第34話 春暁ペンデュラム

 揺れる白い天井。


 初めに此処に連れて来られたあの時と同じ感覚を思い出し、痺れる心臓が口から今にも出そうだった。


 揺れは同じ間隔で引いては押すを幾度も繰り返す。揺れる度に鎖の錆びた臭いを撒き散らして、酷く噎せ返る。飛沫するそれを吸い込めば、肺から全てを蝕み、心ごと腐っていくのではないかと錯覚するのだ。


 恐怖は増殖する。鼓動は激しくなり、身体は次に何かが起こる事に敏感になり自然と身構えた。無防備な時間はニアを孤独へと導く。


 まだ大丈夫。そう言い聞かせニアは強がる。


 大きな壁が高く立ち塞ぐ。


 此処を越えれば命はないよ? と、コルトレーンは何も言わないで、目だけでニアの瞳を捉え、黒い革張りのソファーの前でローブを脱ぎ、それをテーブルに無造作に掛ける。フォーマルなモスグリーンのスーツ姿でコルトレーンは腰を下ろし脚を組む。


 目だけで話すなよ…… こういうの苦手だし、気味悪いんだよ。もう、本当にうんざりだ。発作的に、ニアは口元を歪め笑いそうになった。すぐに手を添えて大きく息を吸い込んだ。

 うまく言葉にならなくとも身体は正直でニアは手に汗を握り、ニアとコルトレーンは睨み合いを続ける。


「さあ、もう遊びは終わりましょう!」

「ボクはまだまだ何も楽しんじゃいないよ? これくらいで楽しんでるなんて思わないでくれるかな? 本当バカにしないでほしいな〜 楽しみはこれからなんでしょ?」

 静かな表情のコルトレーンがニアを見ている。ニアの強がる言葉は消え、すぐに空気に馴染んでしまった。ニアは怯み、膝が痺れて今にも崩れ落ちそうだ。


「逃げようとしなかった事は褒めて差し上げましょう。ですが、もう時間切れです……」

 

 コルトレーンの低く落ち着いた声が頭上に降り注がれる。その言葉のひとつひとつを頭よりも先に身体が感じ始める。痛さや苛立ちにも似た、それは茨のように長く身体中に絡み巻きついていく。冷や汗がうなじから首筋を伝い背中まで辿り着く。全身を血の気が引くことですべてが撫で落ちてゆく。まるで黒く濁った何かが床を這い逃げていくように、ニアの目に映る。床の冷たさが足の裏から急激に吸収し、体温を奪って身震いをする。ニアは慌てて籠の中に逃げ込み、毛布に包まると身をふたつ折りにして膝を抱えた。身体の露出を覆うだけで人は落ち着くものだ。こうやって縋る事でなんとか意識を保ちたいのだ。人間の内面など見えてはいけない。ましてや、悪意に満ちた事は尚のこと。


 そんなニアの腕をコルトレーンは掴み、無理矢理にあのガラスケースの前に引きずり出す。勢いよく倒れたニアはケースを見上げ今にも零れ落ちそうな涙を大きな瞳に溜める。


 ニアは瞳に映る光景に、身動きが取れなくなった。


「彼の血は貴方と私を生かす大事な大事な素材だ。売り捌くよりも有効利用させましょう。喜びと美しさで世界は変わる! 宝石のような貴方が私の心に潤いを与え永遠のパートナーになるのだよ…… もう貴方には何処にも自由はないのです。お分かりいただけますか?」


 時計の秒針の音だけが無音の部屋に響き渡る。ガラスケースの中で静かに眠る白衣に包まれたグランの身体から無数の細く長い管が伸び、数本のガラス製の瓶の中にゆっくりと滴り落ちていき、赤い体液を溜め込んでいく。真っ白な部屋はそれらをより一層美しく残酷に演出させ、それを見たニアの瞳から涙が零れ落ち、感情と表情の色が消えていった。


 *****


「此処なんだ? さっきから同じ所を行ったり来たりしてねえか? おい、どうなってんだ? これ! 時間がねえんだよ! こんな所で躓いてる場合じゃねえんだ!」

 ニールは階段を駆け上がると同じ部屋に戻され首を傾げる。何年も何日も繰り返し探している気分になっていた。焦れば焦るほどに迷い込む。長く白い廊下に眩暈がする。目を閉じ心で感じろ! 目に見えるモノは信じちゃダメなんだろ?


