そう言いながら一歩居間に踏み込んだ時だった。

「痛あああ!!」

 今度は右足に激痛が走り、優也は悲鳴を上げた。

 慌てて懐中電灯で照らすが、小男の姿はない。

「うわあっ」

 左足の負傷に加え、新たに右足の激痛が走り優也は床に倒れる。

 ポケットからスマホが飛び抜け、畳に転がった。

「なにっ、なんだこれ!!」

 右足、正確にはその足裏。

 そこに刺さっていたのは鋭い陶器の破片だった。

「なんで、なんでこんなものがここに!」

『どうしたの!? 優也くん!?」

「破片が。陶器の破片が足に刺さった!」

 おそらく先ほど割った猫像の破片だった。

 それがグサリと足の裏に刺さっていた。

「くそうっ、痛いよっ!」

 のたうち回りながら慌てて足の裏から破片を抜くが、もう遅い。

 怪異の力は意志の強さで防げる。

 だからこそ至極現実的な物理攻撃に、彼はもっと気をつけなくてはならなかった。

 すでに両足をやられた。すぐに立ち上がるのは難しい。

 そして彼女の『相手が小さければ致命傷を受ける心配は無い』との見解。

 ただしそれは人間が直立していることが大前提である。

「うわああああああああっ!」

 転がった優也に向かって、闇の中から鼠色の小男が凄まじい速度で走り寄ってきた。

 しかもその手には、鋭いハサミを持っていた。

『目を守って!!』

 彼女の声に反応して、咄嗟に顔を腕で庇う。

 その腕に間一髪でハサミが刺さった。

「ぎゃあああ、痛っ、痛い!」

 

“ギャハハハハハハハ”


 ザクっ、ザクっ、と小男は笑いながらハサミを突き刺す。

 Yシャツを脱いでむき出しになっていた腕が、あっという間に血だらけになる。

 

“ヤッタ、ヤッタ、ヤッタ、ギャハハハハ”


『引き出しの悪魔』はその存在意義に基づき、『自分を出した』優也をいたぶり続ける。

 鋭いハサミであるが、それで致命傷を与える必要は無いのだ。

 なぜなら恐怖に支配された優也の左足から、斑点が急速に広がり始めているからだ。

 伝承通りに彼の命を奪うために。

「うわあああああっ! 助け、助けてっ! お願い助けてっ!!」

 だが優也が絶望の悲鳴を挙げた時であった。

 優也も、そして鼠色の小男すらも予期しなかった声が響いたのだった。


『にゃーーーーーーー!』

 

 畳に落としてしまったスマホからだった。

 猫の威嚇声。

 いや、それを真似した君谷ほたるの声。

 さすがというべきか、凄まじいクオリティの鳴き真似!

 そしてそれを聞いた、小男の反応は劇的だった。


“ウワアアアアアアアッ!!”


 持っていたハサミを落とし、よろけもたつきながら部屋の隅の暗闇へ逃げていく。


『にゃあ! にゃああ! にゃあああーーーー!』

「あ、あ、あ」

 優也はなんとか這いずりながら、猫の声が続くスマホへ近づく。

「君谷さん……」

『大丈夫!? 無事、優也くん!?』

「あ、ありがとう。危なかったけどおかげで」

『良かった。効いたのね。大丈夫よ。もうすぐに優也くんの家につ――」


 ガチャン。


「え……」

 目の前に振り下ろされたのは、鉄のハンマーだった。

 鼠色の小男が自分の背丈ほどもあろうかというハンマーを持って、それをスマートフォンに振り下ろしていた。

 画面に大きくヒビが入り、音声が完全に途切れる。

「嘘……だろ……」


“グ……グ……グ……”


 鼠色の小男は唸りながら、凄まじい怒りの形相で優也を睨みつけていた。

 寝たままの優也を、その矮躯から見下ろしている。


“ユルサ……ナイ……”


 悪魔はハンマーを持ち替える。

 叩く面ではなく、釘抜きの方を前に持ち替える。

 優也にも何をしようとしているかわかった。

 叩こうというのだ。

 その鋭利な釘抜きを、優也の顔にひたすら叩き込もうというのだ。


 優也が死ぬまで。


「あ、あ、あ、助けて! 助けて! お願い助けて!」

 

 だが今度の悲鳴には、もうスマートフォンは答えない。

 スマートフォンは、優也より先に寿命を終えている。


「助けて! お願い助けて!!」


 答えたのは別の音であった。


 ドガン! 


