5. 魔神の顕現 -The Incarnation of Devil-(3)

「フロウ!」

 むき出しの腕が灼かれる。しかし予想していたほどではなかった。

 目を開く。

 至近距離にあったのは、ゆがんだフォクツの顔だった。そのままフローレンスの方に倒れ込んでくる。フローレンスはその身体を抱き留めた。焦げた香りが鼻腔を刺激する。焦がれた彼の胸板は想像よりも厚かった。

「うわっ!」

 二対一で剣を交えることになったウィニフレッドは苦戦していた。相手も怪我をしているがとても反撃する余裕はない。次々に繰り出される大剣を受け流し、躱し続けるだけで精一杯だった。ただ、妖魔はまったく連携しておらず闇雲に剣を振るってきている。そうで無かったら、とっくに切られていただろう。

 もう幾度目か判らない斬撃に、ウィニフレッドは斜めに剣を合わせた。力を削がれた大剣が床を叩く。その衝撃に耐えきれず石床が割れ飛び散る。続く二匹目の斬撃を躱したときその欠片に足を取られた。バランスを崩したがなんとか踏みとどまる。さらなる斬撃に備え踏ん張ろうとしたとき、不意に足下の床が無くなった。

「えっ?」

 それが妖魔の唱えたタナップであることにウィニフレッドは直感的に気がついた。幼い頃からフィルに散々悪戯されてきた魔法を、こんなときに受けるとは夢にも思っていなかった。

 斬撃。闇雲に剣を出して防ぐ。しかし斜めからの圧力に握力が負け、剣がはじき飛ばされる。ウィニフレッドは丸腰で棒立ちだった。再度振り上げられる粗末な大剣を呆然と見上げる。それが振り下ろされるのを人ごとのように見ていた。

「グアァッ!」

 しかし次の瞬間叫んだのは妖魔の方だった。その醜悪な顔にリルムが爪を立てている。悲鳴と共に滅茶苦茶に腕を振り回す。暴れる妖魔から一度離れると、リルムはもう一体の妖魔の顔面に嘴を突き立てた。そのまま狭い室内を器用に飛び回りながら、果敢にも妖魔に攻撃をしかけていく。

「リルム!」

 しかしその抵抗も長くは続かなかった。妖魔が闇雲に振り回した腕がリルムに当たる。身体の小さな鴉はそれだけで部屋の奥にまではじき飛ばされた。ウィニフレッドももう武器を持っていない。邪魔者を排除した妖魔が改めてウィニフレッドの方を向き直った。

「イフリーツ・ケアス!」

「フェンリルス・サイ!」

 その瞬間、二つの高らかな詠唱が響き渡った。部屋中の魔力が二カ所に収束する。

 レティシアの頭上では炎が渦巻き巨人を形作る。異界から召喚された破壊を司る炎の巨人が抱擁せんと部屋の奥に向かう。

 一方、学院長の近くでは風雪が巻き起こっていた。吹雪の中から白い狼が召喚される。その吐息は刃物のように冷たい。

 炎の巨人と氷雪の魔狼がぶつかりあった。高密度の魔力を秘めた炎と氷が渦巻きあう。炎帝の抱擁と氷狼の吐息。魔力を糧に相手を屈服させようと拮抗する。同じ根源の異なる二つの力がやがて混じり合い、弾け飛んだ。

 爆発音が響き渡る。強烈な衝撃波が部屋の中央から全方位に放たれた。無防備に立っていたフィルとウィニフレッドは吹き飛ばされて石の壁に叩きつけられた。衝撃に一瞬息が止まる。頭を振ってフィルは起き上がる。室内では、先ほどまでの死闘が嘘のようにすべての動きが止まっていた。

 目に入ったのは満月と星空だった。

 塔の天井が吹き飛んでいた。壁もかなり崩れている。月明かりに照らされて、レティシアと学院長が向かい合って立っていた。魔力はほぼ互角だったようだ。

「悪くない……」

 銀髪の老人がぼそりと呟く。それを合図にするように、レティシアはふらりと倒れ込んだ。気を失っているのか、受け身も取れずに石床に倒れ込んで微動だにしない。学院長は呆然と立ち尽くしていた。

 フィルはすっかり変貌した室内を見渡した。机などの調度品は破壊され尽くしている。部屋の中央では倒れ込んだフォクツをフローレンスが抱き留めている。吹き飛ばされたウィニフレッドとリルムは壁際に蹲っていて動けそうにない。彼女の左の膝はあらぬ方向に曲がっていた。

