第二十八話 崩壊

 深夜でも眠らない北都の繁華街。夜の煌びやかさは、昼間とは違った大人の顔を覗かせている。対照的に、その外れの一角に位置するホテル街は静寂に包まれていた。


 高層階の一室。静かに寝息を立てる少女。まるで西洋人形のようだ。艶やかで弾力のある桜色の唇。その端から、透明な雫が垂れる。微笑を湛える口元が僅かに揺れていた。口元に耳を寄せれば聞き取れただろう。少女は同じ言葉を繰り返していた。「肉、肉、肉…」と。エリカは残念な美少女だった。それでも、深い眠りにつかせる肉の力は偉大だ。昨夜は実の母親を失った悲しみで、一睡もできなかったのだから。


 そんなエリカの隣のベッドから、辛そうな喘ぎ声が漏れた。凜花はうなされていた。苦しそうに顔を歪め、左右に首を振る。彼女の手は左目の眼帯を強く握りしめていた。



     ***


 風邪で寝込んでいた母は二、三日で快方に向かった。凜花と望夢の献身的な看病のかいもあった。何より街から入手した薬の効果は絶大だった。望夢は快方したた母に頭を下げた。約束を破って薬を買いに街に出たこと。そして、その時に起こしてしまった出来事を正直に伝えた。凜花も一緒になって謝った。


 母は「そう……」とだけ呟いた。そして、悲しそうに顔を歪めて下を俯いた。その日を境に、母親は少しずつ変わっていった。

 日を増すごとにやつれが目立ち、癇癪を起すようになった。それまでは悪いことをしない限り、怒るようなことは決して無かった。二人が何かに失敗しても、優しく微笑んだ。次からは頑張ろうね。そうやって励ました。優しい母だったのだ。それが、ほんの些細なことでも急に怒鳴るようになってしまった。


 望夢もあの日以来、塞ぎがちになる日が増えた。事あるごとに街でのあの出来事が頭を過るのだ。凜花はそんな望夢の背中を叩き「早くこの町を出ていこうね」と笑いかける。自分達がもう少し大きくなれば仕事ができる。そしたら、皆で一緒に違う街へ移り住もうと。笑いかける凜花の瞳にも暗い影が差していたが、その時の望夢は気づかなかった。


 それでも良い事もあった。パンケーキの日ができたのだ。母親は常備薬を補充するために、月に一度、町の薬屋に赴く。その際に必ず蜂蜜たっぷりのパンケーキを持ち帰るのだ。店主の婆さんからのお土産だった。

 あの事件の後、薬屋を訪れた母親に、婆さんが頭を下げた。


「あんとき、あたしが、しっかりと気をつけて帰るように子供達に諭すべきだったんじゃ。そしたら、あんな事にはならんかったはずじゃ。来る時に問題なかったから、帰りも大丈夫だと思い込んでしまったんじゃ。脇目もせずに戻れるだろうとな。ああ、あん子らが不憫でならん」


 婆さんは、あの日に街で起きた出来事を知り合いから伝え聞いた。そして、ずっと悔いていたのだ。


 彼女は母親が毎月同じ日に店を訪れるのを覚えていた。当日の朝になると毎回パンケーキを焼く。それを子供達へのお土産にと母親に持たせるのだ。はじめのうちは、母親は申し訳ないからと固辞していた。しかし、婆さんはいつも屈託なく笑い、「あの子達と一緒に食べておくれ」と無理やり押しつけるのだった。


 薬屋の日の夕方は、家族にとっての特別な時間となった。三人揃ってお土産のホットケーキを食べるのだ。ノイローゼ気味だった母も、その時ばかりは終始、笑顔を絶やさなかった。自分達の存在を受け入れてくれる人もいるのだ。そう思うと望夢も心が軽くなった。蜂蜜の甘さと母の優しい笑顔。そして薬屋の婆さんの優しさに包まれる。そんな、幸せなおやつの時間。それは望夢にとって掛け替えのないものとなった。