 家のどこかから破壊音が響いた。

 そして続いて、ドガ、ドガ、ドガ、と何か連続した音か続く。

 まるで扉か襖を蹴破ってくるような。

 とてつもない速度で近づいてくる。

 優也は理解した。

「助けて! 君谷さん!!」


「任せなさい!」


 最後の襖を蹴破って、純白の髪を持つ少女が姿をあらわす。

 夜だというのにセーラー服を着て、背中に大きな風呂敷袋を背負っている。

 その存在を見て、鼠色の悪魔は大慌てで逃げ出そうとする。

 だが遅い。

 その悪魔はもっと早く逃げ出すべきであった。

 彼女が到着する前に。


「にゃーーーーーー!」


 彼女は背負っていた風呂敷包を空中へ投げる。

 そこから宙へ放たれたのは無数の猫であった。

 それを見て、鼠の悲鳴が挙がる。

 

“ギャアアアアア、ネコダアアアア”

 

 だが本当は違う。

 彼女がばら撒いたのは、猫の精巧なぬいぐるみだ。

 だが『引き出しの悪魔』は一瞬、恐怖のあまり身をすくめてしまった。

 そしてその一瞬は、彼女を前にして致命的な隙だった。

「捕まえた!!」

 それはまるで一陣の白い風のように。

 投げ上げたぬいぐるみが畳に落ちるよりも前に。

 彼女はすでに鼠色の悪魔の尻尾を右手で捉えていた。


“ウワアァッ”


 パニックを起こす小男に対し、彼女は0.1秒も迷わなかった。

 その悪魔を壁に叩きつけ、トドメに左手の拳を叩き込んだ。


“ウゴバッ”


 悪魔は血反吐を吐いて沈黙した。

 上半身は醜く潰れ、折れた骨が何本も胸から突き出て血が流れた。

「え……あ……?」

 呆然とする優也に対して、君谷ほたるは優しい笑みを浮かべた。

「ごめんなさい。優也くん」

「あ、うん」

 そして彼女は優也の傷に目を向けると、悲しそうに目を細める。

「本当に大変だったわね。私が悪かったわ。へそを曲げず、仕事を断って今晩も泊まるべきだったわ。そしたらこんな酷い目に合わなくてすんだのに。本当にごめんなさい」

 それはまるで聖女のように、深い慈愛と後悔に満ちた表情だった。

 そしてその聖女は、


 ガンッ、ガンッ


 延々と悪魔の死体に拳を叩き込み続けていた。

 その様子を見て、優也は恐る恐る訊ねる。

「あの、それ……もう死んでるんじゃ?」

「あら、これ?」

 彼女はその視線に気づくと、彼女は左手を休めた。

「いいえ、まだ死んでないわ。ほら」

 そう言っている間に、小さな悪魔の死体に変化が起こった。

 折れていた腕徐々に繋がり、潰れていた胸が膨らみ、割れていた頭がゆっくりともとの形になる。やがてその瞳がふるりと震え、意識を取り戻したことを伝える。

「ごめんなさい。私、霊能力とか全然ないのよ。だから、そう簡単にはね」

 彼女はひどく申し訳なさそうに言った。

 

「殺せないの」


 そう言った。

 殺せなくて申し訳ない。優也に対して心底そう思っているようだった。

 意識を取り戻した悪魔も、現状を把握したのか叫び始める。


“ガハハハッ、馬鹿メッ”

“無駄ダッ”

“オマエがドンナに殺ソウトシテモ”

“ドンナに痛メツケテモ――”


 ガンッ。ブチュッ。


「うるさいわ」

 振り下ろした左手によって、悪魔はまた潰れた。

 潰れた小さな頭蓋から血が飛び散り、彼女の頬を一滴汚した。

「私にも霊能力があれば、怪異をもっと殺すことが出来るんだけど」


 ガンッ。ブチュッ。


「怪異って普通の物理攻撃では死なないのよね。彼らは彼らなりの『世界観』によって守られているのね。まあ、ナイフで刺して崩れ落ちる幽霊がいたら変だものね」


 ガンッ。ブチュッ。


「だからこうやって攻撃を辞めると」


“ヤメテ、モウヤメテクレッ”


 頭部が再生した鼠色の小男は、もはや怯えながらそう叫び始める。

「すぐに蘇って命乞いを始めたりするのよ」


 ガンッ。ブチュッ。

 叩く、潰れる。


「私の大切な友人を傷つけた怪異を、私が許すわけないのにね」

 聖母のような笑顔で、彼女は殴りつける。

 やがて頭部が再生すると、悪魔はふたたび叫び始めた。


“ヤメろッ。ソノコゾウニかけた呪イをトクからッ!”