 一方、妖魔王はあれだけの衝撃の中でも立ち続けていた。身体の数カ所から真っ黒な体液を流してはいるが、致命傷にはなっていないようだ。部屋の入り口からは大型の妖魔が入り込もうとしている。アスコットが前足だけで立ち上がり威嚇しているがいかにも弱々しかった。

「ふん」

 学院長はつまらなさそうに鼻を鳴らした。それを合図にするように、妖魔王は口を開き、フィルたちに火炎を吐いた。

 フィルは目を瞑った。最早なす術はなかった。しかしこれだけの大破壊が起これば軍も黙っていないはずだ。ベルントにしたところで、レティシアのことに構っている余裕がないと認識するだろう。速やかに突入し学院長を捕らえるはずだ。それだけが救いだった。

 しかし、ウィニフレッドやレティシアを守れなかったことが心残りだった。黒髪の幼なじみ。目を瞑ったままでも簡単にウィニフレッドの顔は思い浮かべられる。あの快活な笑顔にこれまでどれだけ救われてきたことか判らない。

 そしてルサンで出会った銀狼の姫。街に来てからまだ一月ほどしか経っていない。それでもレティシアにはとても世話になった。魔術のことでも生活のことでも、色々なことを教わった。その恩をフィルはまだ少しも返していない。 

 けれどいつまで経っても火炎はやってこなかった。訝しんでフィルは目を見開く。そして目にした光景に、自分の正気を疑った。

 火炎が部屋の中央で止まっていた。燃えさかる火柱が揺らめくこともなく、空中で静止している。

「学院長……」

 涼やかな声がする。そして栗色の髪の女性が、そっと空から降りてきた。ローブに身を包んだ後ろ姿がふわりと石床に着地する。その姿を見て、フィルは事態を悟った。彼女は周りの空間ごと炎の時間を止めたのだ。

「弟子の不始末の責任を取りに参りました」

「アリステア・ウィンステッド!」

 学院長が叫ぶ。有史以来の天才魔術師は唇を片方つり上げ、詠唱を開始した。聴いていて惚れ惚れするほどの速さと正確性を持った詠唱だった。

「イグナイティッド・ジャベリン!」

 炎の槍が十二本も出現する。高速で空中を滑った槍は狙い違わず妖魔たちに突き刺さった。悲鳴すら上げることが出来ず、妖魔たちは全員床に倒れ伏した。

「クッ!」

 妖魔王がアリステアに斬りかかる。しかしその動きは空中で弾かれた。リパルションに高い指向性を持たせ、部屋の反対側に押しやる。妖魔王が唸る。アリステアは厳しい目でそれを見返した。

「大丈夫ですか?」

 突然耳元で話しかけられてフィルは驚愕した。慌てて振り向くと、ベナルファがいた。

「ベナルファさん!」

「はい。フィルは大丈夫そうですね」

 ベナルファは少し表情を緩めた。

「とりあえず、部屋の外に逃げて下さい。余裕があれば怪我人に手を貸して」

 そう言ってウィニフレッドをベナルファは助け起こした。肩を貸しながら部屋の外へと向かっていく。フィルは室内に目を遣った。フローレンスが表情を歪めながらフォクツを引きずるように歩いている。その後には赤い雫が点々と零れていた。

「ティア!」

 フィルは倒れているレティシアの方に駆け寄った。呼びかけても返事は無い。外傷は無いようだが、顔色は真っ青で脂汗が滲んでいる。魔法を使いすぎたのだろう。フィルは彼女を横抱きにして扉に向かって歩き出した。壁に叩きつけられたせいで身体の節々が痛い。そのときに切ったのだろう、額から血が流れ落ちるのが煩わしい。

 アリステアと妖魔王の戦いは続いていた。部屋の中央、空中に静止した炎を挟むように向かい合う。

「フリッジド・ダンゼル!」

 アリステアが魔法を唱える。その声に応え、三人の蒼く輝く半透明の少女が空中に現れた。その手には氷の盾と刃を構えている。炎を迂回して向かってくる妖魔王に、召喚された精霊が立ち向かう。正面に配した一人を囮に、二人が斬りかかる。

 しかし妖魔王は攻撃を意に介さず、正面の少女に斬りかかった。蒼い少女は盾で受け止めるが妖魔王の剣は盾ごと少女を両断した。そのまま空中に霧となって消えていく。少女たちの攻撃も妖魔王を捉えたが、大きな効果はなかったようだ。