 二人が五歳になった頃、母親の症状はさらに悪化していた。一日のうち半分はベッドで過ごす。起きたとしても、ひょんなことで、すぐにヒステリーを起こしてしまうのだ。炊事洗濯などの家事全般も、凜花と望夢が分担して行うようになった。それでも、買出しだけはセイジの二人にさせるわけにはいかなかった。母が重い足取りで街まで向かい、食材や日用品を手に入れてくるのだ。帰宅すると、母親の顔はいつも土気色になっていた。ふらふらとベッドへ倒れ込み、そのまま食事を取らずに寝込む事が多かった。


 その日も普段と変わらなかった。子供たち二人で一通りの家事を終わらせたところだ。


「母さん、そろそろ帰ってくる頃かな?」


 台所で夕食の準備をしながら、望夢は凛花に声をかける。今日は週に一度の街への買い出し日だった。


「知らないわよ。あんな、糞ばばあ」


 凛花は、ふて腐れ、罵るような言葉を吐いた。その左の口元は、赤く腫れあがっていた。この頃はいつもそうだ。買い出しの日の朝に、母が癇癪を起こす。それは、望夢よりも同じ女である凜花に手を上げることが多かった。

 望夢はいつも二人の間に入って母を宥める役だ。日に日に過激になっていく暴力。望夢は、これ以上、傷つく凜花を見るのが耐えられなかった。


「そんな態度だと、また癇癪を起しちゃうよ。帰ってきたら、まずは母さんを労ってあげないと」


 不服そうにする凜花を望夢が宥める。

 夕食の支度が全て整った頃、母が帰ってきた。


「お帰りなさい。今日は随分と遅かったね。疲れたでしょ。大丈夫? お茶でもいれる?」


 重そうな荷物を台所まで背負ってきた母親。その顔色は、いつも通り優れない。無言のまま食材の入った大きな麻袋を床に落とした。どさっという音とともに、袋の口から食材が飛び出し床を転がった。


「また、ジャガイモか……」


 凜花が思わず、愚痴をこぼす。ここ数か月、食べ物はジャガイモばかり。彼女は正直、うんざりしていた。


 その言葉に母が反応した。右手が、まな板の上の凶器を掴んだ。そして左手で、凜花の髪を掴み上げる。そして――。


「ぎゃぁぁあ! 目が、目が――」


 両手で目を押さえ床を転がる、凜花。左目からは木の柄が伸びていた。銀色に輝く刃の先端。それが瞳に突き刺さっていた。果物ナイフで突き刺したのだ。台所の床が見る間に鮮やかな赤へと侵食されていく。


「その目よ! その目の所為でいつも私の人生は滅茶苦茶よ! それさえ無くなればいいの! ああ、何で今までこんな簡単な事に気づかなかったのかしら。あはははは――」


 母親は狂ったように笑い叫ぶ。そして、台所の引き出しを乱暴に引き開けた。そして、先程よりも大きな包丁を掴んだ。


「まだよ。それじゃあ、ちょっと傷ついただけよね。凜花ちゃん、待っていてね。いま、その悪い憑き物を体から取り除いてあげるわね」


 笑いながら、床に蹲る凜花へと近づいていく。

 母のあまりの行動に放心していた望夢も、さすがに我に返った。後ろから母を羽交い絞めにして、それ以上の凶行を押し止める。


「か、母さん! 止めてよ! 凜花に何するんだよ。死んじゃうよ!」

「離して! 離しなさい! おい、離せよぉ!」

 

 気が狂ったように母は手足をばたつかせる。振り離そうとするが、望夢はセイジP型だ。少年であっても、その腕力は常人の大人さえも凌駕する。やせ細った母の力では到底振りほどけるはずもなかった。

 望夢は母から包丁を取り上げる。そして、台所の窓を開け、外へと投げ捨てた。他に凶器になりそうな物も、全て手の届かない屋外へと放り出した。凶器を取り上げられた母は背中から壁に寄りかかる。そして、膝を折るようにして床へと崩れ落ちた。