「遊園地のトリックルームに入ったみたいだ! グランは本当にここに居るんだろうか? 無駄な事をしている気がする……」

 扉を開け廊下に出ると同じ場所に戻される。階段を見つけて下ると同じ場所に戻され溜息が漏れ額の汗を拭った。アダムもニールと同じく、同じ所を何度も廻っている感覚に押し潰されかけていた。



「おやおや、ニールくんがやっと来ましたか。此処は面白い仕掛けがいっぱいですね? ですが…… まだまだ詰めが甘いですね」

 ウィリアムは前に進みながら背後を振り返りニールに微笑んだ。バツ悪そうに頭を掻きネクタイを片手で緩める。


「どうなってるんだよ? この建物はぐるぐる廻って目が廻りそうだ!」

「至って普通ですよ…… ニール君がまだまだ未熟なのですよ? 青い果実がやっと赤みをさしかけたってところですかね?」

「ふん! なんだか知らねえが、回りくどい言い方しやがって! もっと分かりやすく説明しろよ! ってアイツはどうした? いちばん最初に行った筈だろ?」

 苦笑いを一度したかと思うと、ニールは背後を振り返りアダムの事を気にする。真っ白な窓ひとつない長い廊下が喉をやけに乾かせる。乾燥した冷えた空気が緊張感を背負わせてニールが溜息を吐いた。


「……こういうのはさ~ 最初からみんなで行けばいいんだよ! 何処のサバイバルゲームだよ! 集団行動って言葉を覚えようよ…… もう! 此処はいったい何処なんだ! あ〜 もう帰りたい!!」

 アダムはまだ同じ場所で壁を背にずり落ちる形で座り込む。そして誰に言う訳でもなく文句を大量に言い出した。

 溜息を吐いて、白衣の下に着たジャケットのポケットに徐に手を突っ込む。するとポケットに何かが入っている事に気がついた。最後にもらった、あの螺旋状のキャンディーだ。それを手のひらに転がせアダムは何気なくあの言葉を思い出す。


「月にかざすと、もっと綺麗なんだよ」


 アダムに笑いかけたグランの表情は、世間の俺を見る目じゃなかったんだ。心に響くグランの声でアダムはキャンディーをきつく握りしめ、立ち上がると歩き出した。



 大きな扉が固く閉ざされ、俺たちを見下ろしている。


 ウィリアムは肩に掛けていた筒状のケースから相棒を取り出す。紺色の紐が丁寧に巻き付けられた日本刀。ウィリアムは君に逢いたかったんだと、女性に愛しい目を向けるように微笑んだ。黙ってそれを隣で見ていたニールは苦笑いを浮かべ、珍しく煙草を咥えて火をつけようとオイルライターを手に持った。


「やっと、みつけた~!」

「……やっとお出ましか? おせえよ!」

「素人なんですよ? 此処まで辿り着いただけでも褒めてくださいよ!」

「アダムくん、よくできました」

「ウィリアムさん、ありがとうございます!」


 疲労を背負ったアダムが歩いて来る姿に、ニールが煙草を手に火をつけるのを止める。アダムを煽る言葉にニールは笑い声を交える。少し拗ねた顔に呆れた声で褒めてくださいと催促する。その言葉にウィリアムは刀を指先で撫で、手元を見たまま優しく落ち着いた声をかける。褒められる事で照れ顔のまま頭を掻きアダムはウィリアムを見た。


「ほら! お褒めの言葉をもらったんだ! 役に立ってもらうぞ? 死ぬ気で挑め! 目を逸らすなよ……」

「時々本気で怖いこと言いますよね? ニールさん…… もう俺は覚悟は出来てますよ」

「……アダム言葉と態度が違うぞ? 歩き辛くなる! 押すな! あと、そんなにしがみつくな!」

「固い事、言わないでいいじゃないですか! 減るもんじゃないでしょ! ね?」

「……あ~」

「いい心掛けですね。さあ、行きましょう」

 ニールの背にしがみつき少し裏返った声でアダムが返事をする。唇は震えて「自分はとんでもない所に着いてきた」という表情だとニールは確信する。 

 ウィリアムは刀の鞘を抜き、目を見開き口角を上げたかと思うと、口元を歪め鞘を投げ悪戯な顔をして笑った。


 *****


 モニターから流れる、無音のアニメーション。


 ウサギとオオカミが車で追いかっけっこを永遠にするだけの単純なストーリーにグランは夢中になった。

 