 手強いと見て、蒼い精霊は仕掛けずに防戦に回ったようだ。距離を取りながら妖魔王を牽制する。しかし妖魔王は口から火炎を吐き出す。それを躱した瞬間に距離を詰められる。一撃目は剣で防ぐが、そのタイミングで学院長の攻撃魔法が飛んでくる。直撃を食らった精霊の動きが止まった瞬間に、妖魔王の剣が一閃する。二体目があっさりと屠られた。

 フィルとベナルファは廊下に全員を運び終えた。レティシアとフォクツは気を失っている。ウィニフレッドとフローレンスも怪我が酷く戦えそうにない。アスコットとリルムも重傷だ。

 部屋の中の様子を覗う。三体目の少女が霧となって消えていくところだった。武器も盾も持たないアリステアはかなり距離を取り今度は精霊を十七体召喚した。魔術師である彼女は接近されると対抗する術がない。直接攻撃主体の妖魔王と差し向かいで戦うのはかなり旗色が悪そうだった。かといってフィルが飛び出したところで状況は変わらない。一瞬で切り伏せられてしまうだろう。

 フィルは部屋の奥を見た。学院長とミニョレが並んで立っている。フィルは不審に思った。ミニョレは戦いが始まってから、何の行動も起こしていない。攻撃も援護もせずに戦局を傍観しているだけだ。しかし一方でその額からは汗が滴っている。

 部屋の中央では煌々と魔法陣が光を放っている。妖魔王を召喚し終え、役割を果たしたはずの文様が未だに高密度の魔力を保っていることになる。

「サンダ・ボルト!」

 妖魔王が距離を詰めようとするところにベナルファが魔法を放つ。しかし漆黒の大剣の前に魔法の雷は四散した。何らかの魔法が付与されているのだろう。直截的な魔法攻撃は効きが良くないようだった。

 学院長やミニョレがどれほどの魔力を持っているのかフィルは知らなかった。しかし妖魔王ほどの強大な存在を召喚して従わせることが簡単にできるとは思えなかった。何らかの魔法で妖魔王の自由を奪い使役しているのではないだろうか、とフィルは予想をつけた。

 フィルは素早く考えを巡らながら、床に落ちていた剣を拾い上げた。フローレンスがウィニフレッドに貸した魔剣だ。アリステアとベナルファは妖魔王に苦戦している。いずれ押し切られてしまうだろう。しかも向こうには学院長とミニョレが控えている。何とかして状況を変える必要がある。しかし魔力はほとんど残っていないので、高度な魔術はもう唱えられない。

「タナップ!」

 一か八か、フィルは一番得意な魔法を唱えた。対象は妖魔王、ではなくその足下の魔法陣。描かれた魔術図形を渾身の力で乱し魔力の流れを分断する。幾何学的な文様が無惨に乱れた。魔力がショートし魔法陣の外へと無軌道に溢れ出す。

「ぐっ!」

 ミニョレが呻いた。断続的な破裂音が響く。紫紺の光が明滅する。

「グアァ!」

 妖魔王が吠える。その身体から漆黒の光が放たれる。妖魔王の周囲だけ光が吸収され空間が暗くなっている。ゆらり、と禍々しい瘴気が溢れ出る。

「貴様! 何てことを!」

 学院長が叫ぶ。妖魔王はちらりとそちらを見遣った。それからフィルの方を向き直った。

「感謝するぞ、か弱き者よ」

 妖魔王が口を開く。それから蝙蝠の翼を広げ部屋の奥に飛ぶ。人間は誰も動けなかった。そして漆黒の魔剣をミニョレの胸に無造作に突き立てた。声もなく、ミニョレは絶命した。我に返ったように学院長が甲高い声を上げる。

「自分が何をしたのか判っているのか!?」

「判っている!」

 フィルは叫び返した。予想は当たっていた。魔法陣を使って妖魔王を従え支配していたのだ。その魔力の管理をミニョレがやっていたに違いない。だから妖魔王はまず彼を刺し殺した。

