第十一話 平和な日常

 どのくらい、眠っていたのだろう?

 息を吸うたび、鼻孔が痺れるように痛んだ。仰向けのまま口を大きく開ける。はぁーっと息を吐きだす。目の前で一瞬白く伸び、すぐに溶けるようにして消えた。

 確実に氷点下だ。僕は毛布の中へと潜りこむ。あー暖かい。ここから出るのは、自殺志願者に違いない。そう自分に言い聞かせた。

 バタンという戸の開ける音がした。いまの僕にとって最も聞きたくない音だった。


「翔! いつまで、寝てるの!」


 いきなり体に掛けていた毛皮が引き剥がされた。冷気が体を包み、一瞬で体が凍りつく。

 抗議の声よりも先に抗議の鳴き声があがった。なかで一緒に暖をとっていたクーだ。

 しかし、クーは直ぐに部屋の外へと飛び出していった。あいつ相変わらず決断早いな。抗議が無駄だと悟ったようだ。

 一方の僕は寒さのあまり腕で体を抱える。無駄な足掻きであることはわかってはいる。億劫だが、ゆっくりと目を開けことにした。

 そこには、パジャマ姿の天使が立っていた。はじめて見た人はそう思うだろう。誰もが一瞬は、目を奪われるのではないか。

 だが、それは第三者目線。僕は見た目に騙されることはない。悪魔が化けた仮の姿だと知っているのだ。


「何か、言いたそう……」


 不服そうな瞳で、僕を見下ろす、エリカ。


「やめろよ! 寒いだろ。お願いだから、もう少しだけ!」

「駄目」

 

 手を伸ばして毛布を取り返そうとした。が、エリカは部屋の端までそれを投げ飛ばした。


「翔くん、おはよう。今日はみんなで雪まつりに行こうって、約束したじゃない」

「なんでヒデが、こんな朝からいるんだ」


 部屋の扉の入口から、黒縁の眼鏡が顔を覗かせた。理解できず、寝起き眼をこする。

 ああ、そうか。先週から秀人も一緒に住んでいたんだっけな。寝ぼけた頭が少し遅れて正しい回答を導きだした。


「ううっ。さ、寒い!」


 体が身震いした。どうやら、起きる以外に選択肢は残されていないようだ。

 そう悟った僕は両足を大きく上に持ち上げ、勢いよく振り下ろした。反動で跳ね起きる。エリカの脇をさっとすり抜ける。部屋を飛び出そうとして、立ち止まった。


「おっと、忘れてた。父さん、母さん、おはよう。今日も一日、頑張ります」


 箪笥の上の写真立てに、手を合わせる。僕の日課だ。秀人は部屋の扉の近くに立っていた。それを邪魔だと押しのけ階段を勢いよく駆け下りる。

 時間との戦いだった。突きあたりの扉を開け、中へと飛び込む。そこは、南国の楽園だった。


「うはー。あったけー。極楽、極楽。生き返るわー」


 一階のリビング中央にはダルマストーブが鎮座していた。薪がパチパチと音を立てながら燃えている。僕は、その前に手をあてて座り込む。しかし、一番良いポジションには、すでに先客がいた。

