第35話 眼光 人を射る

 大きな飛行機に乗ったことある?

 

 ボクはまだないんだ~。近くで見た事もないんだよね。いつもビルとビルの間、遠くの空に飛んでるんだ。あの自信に満ちた姿にいつも憧れるんだ。太陽の下で大きく翼を伸ばしてあんな風に飛ぶ事が出来ればどんなに楽しいだろう?

 

 もしも此処を出ることが出来たらね?

 空港に行ってみたい。そこで寝転がれるくらいに大きなランチシートを広げてさ。美味しいお茶とホットサンドとたくさんのカラフルなデザートもいっぱい用意してね。みんなと一緒に食べたら、きっと何よりも美味しいと思うんだ。


 ニアは床に視線を落とし、嘲笑う。

 

 ニール…… 甘いだけのお茶飲んだりしてない?


 ボクが居ないからって、寝癖つけたままで平気な顔して外に出たりしていない?

 

 今度のティータイムに入れたいお茶があるんだ。それまで、ボクを待っててくれるかな? みんな待っててくれるかな?


 ボクじゃなきゃ出来ないティータイムをまたみんなでしたいんだよ。


 ******


 最初から分かっていたよ。

 そんなことは分かってはいたんだよ。

 ただな、ここまで頑なに閉じなくても良くないか?

 固く閉じた大きな扉は開かない。うんともすんともとは、まさにこれの事だ。アダムの首から下げたIDパスは勿論使える筈もなく、此処で立ち往生か? と思ったが…コイツを使わない訳には行かないでしょ? とニールは悪戯な顔をしアダムの肩を叩く。


「……ニールさん、それ……本気です?」

 アダムの言葉に満面の笑みで返すニールは何も言わない。嫌な予感しか漂わない、ニールとアダムの微妙な時間がしばらく流れる。


「看護師や医師のフリして薬や器具を持ってきました! って……そんな馬鹿でも思いつきそうにない事でこの扉が簡単に開くはずないでしょ!」

 ニールは笑いそうになるのを我慢してインターホンを指さした。そのインターホンをじっと見つめてアダムは一度大きく溜息を吐く。そして諦めたように苦笑う。


「行けって言うんですね? もう俺はどうなっても知りませんからね? いざとなったら俺だけでも逃げますからね? ……こんな事でこの扉が開いたら俺は役者辞めてコメディアンにでもなるよ」

 ぶつぶつ文句を言いながらも髪を気にして手櫛で整える。シワのよった白衣を丁寧に伸ばす。眼に力を込め、一度両手で頬を叩き顔を引き締める。やる気に闘志はいらない! 当たって砕けろ! ……って本気? 俺。とアダムは思った。


「そこでちゃんと見てて下さいよ!」

「子供かよ!」

「もう~ どうにでもなれ! ……んん! ……あ〜 新しい器具や薬をお持ちしました! すいませ~ん!」

「文句ばっかだな……成功したらケーキ屋で好きなものを買ってやる!」

「……それじゃ、子供のおつかいじゃないですか!」

 何度も何度もニールを確認しようと背後を振り返り情けない表情に裏返る声。コイツはこれで大人気俳優だと、本当に世の中が信用出来なくなってきた。だが、世間でいうよりも真面目でいい奴だとニールは微笑む。


「ニールくん、あまりアダムさんを虐めない方が良いのではないですか? いくら焦っても加速しない時はしないのですよ?」

 とても優しい言葉をかけるウィリアムが片手に力強く握る日本刀のおかげで説得力を全て台無しにしている気がしてならないと、ニールは苦笑いをし、左の袖口のボタンが気になるのか、ゆっくりと外すと苦笑いをした。


「あ〜 えーっと……新しい器具と薬をお持ちしました!」

 セキュリティの開閉音が鳴り、赤から青にランプの色が変わる。


「あ〜 ……なんだか簡単に開きましたね」

「おや…… すんなり開きましたね?」

「お? よし! アダム! 中へ行け!」

 すんなりとスライドして開いた扉は重苦しい音もなく開き、薄暗い部屋が見える。開いたことによってアダムは呆気にとられ、ウィリアムは薄らと微笑み感心をした。振り返りニールに何か言いたそうなアダムに、当たり前のように命令するニールは些かやり過ぎ感を背中に背負いながらも何故か逆らえないアダムは頭を掻き苦笑いをした。