 コップに注がれたミルク。

 数枚のビスケット。


 何が入ってるか分かったもんじゃない。ニアは簡易されたウォーターサーバーの水を少し飲むと、栄養剤と魚の餌が置かれたテーブルの上に目を落として、苛立ち片手で全てをはらい落とした。静かな部屋に大きな音が響く。

 その音に身体を小刻みに震わせ、グランがモニターから目を逸らし、何も言わないでニアが居ると思われる場所を見る。箱の中に収容され出る事がないグランは鳥籠の中の鳥同様、外の世界に憧れ。そして疑問を持ち始める。


「ぼくはどうして箱の中に入っているの? ニアお兄ちゃんはどうして部屋を自由に動けるの?」と。


 苛立ちの雪が積もり、思いは募っていく。全てを誤魔化すように天井から釣らされた揺り籠に、ニアは身体を預け入れた。


 一定の速度で揺れる天井を見上げ、ニアは溜息を吐く。体内時計と揺れが重なるとき、猛烈な吐き気と倦怠感に襲われた。目を閉じて奥歯を噛み締め、力を加えると鉄の味がじんわりと口の中に広がる。何かが脳裏を過ぎていき、ニアはゆっくりと眠りに落ちていく。

 夢の中で沢山の手が一斉に、ニアに伸びてきて髪を鷲掴み、伸びた手の一本が肩の肉に爪が食い込み痛みが迸る。ニアの身体をそちら側へ引き寄せようと引っ張る。力強く身体が持っていかれそうになる。必死で力を入れた事で脳が揺れ、眩暈を起こす。次に伸びた手はニアの顔を掴む。指先が口の周りをまさぐり、口内に何かが押し込まれ喉が熱く焼けるように痛い。抵抗する間もなく、白衣が剥ぎ取られ、無理矢理にあちこちにある古い傷口を広げる。引き攣れる痛みと針先から冷たい液体が血管を通って入ってくるのが分かった。


 声は愚か、息も切れ切れになる。意識があるの耳に入る声はフィルターを通したモノに聞こえてきた。


「異常はありません。このまま続けますか?」

「いや…… ここで終わらせていい!」

「ですが、このままではどれくらい維持が出来るか……」

 その声が聞こえた時、天井のライトに映る自分の姿が見える。真っ白な肌には真っ赤な体液が広がり、身体のあちこちが大きな口を開けた状態だった。


「コルトレーンさんは…… 相変わらず趣味悪いよ……ね、ホント…… 呆れちゃ……うよ」

 霞んでいくニアの目に、厭らしく微笑むコルトレーンが映る。身体に力が入らない。指先すら動かない。照明器具の強い光を目に取り入れ、次第に溢れる涙でコルトレーンの姿が滲んでいった。


 次にニアの目が覚めた時、天井が規則正しく揺れていた。白衣は元通りに着せられ、傷なども一切なく、夢だったのか現実だったのか? 分からずに首を大きく振り、ニアは目を擦る。


 気がつくと、あの無音の部屋に静かな音でヨハン・ゼバスティアン・バッハの「G線上のアリア」が遠くから耳に心地よく聴こえてくる。ニアは右目に針を刺すような染みる痛みを感じる。ニアは自分が泣いていることに頬から顎に伝う熱い涙で気がつく。


 美しい音楽に、ニアは涙が止まらなくなり、嗚咽を交えて、毛布を強く握りしめて歯を食いしばる。力を込めていた指先が何かを諦めたように緩み、指先に温もりが戻っていき、柔らかな毛布を手繰り寄せ抱きしめた。心や身体中から色んなモノがこぼれ落ちていく気がして、ニアはとうとう大きな声を上げ泣き出す。小さく震えるニアが心の底から言葉を吐き出して、自らの肩に強く爪を立て、白衣と真っ白な肌に赤い血が滲んでいった。

 

 陽の当たる窓辺の暖かさ。

 笑う声。愛情。人は幸せな時間を知る事により、悲しみを覚える。恐怖も不安もすべて。

 

 知らなければ良かったんだ。

 そうすればこんなにも心が痛くなる事もなかったのに…… でも、ボクは…… もう……


「もう嫌だよ! 助けて……ウィリアムさん…… 助けてよ! ニール…… ボクを此処から早く連れ出して……おねがい……もう嫌なんだよ! ……痛い……心が痛いよ……」

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