 二本足で立ち、手の平をストーブに向けていた。二本の尻尾が満足そうに、ゆっくりと揺れていた。


「クー、お前、一応エゾリスなんだよな? 寒がりとか、おかしくないか?」


 色々と納得のいかない光景だった。部屋の扉が開きエリカが入って来た。


「翔。いいかげんにして」


 彼女は眉間には皺を寄せて僕を睨む。苦言を続けようとする彼女が一瞬、固まった。僕が自分の眉間に三本の指をあてて笑っていたからだ。


「なにそれ」

「知らないのか、#皺三__しわさん__#が増えるぞって意味だ。昔の流行言葉らしいぞ」


 僕の視界から、すらっとした長い足が一本消え去った。と同時に頭頂部に強い衝撃。気づいた時には、僕は床にキスしていた。


「ぐっ、こ、この怪力女が……」


 口元を拭い、後頭部を押さえて呻く。くそ、鼻がズキズキする。血が出てないだろうな。


「ほらほら、朝から何を騒いでいるの」

「お、おばさん。エリカの暴力を何とかしてよ!」


「はいはい、仲良くしないとだめよ。さ、みんな着替えてらっしゃい。朝ご飯が冷めちゃいますよ」


 おばさんが、台所から顔を覗かしていた。明るく優しい声に、心が暖かくなる。しかし、エリカは、ほんとにおばさんの実の子供なんだろうか。

 奥の食卓から漂う、香ばしくて甘い香り。食欲がそそられる。すぐに食事にありつきたい僕は、その場でパジャマを脱ぎはじめた。


「ち、ちょっと! こんなところで、脱がない。変態!」


 普段は冷静なエリカだが、声が少し上ずっていた。ふふ、焦っているな。ま、そんなエリカは無視だ。僕はパジャマの上下を一度に脱ぎ捨てた。

 エリカが、慌てて自分の顔を両手で覆い隠していた。よく見ると、その細長い指の合間が少しずつ開いていく。


「覗き見は、やめてもらおうか」


 エリカは、両手を降ろす。観念したのではなく呆気に取られていた。


「ふふふ、期待とは違って残念だったな」

「もしかして、馬鹿なの?」

「そう! パジャマの下には、すでに外着を仕込み済なのだ。俺ってば、なんて賢い!」


 睨みつけるエリカ。透明感のある頬は、ほんのりと赤く染っていた。はは、騙されたことがそんなに悔しいのか。僕は両脚を広げ、両手を突き出しVサイン。満面の笑みを浮かべる。


「い、いたぁっ!?」


 頭頂部に先ほどとは比較にならない大きな雷が落ちた。やばい、身長が数センチほど縮んだ気がする。あまりの痛みに頭を両手で押さえて、しゃがみ込む、涙目で後ろを振り返った。

 そこには鬼がいた。ああ、やっぱり親子だった。

 エリカの母親が拳を振り抜いた格好で仁王立ちしていた。いまさっき、僕の心をほんわかとさせた声の主とはまるで別人だ。

 僕の心は、一瞬で凍りついた。


「翔! あれほど、外着を着て寝たらダメっていったじゃない!」

「う……」

「ほら、あなたたちも、ぼぉっとしていないで早く着替えてらっしゃい!」


 クスクスと笑いながら二階に駆け上がっていく、秀人。エリカは横目で僕を一瞥し、悠然と部屋から出て行った。虫けらを見下すような目だった。


「あいつ、すでに何人か殺しているんじゃないのか」


 頭をさすりながら、僕は一人ごちる。


 木製の丸テーブルに、美味しそうな料理が並ぶ。焼きたてのトースト、スクランブルエッグ、そして、マカロニサラダ。

 席に着くと、おばさんが、マグカップに熱々のカラメルホットミルクを注いでくれた。


「いただきまーす」


 四人揃って、両手を合わせる。

 僕は手始めにトーストに手をのばす。パンに齧りつこうと思ったが止まってしまった。隣が気になったのだ。

 秀人がマグカップに顔を埋めていた。いまにも蕩けそうな顔をしている。そして、トーストへと噛りつく。パリッと子気味良い音がした。今度は幸せそうな息を吐いた。


「まったく大げさな奴だなぁ」

「だ、だって、こんなに美味しい物を食べたことないんだ」

「ま、確かに、おばさんの作る料理は、どれも絶品だけどな」


 おばさんは、そんな僕らを、にこにことみつめていた。

 足元では、クーが尻尾を揺らす。皿に注がれたカラメルホットミルクを、ちびちびと舐めていた。クーは甘党で、熱いものが好物なのだ。

 この街の電力供給は、非常に不安定だ。トースターのような家電製品は、ほとんど使用できない。そもそも売っていない。

 もちろん、料理の熱源として、電気を使うのはもっての他だ。ガスコンロも無ければ、ガスボンベの供給体制さえ存在しない。

 台所にあるのは竈だけ。 薪をくべて木炭で火力調整することしかできない。風呂も同様だ。


「おばさんは、やっぱり凄いよ」

「え、翔、どうしたのいきなり」


 限られた食材と調理条件。それでこんなに美味しい料理を作るのだ。色々な工夫を凝らしているからだ。


「お、おばさん、なんでこんなに、このパンはサクサクなんですか?」

「あら、ヒデちゃん。敬語なんかで話さなくていいのよ」

「それはな、竈の絶妙な火力調整と、バターの二段塗りの成果なんだ」


 まず、フライパンを十分に加熱。そこに両面にバターを薄く塗ったパンを置く。水分をしっかり飛ばし、きつね色になるまで焼く。フライパンからとりあげた後、仕上げにバターをもう一塗り。


「これで、外はサックサク、中はふんわり。バターの風味とコクがたまらないトーストの出来上がりだ」

「なんで、翔が偉そうに説明しているの……」


「ま、パンも最高だけど、俺はこっちが一番だな」

 

 僕の大好物のマカロニサラダ。無論、自家製だ。小麦粉と卵、植物オイルから、しっかりと練り上げた生地。それを円筒形の容器に充填する。その先端にダイスと呼ばれる穴の開いた型を取り付ける。それを手で押し出すとマカロニパスタが出来上がる。