 望夢は赤い床に蹲る凜花に駆け寄る。


「凜花! だいじょうぶ? あぁ、どうしよう! 血が止まりそうにない……」


 どうして良いのか全くわからない。少しずつ広がっていく血溜まり。それが望夢の焦りを加速させた。


「か、母さん、お医者さんを呼んできて! ねぇ、母さん、聞いてるの!」


 望夢が助けを求めるも、母親は一切、応答しない。壁にもたれ掛かって座り込んだままだ。両手足は、すでに力を失い、だらんとしていた。焦点の合わない瞳で、何かをぶつぶつと呟いていた。望夢は母の前にしゃがみ込む。顔を覗き込み、肩を揺さぶる。そして、さらに呼びかけた。

 焦点の合っていなかった母の瞳が、望夢の瞳を捉えた。


「ひ、ひっ! そ、その目でみないで! やめて、やめてよ!」


 目を背け、奇声をあげる母親。近づくなと狂ったように両手を振り回す。正気に戻すのは無理そうだ。望夢はそう諦めざるを得なかった。凜花の傍に寄り、ゆっくりと両手で彼女を抱え上げた。

 凜花が、望夢の胸をぎゅっと掴んで訴える。


「い、痛い。目が痛いよぉ。お兄ちゃん。助けて――」

「凜花、苦しいだろうけど、少しだけ我慢して。街の薬屋へ行こう。きっと、お婆さんなら何とかしてくれるはずだから」


 外に出ると日は既に沈んでいた。空気の澄んだ星空のもと眼下に見える光。目を凝らすと道が見えてきた。常人よりも遥かに優れた五感を有する、セイジ。僅かな星明りさえあれば、十分に視界を確保できた。目を押さえて苦しそうに呻く凜花を抱え、望夢は街へと駆け降りる。闇夜にもかかわらず、その速度は大人の全力疾走よりも速かった。


 幸いにも、日の暮れた街に人影は無かった。街灯も無いため二人の異様な格好に騒ぎだす者もいない。

 しかし、望夢は薬屋までの道が全くわからなかった。途方にくれる彼の前に腕が伸びる。


「お、お兄ちゃん、そっち……」


 か細い声ながらも凛花が道を指し示していく。

 なんとか薬屋に着いた。入口の扉はすでに閉まっていた。しかし、二階の窓から僅かな光が漏れていた。施錠され固く閉ざされた扉を、望夢は必死で叩いた。


「すみません! お婆さんいますか! 助けてください!」


 何度か戸を叩いたところで、扉のかんぬきが外される音がした。顰め面の婆さんが顔を出す。


「なんだね、騒々しい! こんな夜更けに非常識だね。まったく――。あ、あんた達! いったい何があったんじゃ! い、いや、それよりも、とにかく中に入りなさい」


 婆さんは三年前と変わっていなかった。一方、セイジの二人は成長し、見た目が大きく変わっていた。それでも、婆さんはすぐに二人に気づいた。ずっと二人のことを気に掛けていた証拠だった。彼女は周りを見渡して人影がないことを確認すると、二人を一階の店内へと案内した。


「こりゃまた、どうしたのさ! 大変だ。まずはそこの長椅子に寝かせなさい。」

「お婆さん、凛花を助けてください!」

「こ、これは、あたしじゃ手に負えないよ」

「お婆さんっ!!」

「叫ばないでおくれ。大丈夫。ちょっと人を呼んでくるさね。いいかい、あたしが外に出たら、すぐに扉にかんぬきをかけなさい。あたし以外が来ても決して開けるんじゃないよ」


 血塗れの凜花の状態を診た婆さんは、即座に自分の手に余ると判断した。望夢に鍵を掛けさせると、店の外へと飛び出していった。五分ほどで婆さんは戻ってきた。扉を開けた望夢は、息を呑んで固まってしまった。


