第36話 気息奄々

 私には生まれた時から決められた道があった。自由な道などはなかった。でも、不自由な事もなかった。代々、小児科医の家系だった為、お父様もお母様も私には目もくれず、仕事だ、付き合いだと、小さな頃から私を一人にした。それでも、家にはたくさんの人が居た。だから、寂しくはなかった。どんなに忙しくても笑顔で私の話を聞いてくれる人ばかりだった。きっとそれは優しさなんかじゃない。それも仕事だと、子供の私は気がついていた。大きな屋敷に広大な敷地。小さな小川が流れ、異国の桜という木が数本あった。春の暖かな風に乗って舞い上がる花弁が美しく、私はその中でゆっくりと成長していき、本来の心をひた隠した。

 お父様もお母様も出席しない誕生日も、記念日も、豪華な食事にプレゼントが用意されていた。大きなテーブルを前に私ひとりが座る。欲しい物は全て手に入れる事が出来た。友達なんていらなかった。大人がちやほやしてくれたから、そんなモノは要らなかった。


 青錆の生えた青銅の壁飾りが鼻の奥に尖った匂いを残す。やけに軽く、手応えのない感触が両手に残る。片手に握られたナイフは血の香りがこびりつく。薄暗くカーテンの隙間からの光だけが所々に日を差した。部屋は噎せ返る匂いに侵され、ちりじりになった薔薇の香りが相まって重く降り注ぐ。ゆっくりと滴り落ちる雫。血溜まりが真新しさで、まだ鮮やかな色を描く。まるで芸術品のように私の目には映った。ベッドルームのキングサイズのベッドの上に転がり腹這いになったお父様。ドレッサーに覗き込むように目を見開き神に祈るような形で項垂れたお母様も。どれだけ声をかけても、もう振り向きはしなかった。

 

 お母様の背にしがみつき、私は、こう言ったんだ。

「……これでずっと一緒に居られるよね? 僕は、もうひとりじゃないよね?」


 三面鏡に映る私は、返り血が白いシャツに不規則な模様を残して、とても素直な気持ちで笑っていた。


 ああ、そうそう。ただ、どうしても欲しくてたまらないモノがひとつだけあったんだ。私には、どう足掻いても手に入らなかった物があったんだよ。


 それは―――純粋な愛だった。



 *****



「ニアあああ~! 居るなら返事しろよ! 二ア~!」

 ニールは無機質な、だだっ広い部屋で大声を出し叫ぶ。ミッドセンチュリーモダンとでも言えばいいのか? 厭味な程に整えられたソファーやテーブルが並ぶ。素晴らしく値段が高いとだけ分かる家具に、何処かの事務所を思い出す。


「こういうのは俺は虫唾が走る……」

「ニールくん、顔と声に出ていますよ?」

「……うるせえよ、俺は精一杯の嫌味で言ってんだよ」

 苦笑いを浮かべ、ニールはテーブルの上のキャメル皮のカバーの本を手に取る。中を確認するが、ごく普通の医学書。何も怪しい事もない。元の位置に本を起き背後に感じる嫌な雰囲気に、掛けてあった漆黒のサテンカバーを思わず引っ張り落とす。そこに現れたモノに、ニールは後退りをし目を大きく見開く。全身から湧き出る汗が嫌に鬱陶しかった。


「なんだよこれ…… 趣味悪いなんてもんじゃねえぞ?」

 幻を見ているのだろうか? カバーの外れたそれは、ガラス製の大きな水槽だった。その中に絡み合うマーメイドのとても趣味の悪い石像がオブジェのように飾られている。苔も汚れひとつない不気味な佇まいに心底嫌悪感を抱く。底に沈む木の葉のようなモノが薄く煌めく。それは全て鱗だ。見覚えのある鱗。ひとつふたつじゃない、無数の青白く光る中に琥珀の儚い色に変色したモノも見えた。その鱗と鱗の間に白く浮遊する肉片らしきものが見える。それは背を徐々に冷たくさせていく。これは自然に落ちたモノでは無い。容易に、ニールの頭に傷付いたマーメイドの姿が想像ついた。痛々しく剥がれ落ちた鱗は悲しみの色を産む。ニールは目を伏せるようにして水槽の部屋を後にした。