 開けたドアの先には、髪を上げた着衣の乱れた、如何にもな事務員と緩んだネクタイを締め、眼鏡を掛け直す中年の医師が驚いた顔をしていた。

 

 そりゃそうもなるだろう。

 胡散臭さ満載の無精髭の長身のスーツの男。どこかで見覚えのある、妙に色気のある若い白衣の青年。日本刀を片手に冷静にこうべを垂れる初老の紳士。バラエティーに飛んだ如何にもなパーティーだ。このパーティーに驚かない方がおかしいのだ。


「貴方達はなんですか! その手にしている物は医療器具と薬じゃ無いですよね?」

「この部屋はなんだよ! ……資料室か? やられた! ニアが居るのは此処じゃねえのかよ!」

「あの…… 人の話を聞いていますか? だから貴方がたはなんなのですか! 質問に答えないのなら警備員を呼びますよ?」

「いえ、呼ばなくて結構です。少々部屋を間違えたようですね。それよりも此処にコルトレーンは居ないのですか?」

「医院長? ……此処には居ませんよ! こんな場所に来るはずないじゃないですか!」

「では何処に行けば、お会い出来ますか?」

「あああ! 埒が明かないだろ! 振り出しへ戻るのも俺は勘弁だ!」

 アダムは慌てた顔でウィリアムを見て、ニールはわざとらしく舌打ちをする。


「……ニールくん。目に見えるモノだけが真実ではありません。それは前にも言った筈ですよ」

「なるほど! そういうことか……」

「え? どういう事ですか!」

「この身を波に委ねろ! そういう事だろ? ウィリアムさんよ!」

 ウィリアムの言葉に、ニールの目には迷い等は一切消え、不安も焦りも何ひとつ残らない。その顔を確認するウィリアムは鋭く奥の部屋を見つめた。


 *****



 今宵の月は雪の交じえる。とても幻想的なモノとなっていた。ビルの明かりの所々が消えていく中、窓の外をいつまでも見上げる、柔らかな麻の生成り膝下までのワンピースに身を包んだティノがソファーに座らずに寄り掛かる。ガブリエルが柔らな香りのするマヌカハニー入りのホットミルクをそっとサイドテーブルに置く。湯気は白く、空気に馴染んで時折スパイシーな香りをさせた。その香りは、空気にゆっくりと馴染むように流れるハーブ・アルパートの音楽も上の空にさせる。シモンは静かに本を読み、窓の外を見るティノの後ろ姿と、いつまでも降り注ぐ月の明かりに静かに目を伏せた。


 言葉だけでは言い尽くせない、言葉だけでは表現出来ないことなんてものは、この世界にはごまんとある。


『咫尺を弁ぜず』

 よく言ったものだね。視界がきかず、ごく近い所もはっきりと見えないんだ。人は落ち着きのある行動をしなければ失敗する。

 焦らないで……ニール。僕は神に祈ることくらいしか出来ないけれど、思っているよ?

 いつもいつも……僕はそう思っているよ。



「ニア…… 空の冷たさに今夜は吸い込まれそうよ…… 戻って来なかったら、あの大きなクマちゃんアタシがもらっちゃうんだからね? だから早く帰ってきて……」

 手に強く握られた、あの日の女王陛下のコインが叫び声を上げそうなティノの心に染められそうだった。


 ーーーーー


 目が覚めて、身体中に流れ出す現実に繋がる虚しい嘘。無理に取り繕った所で何が変わるの? 変わらないのに……何も変わらないのに。

 止めどなく溢れる涙が目に強く染みる。針を刺すような痛みで腫れた瞼は痛々しかった。右目を片手で押さえ、コルトレーンの前で睨みつけるニアは強がるように吠える。


「ねえ? コルトレーンさん…… ボクに彼の体液を使ったんだね?」

「おや、もう目が覚めたんですね?」

「右目がずーっと拒否反応をおこしてるんだよ…… 痛くて仕方ない!」

「瞳だけには……適合せず、ですか。これは使えませんね」

「だけって何? 使えないって何? どういうこと!」

 コルトレーンがキャメル皮のカバーがされた本を読み、少し離れた場所に立ち尽くすニアの声に気がつくと、本に丁寧に栞を挟み膝の上に静かに置く。フォーマルなスーツも、きちん整えられた髪型も、苛立ちと上品な香り立つ香水に今にも胸焼けを起こしそうだった。ぐるぐると辺りを揺らす眩暈が頭をどうにかしそうだった。あの赤く引き攣った瞼の傷はどこに消えた? ニアはコルトレーンを見て、そう言うのをすぐに我慢する。ニアは肩で息をしながら右目の痙攣するのを不快に感じ、時折辛そうに天井を仰ぎ見た。