「ほら、そこをどきんさい。あんたも早くあの娘を診てやってくれ」


 婆さんが連れて来た男が頷き、凜花の元へと歩み寄る。白髪の男性だった。皺の多い顔からも老人のようだ。歳が分かり難いのは、目元を白い鉢巻で隠していたからだ。


「お婆さん! 目が見えない人を呼んでどうするの!」

「安心せい。あやつは、ああ見えてもこの町一番の医者だ。本人曰く、鉢巻を通しても見えるらしいわ。あれをしないと逆にこの世は眩しすぎるんだそうじゃ。今も杖もつかずに凛花の所まで歩いていっただろ」


「婆さん。無駄話をする余裕はないぞ。まずは熱湯とアルコールを用意してくれ」


 凛花の状態をすぐに診てとった医者は、矢継ぎ早に婆さんに指示を飛ばす。そして、持ってきた鞄を開けた。そこには銀色に煌めく医療道具がびっしりと詰まっていた。


「お医者様! 凜花を、妹を助けてください!」

「ほら! おまえさんも、そんなところで叫んでいても邪魔なだけさね。いいから、わしを手伝っておくれ!」


 婆さんは、望夢を引っ張るようにして店の奥へと連れていった。そして婆さんから手渡されたものを医者へと渡す。その都度、医者が新たな指示を口にする。それを婆さんに伝える。望夢は二人の間を必死に走り回った。凜花を助けたい。そのためにできる事は、今はこれしかないんだ。そう自分に言い聞かせた。


「ふぅ、とりあえずは、こんなところだな。ナイフを抜いて傷口は洗浄、縫合しておいた」

「凛花は、だ、大丈夫なんですか!!」


 望夢は、目を瞑ったまま動かない凛花を心配する。


「今は、痛み止めを飲んで寝ている。あとは十分な栄養と休養を取ることだ。食後のたびに薬を飲ませてあげなさい。処方箋は、そこの机の上の紙に書いておいた。また、明日診察に来るから安心しなさい」


 医者の爺さんは、声に疲れを滲ませていた。しかし、山場は越えたのか、その声音には安心させる響きを含んでいた。非常に手際の良い処置だった。やはり、アイマスク越しにでも完全に見えているとしか思えない。

 望夢は心からの感謝の言葉を告げた。医者は望夢の頭に手をぽんと載せる。皺まみれでごつごつの手だった。


「大丈夫じゃ。よく頑張ったな」


 そう言って望夢の頭を撫で、薬屋を後にした。

 顔半分を包帯で巻かれ目を瞑る、凛花。望夢は隣で心配そうに見守る。


「もう大丈夫じゃ。あと、あやつは、お前さんらの事を他の人に話たりせんから心配せんでいいからな」


 婆さんはそう言うと、凜花の傍に座った。凛花の頭を優しく撫でながら、話を続けた。


「実はな、お前さんらが生まれる数年前にも、同じように緑色の瞳をした赤ん坊が生まれた事があったんじゃ。街の者は知らんけどな。そん時はな、悪魔の落とし子だと半狂乱になった両親が、産まれたての赤子を殺してしまったんじゃ」

「えっ!」


 衝撃の事実だった。望夢は婆さんの横顔をじっと見つめる。


「その後、我に返った両親が、あやつを自宅に呼んだんじゃよ。そして、死産だということにして、人目を憚って葬儀をあげたのじゃ。それから暫く、あやつは静かに憤っておった。同じ人類なのに殺生なことをすると。だから、おまえさんらの事を、街の人に言う事は決してない。そもそもあやつは、もともとこの街の出身ではないしな。変なしがらみもない」

「そうなんだ。僕ら以外にも……」


「それよりも、一体何があったんじゃ。母親はどうしたんじゃ?」


 凜花が助かった事に安堵していた、望夢。張りつめていた糸が緩んだ。婆さんの言葉に、今日の出来事が思い起こされた。瞳にじわじわと涙が浮かぶ。そして、堰をきったように泣き出した。嗚咽混じりに家で起きてしまった惨劇を口にした。


「そうかい、そんなことがあったのかい。お前さんらの母親とは月に一度、顔を合わせていたのじゃ。確かに、最近は無口でな。何か思い詰めていたから、心配していたんじゃ。まさかそこまで追い詰められていたとは……。実はな――」


