6. 戦いの跡 -A Couple of Kisses-

 フィルは振り返る。廊下にはウィニフレッドが壁に寄りかかって立っていた。左足は折れて外側に曲がっている。腕の傷口は完全に開いてしまったようでだらだらと血が流れていた。彼女はフィルと目が合うと照れたように笑った。それから床にへたり込む。その途中で呻き声を二度上げた。

「ウィニフ。助かったよ」

「へへ」

 フィルはウィニフレッドの頭をくしゃくしゃと撫でた。黒髪の幼なじみはくすぐったそうに目を細めた。

「フィル……」

 弱々しい声で呼びかけられる。目を遣るとレティシアが薄く目を開いていた。

「ティア」

「ありがとう」

 フィルはゆっくりとレティシアに歩み寄った。切られた脇腹が焼けるように痛い。それでもレティシアの上体をゆっくりと抱き起こす。

「フィル。全部、あなたのおかげ。私がここまで来られたのも、お父様の敵を討てたのも。ルサンの街を守れたのも……」

「ううん。僕なんか、何もしていない。導師と、ウィニフと、フローレンス様もフォクツも。もちろんティアだって。みんなで守ったんだ」

「そうね。でも……」

 レティシアはフィルの胸に顔を埋めた。くぐもった声は途中までしか聞き取れなかった。

「ティア?」

 レティシアが顔を上げる。思わぬ至近距離に白い顔があった。血や煤で薄汚れている。それでも彼女は美しかった。銀色の髪が一房、汗で頬に張り付いている。フィルは右手でそれを払ってやった。同じ色の瞳が、まっすぐにフィルの方を見つめている。その中に自分の姿が映っていることにフィルは気がついた。

「……」

 レティシアが目を閉じ、顔を近づけてくる。

 柔らかい感触をフィルは受けとった。

「フォクツ様……」

 フローレンスはフォクツの顔を覗き込んでいた。心臓は動いているし呼吸もしているが、意識は取り戻していない。何しろ妖魔王の吐く火炎を至近距離からその身に受けたのだ。黒髪が後頭部を中心に焼け焦げている。魔術師のローブもボロボロで原型を留めていない。背中もどんな酷い火傷になっているか、想像するだけで胸が痛んだ。

「お願いです。目を覚まして下さい……!」

 怪我の痛みも忘れて、フローレンスはフォクツを抱きしめた。知らず、涙を流していた。淑女として育てられたため、感情を露わにすることは慎んできた。こんな風に泣いたことなどいつ以来か判らない。それでも激情を抑えられなかった。彼が再び目を開いてくれるのならば、どんな罰でも受け入れられる。泣きじゃくりながら彼の身体を抱きしめる。

「フローレンス様……」

「……フォクツ様!?」

 聞き慣れた声にフローレンスは目を見開いた。フォクツの顔を覗き込む。うっすらと目を開いていた。

「大丈夫なのですか!?」

「……ああ」

「そんなわけがないでしょう!? あの火炎を身に受けたのですよ。生きていられるのが不思議なくらい……」

 しかし心配するフローレンスに、フォクツは唇を片方吊り上げた。

「ローブの下に、魔法を付与した服を着ていたから……」

 フローレンスはフォクツの身体に手を回す。

「御無事で……本当に……!」

 フローレンスはもう一度フォクツを抱きしめた。また涙が零れてくる。そして思い出す。戦いの最中、一度だけ愛称で呼ばれたことを。けれど今はそれを胸に仕舞っておいた。

 アリステアはベナルファの隣にしゃがみ込んだ。若い助手は仰向けに倒れている。その左胸には大きな穴が開いていた。赤い液体が床に溢れ出て、血溜まりを作っている。

「ベナルファ」

 絶命しているのは明らかだった。しかしその表情は不思議と安らかだった。その端正な顔にアリステアは白い手を伸ばす。瞼を閉じ口元の血を拭ってやる。まるで眠っているような穏やかさだった。

 思い返してみれば、彼はいつも穏やかだった。アリステアはそう思い出す。知っていたのにまるで認識していなかった。彼はただそこにいて、静かに微笑んでいるのが似合っていた。

 指に付いた血で天才導師は下唇にラインを引いた。

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