 これらの容器は全て木製で手作りなのだ。生地の配合と茹で時間も絶妙で、とろとろの食感だ。甘味と酸味のバランスがなんともいえなかった。


「そのままでも、美味しいが、俺の今の流行は、これだ」


 僕はトーストの上にマカロニサラダを山盛りに載せる。そして、それを折り曲げ口へと運ぶ。

 熱々で、パリッとしたトーストと、冷たくふんわりとしたマカロニサラダ。相性が抜群だ。

 調理が大変なのに、なんでそこまでこだわるの? おばさんに以前そう質問したことがある。

 こんな時代だからこそよ。食事くらいは、翔とエリカに美味しい物を食べさせてあげたいのよ。そう言って優しく微笑んでいた。

 僕は、そんな、おばさんが大好きだ。


「うらやましいなぁ。エリカちゃんも翔くんも。毎朝こんな美味しい物を食べているなんて」

「なに言ってるの。これから、毎朝だけじゃない。毎食、母さんの手料理、食べれるよ」


「そうそう、ヒデちゃんはもう家族の一員ですからね」

「そっか……。ほんとに夢みたいだ。あそこから出れただけじゃなくて、こんなに美味しいものまで、食べさせてもらえるなんて」


 嬉しさのあまり、秀人は目を潤ませる。


「そういえば、昨日、孤児院で、ヒデのお別れ会があるって言っていたじゃないか」

「え、あ、う、うん」

「そこでは、美味しい物は出なかったのか?」

「い、いや実は、昨日の事はあまり覚えてないんだ」

「なんだそれ。ま、外聞を気にしてのパフォーマンスだろうし。ヒデにとっちゃ辛いだけだもんな」


 秀人は戦災孤児だった。両親と三人兄弟の末っ子で、この街の南に位置する小さな街に暮らしていた。

 四年前、シェイドがその街に襲来。軍が駆けつけた時には、すでに街は壊滅していた。奇跡的に一人だけ救出された。血塗れの一歳児の赤子だ。それが秀人だった。 


 政府は激減した人口の回復を最優先事項としていた。一方、シェイドに襲われ、両親を失う子供もまた多い。結果、将来を担う世代の保護を目的として、各所で孤児院が建てられた。

 そんな孤児院にあっても、出生率の非常に低いセイジの存在は極めて稀だった。秀人のいた孤児院でもセイジは彼だけだ。


「僕だけ異質だったから」

「そっか。ま、俺らは確かに普通の人とは違うもんな」


 ひとり異常な速度で体も精神も成長する児童。周囲の子供達から気味悪がられ、爪はじきにされるのは容易に想像がついた。


「しかも、ヒデは気弱だからなぁ。虐めの格好の的だったろ」

「う、うん……」

「でも、孤児院にも大人はいるよな。助けてくれなかったのか」

「ううん。冷たかったよ」


 保護者であるはずの大人ですら、セイジに対する理解は薄かった。それが現実だった。


「だから、あそこにいるのが嫌で、毎日、外に逃げ出していたんだよ」

「そうだったのか」


「翔くん達に出会うまではね。外に出て、暗くなるまで、時間を潰していたんだよ」


 ある日、僕は秀人と偶然出会った。僕らの家は孤児院から比較的近かったのだ。日も傾き家路につく途中。ぼおっと河原を見ている同年代の子供が気になり声をかけたのだ。


「同じセイジってことで、すぐに意気投合したよな」

「いや、あれは、翔が一方的に気に入っていただけ。ヒデは、無理やり引っ張り回されてた」

「お前、いらんときだけ口を挟むのな!」

「い、いや! 翔くん、ぼくもすっごく楽しかったよ」


「ま、でも、さすが、おばさんだよ」


 最近、はじめて秀人を僕らの家に招待した。おばさんは、めざとかった。秀人の服の隙間から僅かに覗く痣。すぐに秀人が虐待にあっている事実に感づいた。

 そこからの行動が早かった。翌日にはセイジの里親申請を役所に届けていた。セイジの生活保護は政府の優先事項だ。おばさんには僕という里親の実績があった。このため、すぐに申請は認められた。

 こうして、先週から晴れて秀人も同じ家で住むことになった。喜ばしいことだ。 

 とはいっても限度がある。毎朝繰り広げられる、この温いやりとり。まだやっている。正直付き合ってられない。心の中でげんなりする。

 会話から耳を遠ざけ、トーストの食感を楽しむことにした。食卓の傍の窓に『雪もどき』が、ちらついていた。うーむ。やっぱりまだ見慣れないな。


 僕ら街から約五十キロ南に活火山がある。それが先週末、四年ぶりに噴火を起こした。それも、ここ最近なかった規模の大噴火だ。

 人的被害は、今のところ聞こえてこない。ただその影響か、今週始めから火山灰混じりの灰色の雪が、しんしんと降り注いでいた。噴火前の真白い雪の層の上に、すでに二十センチほどの層が形成されていた。