 婆さんは、ぽつりぽつりと語りだした。三年前のあの日。二人が街に降りた日に起きた事件。その後に、母を待ち受けていたもの。それは、町民からの酷い仕打ちだった。


 事件前も、母は化け物を生み出した存在として街の人に蔑まれていた。それでも、面と向かって罵る輩はいなかった。食料や日用品についても、金さえ払えば、冷たい視線を受けながらも購入できていた。


 しかし、あれ以降、母親の扱いが急激に悪化した。街を歩いているだけで罵声や暴言を浴びせかける住民が増えたのだ。そして、多くの店が彼女を門前払いした。これまでのような、まともな買い物が出来なくなったのだ。

 もっと酷い住民もいた。望夢が街で受けたのと同じ行為をしたのだ。つまり、卵や道端の石を投げつけたのだ。そんな親を子供は見ていた。当然、真似した。子供達は、母が街を出るまで石を投げつけながら執拗に追いかけたのだ。無論、それを見て咎める大人は、ほとんどいなかった。


 数年間に渡って受けた、街の住民の悪意。それを浴びているうちに、母親の精神は徐々に蝕まれていった。当然の事だったのかもしれない。

 望夢は胸が締めつけられる思いだった。自分の所為で、母はずっと酷い仕打ちを受けていた。凜花にしたことはとても許される行為ではない。が、望夢には母を恨むことはできなかった。恨む資格がないと思った。


「自分を責める必要はない。お前さんらに罪はないのじゃ。悪いのは皆、街の奴らじゃ。目の色がちょっと左右で違ったからといって何だっていうんじゃ。エメラルドの宝石のような素敵な瞳で、かわいいじゃないか」

「えっ」

「とにかく、今日はもう遅いから寝るとしようか。二階に空いている部屋があるんで、そこに布団を敷いてやろう。婆一人、気ままに暮らしている家だから気兼ねせんでよい」


 婆さんは優しさに満ちていた。そして何より望夢は驚いていた。瞳の色を褒められたのは産まれて初めてだった。母にさえ、そんなことは言われたことがない。心の中では僕らの瞳を嫌っていたのは理解していた。婆さんの言葉に、自分の存在が初めて認められた気がした。心の底から嬉しかった。様々な感情が頭の中を駆け巡る。気づいた時には、婆さんの胸に飛び込み、声をあげて泣き出していた。婆さんは何も言わず、ただ優しく僕の背を撫で続けてくれた。

 

 暫くすると、望夢は泣き止んだ。少し落ち着いたのを見はからって、婆さんは立ち上がる。寝床の準備をするためだった。しかし、引き留められることとなった。望夢の腹が鳴ったのだ。顔を赤らめる望夢に婆さんは笑いかける。


「可愛らしい音じゃて。そういえば、先ほどの話だと夕食なんか食べとらんか。さすがにもう遅いから軽い食事でいいかの」

「う、うん。ありがとう」

「まずは、服も汚れとるし、風呂で体を拭いておいで。お湯は嬢ちゃんの処置で沸かしたのが残っとるから。その間に食事を準備しておくさ」


 望夢は、婆さんの指示に素直に従った。風呂場で体にこびり付いていた血を洗い落とす。風呂から出ると寝間着が用意されていた。婆さんの孫が、むかし着ていたものだった。


 軽く夕食を済ませると、望夢は、二階の客間に敷かれた布団に潜り込んだ。目を瞑ると、錯乱した母と床で苦しむ凛花の姿が甦ってきた。明日からどうしよう。これから僕らはどうしたらいいのか。とてもじゃないが眠れる気がしなかった。ふと、頭に感触を覚えた。目を開けると、お婆さんが枕元に座っていた。慈愛に満ちた瞳で僕を見つめていた。


「いまは何も心配せんでええ」


 お婆さんが僕の頭を優しく撫で続ける。皺くちゃで小さな手だった。しかし、深い愛情が伝わってきた。不安が嘘のように消え去る。これまでの心身の疲れがどっと押し寄せてきた。僕が深い眠りにつくのに、さほど時間は掛からなかった。

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