 しばらくして、ガラスケースの並ぶ部屋に辿り着き、ニールはその状況に声を上げることは愚か、言葉を忘れてしまったように動けなくなった。

 数カ所の蛍光灯の明かりが漏れている。歳の頃だと十歳前後だろうか? 真っ赤な髪をした少女が横たわる。両腕に激しく抵抗した時に出来たであろう痕。痩せ細った足に重みのある足枷。その現実にニールは首を捻り、目をきつく閉じ歯を食いしばった。ニールは少女から見える終わらない悲痛な叫びと、赤く滲んだ肌を目の奥に残像のように焼き付けた。

 叫んだところで、怒りをあらわにしたとして、それは全て全て、後の祭り。逃げられない恐怖は大量の熱を帯び、諦めという残酷な結末を産む。


 次のガラス製のケースには、真っ赤な体液を収納した瓶がラベルが貼られ並べられていた。ラベルには数字が刻まれ、ご丁寧に写真が置かれていた。その横には、シャーレに赤黒い宝石がカットされたモノとそうじゃないモノを分けて置いてあるのを見てニールは核心ついた。「ニアが居る」と。


 いくつものガラス製のケースを覗き見ていくと、数箇所に点滅する光が見える。そのひとつにさっきの写真の少年が力なく横たわり薄目を開け、口からは何かを呟く声が漏れていた。この子はまだ生きている。ニールはその少年の声を聞こうと耳を傾ける。

「お……兄ちゃ……ん……アダ……ムお……兄……ちゃん……」

 この子が『グラン』か……まだ間に合うな? 大丈夫だよな? ニールは呟くようにケースに手を添えた。


「アダム! どこに行っちまったんだよ! いい加減にしやがれ!」

「あ〜! ニールさん! もう~また俺のこと置いていくんだから! なんですか? この部屋? ケースがいっぱいですね〜 ペット・ショップみたいな~……」

 周りを見渡し、アダムが頭を掻きながら部屋に入ってくる。呑気なアダムに苛立ち、ニールは少し大きな声で怒鳴った。

「呑気なこと言ってる場合じゃねえぞ! アダム! この子がグランか?」

「……え? ……まさかこの子が……ああ、グランくん!」

「やっぱり、彼がそうか……」

 真っ青な顔をしたアダムはガラスケースの中に釘付けにされた。前のグランの姿とはまるで別人。顔は青白く、それに負けないほどの白い髪。そして、虚ろなアイスブルーの瞳。あの笑顔はどこにもなく、アダムはガラスに両手を付き、悔しそうな目を向けたまま黙りこくった。


「ニールくん! ……この子は?」

「ウィリアム…… この子がグランだそうだ……」

「そう……ですか……そこを退いてください………今、開けますから」

 ガラス製の扉をウィリアムは、いとも簡単に解錠し悲しげな表情を浮かべ目を伏せた。


「ニアは何処なんだよ?」

「この部屋に何処かだと思うのですが……私は気になる事がまだあります。もう少し、あちらの部屋を調べます……」

「おい、ウィリアム……」


 アダムは力なく横たわるをグランを抱き上げ、何も言わずにニールを見上げる。やっとの思いで零れる言葉は震え潤んだ。

「ニールさ………ん……」

「オマエ……此処から離れるなよ……いいって言うまでだ! それまでその子を抱きしめてやれよ……それから、そいつをもう離すなよ?」

 言葉を一言も話さずに強く頷くアダムを背に、ニールはもうひとつの点滅するケースに近付き中を見て大きく舌打ちをし、ガラスケースを強く蹴る。血で書いた『大丈夫だよ』の文字と不格好なうさぎの絵が書かれていた。乾いた血は黒くなり所々が、ひび割れ今にも剥がれ落ちそうになっていた。