 ちらつく雪もどきの向こう、二本の太い煙突が空に向かって聳える。そのうちの一本から白い煙が、もくもくと天高く舞い上がっていた。これで少しは明るい生活が送れるのかなと僕は期待する。


 それは電力供給安定化対策事業の目玉。石炭火力発電所だった。

 この計画は、三年前に現市長が掲げたものだ。石炭が、大量かつ安定的に入手可能な目途がたったためだ。二年前から発電所の建設に着手。つい先月に竣工し、試運転が開始されたところだ。市民広報では、来月から本格運用に入るとあった。

 この発電所の運営企業の公募と選定については一悶着あった。石炭の調達能力やリスク管理体制など、入札条件が極めて厳しかったのだ。

 そして、契約期間は二十年と長期間。総事業費も莫大であった。にもかかわらず、入札準備期間は、たったの数日。結果、応札できたのはたったの一社。落札したのは、市長が元代表を務めていた、このまち最大の商社だ。今もそこは市長の親戚筋が経営している。市民は、裏金の関与を、疑わずにはいられなかった。


「ねぇ、楽しみだね。翔くん」

「あぁ、そうだな」


 トーストに噛りついたまま適当にあいづちを打つ。窓の外を見ながら考え事に耽っていたのだ。話をまともに聞いていなかった。どうやら、秀人たちは、今日の雪まつりの話に花を咲かせているようだ。

 数少ない街のイベント。その中でも最大の催しである。丸三日間開催され、本日はちょうど中日にあたる。僕らは保護者であるエリカの母親を伴って、四人で行く予定だ。


「でも、良かったわねぇ。中止にならなくて。でも、みんな気をつけるのよ」


 おばさんが、少し心配そうにしていた。秀人が話を引き継ぐ。 


「あの犯人は、未だ見つかってないみたいだね」

「どっちだ浮浪者の謎の失踪事件か」

「あ、それもあるけど」


「ああ、商店街で夜中に起きたという、あの怪奇事件か」

「そう、被害者は皆、失血死で干乾びたような姿なんだよ」

「なんか、同じような話を何度か聞いたような気がするよな」

「うん。どうもここ数年、年に数回起きているみたいだよ。被害者の特徴から同一犯じゃないかって言われている」


「それも、そうだけど、近くの街のこともあるじゃない。ほんと心配事が多くて胸が痛いわ」


 数か月前。隣町にシェイドが襲来した。一夜にして隣町が滅びたのだ。

 あ、まずい。秀人が下を俯いていた。秀人の故郷も両親も、シェイドにやられたのだった。


「大丈夫、昼間だし。なんか、あっても、私が、皆を守る」

「あはは。エリカちゃんは、いつも心強いなぁ」

「エリカ! 行儀悪いわよ」


 パンを咥えたまま、エリカが自分の利き腕を叩いて怒られていた。おっさんかよ!

 しかも、それパン何枚目だよ。もう少し家計を考えろ。ほんとに残念なやつだ。


「それに、ちょうどいい塩梅の天気だしな」

「雪が、ちらついて程度だもんね」

「ああ、暖かそうだ。一桁ってところか」


 吹雪くのはもっての他。しかし、快晴もかなりたちが悪い。この街は盆地なので快晴になると放射冷却現象が起きるのだ。

 早朝は氷点下二十五度以下になることも年に数回ある。この気温になるともう寒いとは感じない。とにかく痛い。直接外気に露出する肌や鼻孔を冷気が刺すのだ。

 対して、雪が降る日は氷点下一桁であることが多い。なので快晴よりも断然暖かいのだ。冬用の分厚いコートで走り回ると、すぐに汗をかいてしまうほどだ。

 冬は氷点下以上となることはほぼない。だから冬の日常会話で氷点下という言葉を使うことは、めったにない。温度を言えば、それで十分だ。


「さてと、おばさんは朝食の片づけがあるから、皆、外で遊んで待っていて頂戴」

「了解。じゃ、それまで誰が一番大きな灰色だるまを作れるか、競争だな!」


 ご馳走様の挨拶がスタートの合図。ストーブの近くで乾かしていた冬の三点セット。スノーウェア、グローブ、ブーツを引っ掴む。僕らは一斉に外へと飛び出した。

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