「大丈夫よ。貴方を殺せば自動で呪いは解けるわ。ご心配なく」


“無理ダッ。オマエ如キニ、俺ハ殺セナイ!”


 虚勢を張る悪魔に対して、だが彼女は落ち着いた微笑みを向ける。

「私、こう見えても経験豊富なの」

「だから、少し手間だけど誰でもできる怪異の殺し方も知ってるわ」


“馬鹿ナッ、ソンナ方法アルハズガ……”


 ガンッ グチュッ


“ギャアアアアアアア!”


 彼女が今度潰したのは、下半身の方であった。   

 首から下がグチャグチャに潰れ、へし折れた手足がブラブラと揺れる。

 だがなまじ首から上が残っているため、悪魔はその激痛に絶叫し続ける。


“ウガアアアアッ、ヤメろォォォォォ、チクショオオオオオ!!”


 だが彼女は気にもとめず、しっぽをつまんで悪魔をぶら下げた。

 上を向いた自分の顔の上に。

「え…………?」

 見ていた優也の口から、無気力な疑問符が漏れた。

 彼女のそれが何をするための姿なのか、すぐにわかった。

 分かったが、理解出来なかった。


“嘘ダロ、嘘ダロォッ、信ジラレナイ!!”


 それは悪魔にとっても同じのようだった。

 首から下の再生が間に合わず、ただ叫ぶことしかできないその怪異は嘆き狂う。

 彼女が大きく開けた口の上で。

 

“ヤメろッ、ヤメテクダサイッ、ア、嘘嘘ウソウソソンナァ――”


 ガリ、ブチュッ。


 その悪魔の小さな首を、彼女は一口で噛みちぎった。

 

 ガリ、ガリ、モギュ、モグモグ、ポリ、ポリ、ゴキュん。


 彼女は眉一つ動かさず、頭蓋を噛み砕き飲みくだした。

 そしてふた口目。今度は首を失って微動だにしなくなった上半身。

 胸から腹にかけてを口に含むと、丁寧に噛みちぎる。

 残った下半身から内蔵がこぼれ落ちると、彼女はそれも突き出した舌で受け止めた。


 ポリポリ、グッチャ、グッチャ、グッチャ、ゴキュん。

  

 三口目は下半身。


 モグモグ、モゴモゴ、モガモガ、ゴキュん。


 最後に残った尻尾を口の中に放り込み、こくんと飲み下した。


 そして優也に向かって微笑んで言った。

「ちゃんと退治したわ、優也くん。これで今晩からゆっくり眠れるわ」

 それはただ一点の曇りもない、優也の安寧を心から喜ぶ無私の笑顔。

 それはまさしく聖女のそれであった。

 ただその頬を、1滴の血が汚している。

「な、な、な……なにやったの?」

「あれ、わからなかった? これが『誰でもできる怪異の退治方法』よ」

「は……?」

「何度も言ったでしょ。人の体は、その人の『世界観』が100%支配してるって」

「え……うん……」

「だから幽霊とか怪異とかに否定的な人の体内に入れれば、怪異は急激に力を失うの。もっとも私の場合は――」

 そこまで言ったところで、それは聞こえた。


“出シテ、出シテ、ネエ、出シテヨォ――”


 その声が。あの声が。

 君谷ほたるの体内から聞こえてくる。


“出シテ、ネエ、ココドウナッテルノ!? ネエ、出シテヨ!”

“オカシイッ、ココオカシイヨッ!!?”

“早ク出シテ!”


 だが彼女は落ち着いた様子で下腹部に手を当てて言った。

「無理よ。もう出られないわ。絶対に」

「え……?」

「私の場合は怪異や幽霊に否定的というよりは、もう少し彼らにとって『シビア』な世界観と言ってもいいかもしれないわ」

 彼女はそう言って薄く笑った。


“オカシイ、ココ絶対オカシイ!!!”

“出シテ、早ク出シテ、出シテ出シテ!!!!”