「こんな不安定な魔法陣一つで妖魔王を支配しようなんて、考えが浅いにもほどがある!」

「貴様が! 貴様たちが邪魔さえしなければ、それでも上手くいっていた!」

 アリステアが静かに言った。

「少し誤算があったくらいで暴走するような管理をするなど、愚かにも程があるでしょう、学院長。不測の事態をカバーできるだけの切り札を持っていてこその計画です」

 妖魔王が皮翼を広げ飛び上がる。

「どちらにせよ、喫緊の問題はそこではないのですけどね」

 ベルナルファはそう言って杖を構え直した。

「人間たちよ」

 妖魔王がまた口を開く。くぐもった声ではあるが意味はきちんと理解出来る。他の妖魔とは異なり非常に高い知性を持っているようだった。

「貴方は……」

 応じたのはアリステアだった。

「妖魔王ではありませんね?」

「……ほう」黒い生き物は感心したように言った。「然り。我は人間たちが伝えるところの妖魔王に非ず。王に仕える将に過ぎん」

 フィルは学院長の方を見遣った。驚いた様子はなかった。彼はそのことを知っていたようだ。

 妖魔将が口を開く。低く、威圧感に溢れた声だった。

「我を解放した礼として、今は生かしておいてやろう」

 尊大な口調で妖魔将はそう言った。どうやらこれ以上戦う意志は無いようだった。彼としては望まぬ形でミニョレに使役され、戦っていただけなのかもしれない。

「そうですか」アリステアが平板な口調で言った。「しかしこちらは貴方を逃がすわけにはいかないのです」

「ほう。我と争うと」

「ご覚悟を……」

 アリステアはそう言って魔法を発動した。

「アラクノイド・バインド!」

 空中に蜘蛛の巣状の銀色の網が出現する。そのまま収縮し、妖魔将の翼を包み込み絡め取る。飛行の自由を奪われ妖魔将は床に着地した。

「アイシクル・エッジ!」

「サンダ・ボルト!」

 学院長とベナルファからも攻撃魔法が飛ぶ。しかし妖魔将にはほとんど効果を上げなかったようだ。一瞬たりとも動きを止めることはなく異形の怪物が走る。狙ったのは精霊に守られていないドワイトだった。あっという間に距離を詰め大剣を振るう。背を見せ逃げようとする学院長を袈裟懸けに切り裂く。真っ赤な血が噴き出した。

「貴様が! 貴様があんなことをしなければ!」

 学院長が叫ぶ。しかし妖魔王は一瞬の躊躇無くその首を切り落とした。中庭の噴水のように赤い液体が迸った。

 妖魔将が向き直る。残忍な表情を浮かべた顔からは赤い舌が覗いている。フィルたちを守るように精霊たちが集結する。

「セイクリッド・イミッション!」

 アリステアがまた魔法を唱える。聖なる白い光が打ち出され妖魔王に直撃する。

「グアァ!」

 初めて、妖魔将が苦悶の声を上げた。その黒い身体が焼け焦げていた。それを見てアリステアは片方の唇を吊り上げた。フィルとアリステアの視線がちらりと絡み合う。

「フィル」ベナルファが囁いた。「時間を稼ぎましょう」

 フィルは小さく頷いた。ベナルファに言われずとも、アリステアの意図は伝わっていた。

「天帝の祝福、神聖なる秩序の門よ……」

 アリステアが詠唱を開始する。魔力の流れが目に見えそうな程に、収斂され流れを形作っていくのが判る。

 危険を感じたのか妖魔将がアリステアへと駆ける。召喚された精霊たちがその道を塞ぐように立ち向かう。しかし妖魔将は歩みを止めずその中に突っ込んだ。妖魔将にもアリステアの魔法が脅威であるという認識があるようだ。

「ディヴァイン・エンチャントメント!」

 ベナルファが呪文をかける。精霊のものも含め、部屋中の武器に聖なる力が宿る。フィルが持っている魔剣も聖なる光を纏った。

 フィルは最後に残った魔力で自分にアクセラレーションをかけ直した。発動体を持っていない今、それが精一杯だった。手放しそうになる意識を唇を噛んでつなぎ止める。

 妖魔将の一閃で精霊が三体消し飛ぶ。しかし魔法の援護のおかげで精霊の攻撃も妖魔将を傷つけていた。黒い体液が身体中から噴き出す。しかし異形の魔物はそこに踏みとどまって精霊を一体、また一体と消滅させていく。妖魔将とアリステアを隔てる壁が、少しずつ剥がれていく。

 フィルは剣を構え直して半歩前に出る。ベナルファも杖を構えていた。考えていることは恐らく同じだった。

 最後の精霊が漆黒の大剣で切り裂かれる。フィルは奥歯を噛み締めて前に出た。

「―――ッ!」

 知らずに気合いの声を上げていた。妖魔将の漆黒の剣が迫ってくる。魔法で加速された思考と肉体がその軌道を捉える。タイミングに気を払うことなど出来なかった。とにかく軌道に剣を出して妖魔将の斬撃を受け止める。あまりの重みに腕がしびれる。続く横からの薙ぎ払いにも何とか刃を合わせる。しかしその衝撃に堪えきれず、フィルは真横に跳ね飛ばされた。刃が掠めたのか脇腹に鋭い痛みが走る。