「此処に居たんだな……どこに行っちまったんだよ? なあ……ニア……」



 天井から吊るされた籠の中で足枷を付けたニアが目覚める。耳が痛い。片目が光をうまく取り入れることが出来ずに疼く。呻き声を殺すことが出来ずに、ニアは毛布に顔をうずめ声を漏らす。

「っ痛……痛いよ……また此処にどうして?」

 右目を強く擦ろうとニアは手を動かそうとした時に強い力で腕を掴まれた。

「いやあああああ! もうボクに触らないでえええ! やめてよ! これ以上ボクに何もしないで!」

「擦ってはいけませんよ? それから、そんなに騒がないで下さい……ニア……」

「……え? ……ウィリアムさん?」

「はい、私ですよ」

「もう、ボク……ダメだと思った……」

「大丈夫です……ニア一緒に帰りましょう…」

「……感動の再会で良いところを邪魔するようで悪いがそういうのは後だ!」

「……ニール!」

「やっぱり、私たちの事がバレましたか?」

「……その様だぜ? ぞろぞろぞろぞろ……ありゃいったい何人いるんだろうな?」

「ニア……必ず、後でまた来ますよ……安心してください」

「うん……ウィリアムさん!」

 ウィリアムはニアの頬を優しく撫でると、目つきが変わり振り返ると素早く部屋から出ていく。残されたニールとニアは呆気に取られ顔を見合わせる。ニールはゆっくり揺りかごを揺らし、力を抜き笑う。


「ニア……」

「……ニール、ごめんなさい」

「なんだよ……何謝ってんだよ? ……オマエが謝るとからしくねえな? 明日は大雪か? まあそれはそれで良いかもな! 春の雪も綺麗だろうな」

 ニールが首を軽くかしげ、とても柔らかな笑みをこぼす。そんなニールをニアは困った顔をして上目遣いになり、小声で小雨が降るみたいに呟いた。


「ボク……迷惑かけちゃ……たよね……」

「迷惑? それはオマエが決めることじゃないだろ?」

「……だって!」

「迷惑って言うのはな、こっちが決めることなんだよ! オマエが勝手に決めるなよ!」

 ニアの頭を強く鷲掴みにした後、髪をぐちゃぐちゃにして思い切り撫でる。ニールは何も言わずにジャケットをニアの頭に掛け、腕まくりをして振り向かず部屋を出ていった。ニアの目には、ニールはカッコよく映った。ニールが白衣の男達の方向に走っていく姿が、背中が文句無しにカッコ良かった。



「おい! オッサン! コルトレーンって奴はどいつだ!」

「此処には居なさそうですね!」

「って……オッサン! 人間相手にも容赦無しかよ!」

「悪いモノは排除あるのみでしょう……ニールくん、お構いなく!」

「お構いなくって…… 別に止めやしねえよ! ただ殺すことも、生かすことも、俺の知ったことじゃないからな!」

「まじないだけじゃないんですね……君はとても美しく、強い。惚れ直しそうですよ? ニールくん!」

「はあ? そりゃどうも。それと、その言葉そっくりそのまま返すぜ?」

「お構いなく……間に合っています」

「喰えねえ奴だよ……オッサン……」

 ニールは白衣の男達を蹴り飛ばし、惜しみなく力いっぱい殴る。勢いのままでローリングソバットを決めニールは楽しそうに笑い、ウィリアムは日本刀で男達の脚を斬り、容赦なく腕を削ぎ落とした。時折二人は背を合わせ息を整える。楽しそうなウィリアムにニールは呆れ、ウィリアムはニールに感心をした。