“出シテ出シテ出シテ出シテアア助ケテナニコレアアアッッッ――”


 プツリ、と途切れ。

 その声は二度と聞こえなくなった。

 彼女はにっこり笑うと、

「これにて一件落着ね」

 そう言った。

 そして優也のそばに膝をつくと、風呂敷から救急キットを取り出した。

 彼女は尻餅をついたままの優也の両足を覗き込む。

 悪魔が消滅したことによって呪いの斑点も消えていたが、傷は残っている。

「本当にひどい傷。ごめんなさい、私のせいで。でも大丈夫。私は手当も慣れてるから」

 そう言って優也の右足に触れようとして。


 優也の足が、ビクリと震えて逃げた。

 彼女の手を避けるように。


「あ……」

 優也は自分でも思ってもいなかった反応に、思わず後ろめたい声が漏れた。 

 君谷ほたるは、手を差し伸べようとしたままで固まっていた。

 強ばった表情で、ジッと優也の足のあった位置を見ていた。

「あ、あの、違うんだ。ごめん、ずっと緊張し通しだったから……」

 優也は慌てて言い繕った。

 だが彼女はしばしの沈黙のあと、ほんの少しだけ固い苦笑いを浮かべると、


「ほらね」


 と言って肩をすくめた。



       ●        ●



 彼女は優也の足が震えているのに気づかないふりをして、滞りなく手当をした。

 もちろん非の打ち所のない手際だった。

「一応、明日病院に行ったほうがいいわね」

 彼女は手当を終えると、ぬいぐるみを手早くかき集めた。

 風呂敷を背負って、彼女は言う。

「それじゃあ、お疲れ様。私はこれで帰るから。ゆっくり寝てね」

 そう言って早々と立ち去ろうとする。

 その背中を見て、優也はなんとか声をかけようとする。

「あの、あの……ありがとう。それで、あの」

「大丈夫」

 だが優也の声を遮って、君谷ほたるは言った。

「私が事件を解決すると、だいたいみんな同じ顔するから。だから気にしないで」

 振り向かずに彼女は言った。


「私こう見えても……その……慣れてるの」


 そして彼女は最後に言った。


「おやすみなさい。山岸君」



       ●        ●



 彼女が優也の家を離れて、わずか5分ほどだったろうか。

 呆然と座り込んでいた優也を、電話の音が現実に引き戻した。

 壊れてしまったスマホではなく、固定電話の音であった。

 彼は痛む足を引きずって歩き、電話器へとたどり着いた。

『大変よ、優也!!』

 母であった。


『お祖父ちゃんの容態が急変して、今病院に搬送されたの! もう危ないかもしれないから、来られそうだった優也もタクシーで病院――』


 そこまで聞いたところで、ふと優也の背筋に冷たいものが流れた。


 急に気になることが出来たのだ。

 今回のエピソードにおいて、あの君谷ほたるが唯一『大外し』をした部分についてだ。


『なるほど……猫の中だったのね。悔しいけど、正直ピンと来なかったわ。容疑者候補としては7、8番目ぐらいだったわ……』


 彼女は今回この一点のみ、大きく予想を外している。


 外している?


 本当に? 

 





 もし、という可能性について話そう。


 もし彼女を信じて、あの場で全ての作品を叩き割っていたら。


 いや、せめて熊の作品だけでも、彼女のいるときに叩き割っていたら。





 あるいは1万歩譲って。

 

 もし今晩あの時に彼女の背中に取りすがって、もっと謝っていたら。


 彼女が助けに来てくれたお礼にと、帰る前にお茶の一杯でも勧めていたら。


 そんな当然の礼儀を守っていたら。




 今この瞬間は、このような状況では訪れていなかったのである。


 その全ての『もし』を逃して、山岸優也はここに至っている。 




 バリン。



 音がした。

 遠く、家のどこかで。

 いや、間違いなく納戸から壊れる音がした。


 作品が壊れる音。

 祖父の力による加護を失った作品が、壊れる音。


 バリン、バリン、バリン。


 いくつもいくつも壊れる音。


 彼女は言っていた。

 猫は7-8番目の候補であったと。


 スマホは壊れていて、もう彼女を呼ぶことはできない。

  

 山岸優也は、恐怖でもはや振り返ることさえできない。

 


 そして背後から、ゆっくりと、


 なにかが忍び寄る音が……。 



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不気味の谷のほたるさん 白木レン @blackmokuren

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