「セラフィック・トライアンフ!」

 清廉な詠唱が完成する。

 その声に導かれるように夜空が白く光った。天から光が落ちてくる。優しい輝きだった。黒い妖魔将が純白の光に包まれる。光が中央に集まり密度を増す。

 そして弾け飛んだ。視界が真っ白に染まる。しかし熱さはまったく感じなかった。むしろ暖かな安心感を感じさせる廉潔な光だった。

「グアアアアアァ!」

 妖魔将が濁った声を上げる。全身から煙を噴いている。光がゆっくりと消え去っていく。妖魔将は糸が切れたように膝をついた。そのままゆっくりと石床に倒れ込んでいく。床に落ちた漆黒の大剣が、砂の城のように崩れ去った。

 静寂が満ちた。学院長とミニョレは既に絶命している。夜空にはまた月明かりだけが柔らかにあった。そして輝く満天の星屑。荒廃しきった塔の最上階にほのかな光が降り注ぐ。

 アリステアがふらつく。ベナルファが駆け寄ってその身体を支えた。そのままアリステアはしゃがみ込む。連続で高難度の魔術を唱えていたからだろう。彼女といえども消耗は隠しきれなかった。

 セラフィック・トライアンフ。フィルも名前だけは知っていた。天界の光を呼ぶ聖なる凱歌。半ば伝説視された現存する最高難度の攻撃魔法。

 ベナルファも隣に膝をつき、心配そうにアリステアの顔を覗き込んでいる。彼も同じく消耗が激しいようだった。それでも導師のことを気遣う姿には、深い慈しみが感じられた。

「アリステア導師!」

 暗い闇が蠢動する。フィルは叫んだ。妖魔将が立ち上がり爪を振りかざしていた。アリステアへ向かって一直線に向かっている。

「くそっ!」

 フィルは駆けた。しかしどう考えても間に合うような距離ではない。妖魔将の右手の爪が真っ直ぐに伸びていく。

「―――ッ!」

 しかしその爪がアリステアを切り裂くことはなかった。

 ベナルファが導師と妖魔将の間に立ち塞がっていた。その背中には褐色の爪が突き出ている。

「ベナルファ!」

 アリステアが叫ぶ。彼女の緊迫した声をフィルは初めて聞いた。その声に応えるように、ベナルファの身体が一度痙攣した。口から大量の血液が吐き出される。

 妖魔将がもどかしげにベナルファの身体を投げ捨てる。フィルは魔剣を構えて、導師と妖魔将の間に立ちふさがった。

 右の爪が振りかざされフィルに向かってくる。魔剣を横に構えてそれを受け止める。重い一撃に左足が半歩下がる。体勢が崩れたところに、今度は左手が伸びてくるのが見えた。やけにゆっくりと動いているように見える。しかし反応は出来なかった。フィルは死を覚悟した。

「グアァ!」

 しかし次の瞬間、悲鳴を上げたのは妖魔将の方だった。その胸に矢が突き立っている。フィルの首の横。ほんの僅かな隙間を二本目の矢が通過する。狙い違わずまた妖魔将の胸に命中する。

 廊下の壁に寄りかかり、右足一本でウィニフレッドは立っていた。手には使い慣れた短弓。痛みに痙攣しそうになる身体を気力で押しとどめ、魔法で聖なる力を付与された矢を妖魔将に射る。三本目の矢が妖魔将の右目に突き立った。

 妖魔将が一歩後ろに下がる。戦いの中で初めて彼が後退した。

 フィルは剣を構え直し、その胸に魔剣を突き立てた。

 妖魔将はその刃を両手で握りしめた。引き抜こうとするかのように、手が傷つくのも厭わずに力を込める。しかし剣は握力に堪えきれず中程から二つに折れた。刃は胸に残ったままだ。

 そのまま妖魔将は後ろに下がっていく。背後には、空間ごと時間を止められた火炎があった。その渦に飲み込まれていく。

 凍結された時間が再び動き出す。

 妖魔将の身体が砕けていく。その端から黒い砂のように飛散していく。まるで、闇夜の中に溶けていくかのようだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る