「うわあああああああああ!」

 突然、グランの叫び声が部屋に響き渡る。


「グランくんに何したの?」

「暴れたので少々手荒な処置を施しました。貴方にはそういえばよろしいかな?」

「何を……いったい何をしたんだよ! コルトレーン!」

 慌ててガラスケースの前まで駆けて行くと、虚ろな目をしたグランがニアの瞳に映り込んだ。

 前の姿とは打って変わり果てた姿。グランを目の前に、ニアは言葉もなく躊躇する。真っ白な髪に真っ白な肌。濁ったアイスブルーの瞳は遠くを見つめる。無数の管に繋がれ、拘束されたグランが力なく座っていた。だらんとした両腕に項垂れた首。それはまるで、糸の切れたあやつり人形のようだった。


「グランくん! ねえ! 聞こえる? ボクだよ! ニアだよ?」

 ガラスを力いっぱい叩くが、グランの耳には何も届いていないようだ。


「しばらくすると正気を取り戻すことでしょう。今は、夢か現実かを分からずに彷徨っている頃でしょうね……」


「夢か現実か……だって?」

 ニアはその言葉に身震いがし、歯を食いしばり頭を下げ目を強く閉じると、あの出来事が走馬灯のように流れていく。身体をまさぐる感覚を。苦味のあるウォーターサーバーの水を。揺れる天井を。ニアは正直やられたと思った。完璧な段取りで仕組まれた夢。本当の出来事。全てが現実。


「コルトレーンさんは本当に趣味の悪い勝手なことばっかしてくれるじゃない? 」

「おや、お気に召しませんでしたか? まるで騙していたみたいな言い草ですが……私は貴方がたを素敵な夢の遊びに招待しただけの事。夢は美徳。素晴らしいことです。逃げ出すことはないのですよ? 現実は罪。偽りは蜜。そういうことです……」

 コルトレーンの目は笑うことを知らない。口元だけが歪み、軽く手を叩くと数人の男達がニアの前に覆い被さるようにコルトレーンとの間に立ち塞がった。


「……なっ! 触るな! 離せ! ボクに触れないでよ! コルトレーン! 汚いぞ! 自分よりも弱い人間にばかり手を出して! やめてよ! 離してよ!」

 男達がニアを取り囲み、腕や肩を、そして髪を掴む。首根っこを強く押し下げ体制を低くし、引き摺られるようにしてニアはガラスケースに無理矢理、押し込まれた。ニアの瞳に何処かに去っていくコルトレーンの後ろ姿が映る。


「……コルトレーン!」

「一度、ゆっくりと頭を冷やすといいですよ…… すぐに気持ちは変わり、私に縋りつくことになります」

 叫び声はガラスを通してコルトレーンの耳に届く。振り向きもせずにアルコールペーパーで手を拭きコルトレーンはどこかに行ってしまった。


「こんなのってずるいよ! 汚いぞ! ボクをここから出せえええ! ……出してよ ……どうして…… もうこんなのイヤだよ。閉じ込めないでよ! ここから出して……」

 ニアはガラスケースを数回、力いっぱい殴るが傷は愚か、びくともしないことに気が付き、すぐに諦めてしまう。

 時間が攫って頭の中の妄想が満たしておかしくなる前になんとかしなきゃ。ニアは片腕を掻き毟り、自らの赤い血が出る事を確認する。血を指先で掬い取りガラスに何かを書いていく。本当は笑えないのに、ニアは静かに笑みを零した。


「グランくん、ごめんね…… ボクのせいだ…… 君だけでもなんとかして出してあげる」

 転々と落ち、紅く染まるニアの感情は限界を超える。月の満ち引き。波飛沫の感情は淡く泡となり叫び声を産む。もう理屈は通じない。揺れる呼吸と理由は、あやふやな涙となって落ちる。限界のその中で、そっと雫を手に取って差し伸べてニアはただ白い壁を見つめることだけを繰り返した。


 早くしなきゃ、ボクの心が持ち堪えるか自信が無い。奇跡は起こらないんだ。だから、乗り越える強さが……ボクは欲しい。


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