 *****


 床に横たわり手の力だけで逃げようと動く。真っ白なクリームを流した様な滑らかな大理石に、赤く掠れた跡がベリーソースを付いたように鮮やかなに彩っていく。

「あ〜あ〜 ……面白くないね〜 人間が虫けらの如く、のたうちまわっちゃって! みっともないったらないね?」

「私は楽園を作りたかった…… 私の理想郷を…… あの子と私は幸せな時を……」

「理想郷ねえ……」

「ひとりでここまで築き上げたんだ……」

「親殺しが何言ってるの? あの時、契約したじゃない? これって契約違反だよ? 好き放題もここまでにしなくちゃ…… だよね? コルトレーン…… アンタはやりすぎたね? それに、あの子は売り物でしょうよ?」

 少年は一人掛けのソファの肘掛けに器用に座り、血で濡れた日本刀を肩で担ぐ。見下ろす目は冷たく、呆れた顔は溜息を吐いた。床に這いつくばったコルトレーンを見下ろす少年は、今にもこの世を引き裂きそうな感情をあらわにする。そこに、ニールとウィリアムが到着し、ニールは眉をひそめ少年を見る。


「……おまえ、まさか…… あん時のガキか?」

 ニールは父ヴァインを殺めた子供の姿を見ると背筋が痺れる感覚を思い出し、声を荒らげる。


「あらら! ニール・クインテット! 奇遇だねえ~? アンタもコイツに用事があるのかい?」

「だったらなんだって言うんだよ! そいつを俺が倒したら、次はオマエだな?」

「ごめんね? それは無理なお願いだよ! 譲ってあげるわけにはいかないな~! こっちだってコイツだけは許せないんだよね? 僕等の獲物だからねえ……アンタとのお遊びはまた今度ね! それに、もうコイツは瀕死でしょ? ……それから後ろのアンタさあ……ウィリアム・ロズだろ? こんな場所でアンタを見れるなんてねえ……良いモノが見れたよ!」

「なっ! 勝手な事を言うなよ! そいつはオマエにゃ渡せねえよ! ……ウィリアム・ロズ? ロックの間違えだろうが! クソガキ!」

「あらら! 無知にも程があるよね? まあいいや! 僕の邪魔するなら、それはそれで構わないけどね! 今のアンタじゃ到底、僕等には勝てやしないよ? ましてや……不完全なアンタじゃダメだ! 弟を連れておいでよ? シモン・クインテットは覚醒したんだろう? ……けどね、やっぱり今回はダーメ! じゃね! じゃーねえ! ニール・クインテット!」

 180センチはある大の大人を軽々と肩に担ぎ上げ、少年は耳を圧迫する音と共に消えてしまった。滴り落ちる赤い血はあの時を彷彿させ、ニールは身動きが取れない。少年に言われるまで背後にウィリアムが立っていることにすら気が付かなかったのだ。


「ロイヤル・ミリオネア。彼が全ての黒幕でしたか……」

「ロイヤル・ミリオネア? ……それよりアンタは一体ナニモンだよ?」

「それは今は大事な事ではありません。それよりも、闇売買の大元は……人間じゃなかった……そういう事です」

「て、事は…… 持ち帰りの案件だな?」

 苦笑いを浮かべ、ニールはその場に脚をふらつかせ倒れそうになった。ウィリアムが即座に肩を貸すと、もう片側でぶつかる様に抱きつくニアが居た。

「……ニアもオッサンも一緒に此処から帰るぞ! 早く事務所に戻ろう」

「そうですね……ここも時期に閉鎖される事でしょう……」

「ふらふらのよれよれのニールにはボクが必要でしょ?」

「うっせえよ……」



 目蓋と鼓膜に残る絶望よりも、心に染みつく幸せを今は。視界から消えたに過ぎない恐怖も、またはひとつの楽しみが遠のいたとして。幾度も調整を重ねて成長していき、ようやく自分のモノにする。皮肉な事も、まろやかなメロディーも穏やかな時間をつくる。終焉はまだまだ遠い。だけど、今は少しの休息を。傷付くのはもう少し後でいい。


 化かされた幸せは、刻一刻と忍び寄る陰に俺は揺るぎない思いを募らせた。掠れ気味の声で笑うあの少年の目を忘れることなく。

 そして、冬は終わりを告げた。






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