第十二話 襲来

 潮騒が聞こえる。独特の湿った臭いが鼻をついた。

 少年は、海べりに立っていた。

 周囲を見渡すと瓦礫の山が目につく。津波の爪痕が未だ色濃く残っていた。災害復旧が、遅々として進んでいなようだ。


 東京から、ほぼ真東に百キロ。関東平野の最東部。太平洋に面する銚子市の港だ。


 なんだろう、海面のあちこちが光っている。水面に棒状のものが浮いていた。潮位の上昇により、港の位置は大きく後退していた。水面下には昔の漁港があるのだ。それを避けて通るための目印であった。誤ってその上を運行すると船底の損傷や座礁に繋がる。


 街中に災害放送が流れていた。屋内退避の勧告のようだ。しかし、港には大勢の群衆が詰めかけていた。漁業関係者ではなく一般人のようだ。

 口元には使い回しの黒ずんだマスクをしている。目元は二つのタイプに分かれていた。一つは片眼鏡、もう一つは変わった色のコンタクトレンズをしていた。

 少年は知らなかったが、それぞれi《アイ》グラス、i《アイ》コンタクトと呼ばれる愛称で呼ばれていた。人によって好き嫌いが分かれていたが、いずれも機能は同じであった。それで、検索したり、映像を見たり、撮影をするのだ。勿論ゲームもできる。


 なんで災害放送が流れているのに、みな逃げないのだろう。こんな海岸線にいて津波が襲ってこないのだろうか。少年は不思議に思う。


 人だかりのなか、一人の女性が空を指さした。


「皆さん、見てください。水平線が闇で埋めつくされています!」


 少年も空を見上げる。震災後から変わらない灰色の空だった。ただ違うのは、大小様々な漆黒の点、それが帯状に連なっていた。


 女性は一人、話を続けていた。彼女の周りを取り囲むように何かが浮いていた。直径数センチの球状の物体だった。


 それは最先端のビデオカメラだった。三百六十度方向から撮影し、見る者に立体投影するのだ。

 そう、彼女は人気のレポーターだった。


「現在、日本の太平洋沿岸の各地に、あの漆黒の物体の群れが迫っています。ここから見えるだけで、数千はいるのではないでしょうか。あ、いま、無人撮影機からの映像がでるようです」


 彼女の言葉と同時に少年の瞳に映る画像も切り替わった。

 それのシルエットは海から連想される動物であった。例えば、海豚やアザラシなどの哺乳類。鮪などの魚類、蟹などの甲殻類、カモメなどの鳥類、アサリなどの貝類などだ。


「え、嘘……。こんなの違う」

 

 少年の抱いた印象。それは、その姿を見た人々が共通に思ったことである。外観は似通っていたが明らかに異なる部分があったのだ。


「一体あれは何でしょう! 一見、蟹に見えますが足の数が十六本、向こうは二十四本もあります。ハサミも一対ではなく二対や三対もあります!」


 リポータ―が、次々と間違い探しに答えていく。


「あ、あれは本当に貝なんでしょうか――」


 二枚貝の殻の上側。そこから一対の羽が生え、空を飛んでいた。

 鮪や鰹は、腹ヒレの部位が大きな羽に置き換わっていた。そして、口元に牙が煌めいていた。見た目の狂暴さが否応なしにも増していた。


「異様な部位の全てが、漆黒で染まっています! あ、目の色が――」


 青褪めるリポータの女性。それら押し寄せる生き物の双眸は爛々と燃えていた。

 それを見た人達の頭を、ある言葉が掠めた。最近、電子網で話題を集めている予言だった。

 常軌を逸した存在に、港に集う人々は呆然と空を見上げることしかできなかった。


 頭上の群れの一部が突然方向を変えた。空から地表に向かい一直線に急降下してきたのだ。


「え、嘘っ! ひっ、ば、化け物――」


 リポータは、すでに自らの職務を忘れていた。目前に迫っていたと思っていた群れ。実際は未だ遠くに離れていた。

 シルエットが徐々に大きくなった。それは、従来の動物の数倍へと膨れていく。

そもそも空を飛んでいる時点で、まったくの別物と考えるべきだったのだ。人々は、すでに冷静な判断力を失っていた。


「なんて大きさ……」


 空を見あげる少年も目を見開いていた。 

 小さな羽根付き二枚貝でも、体長は二から五メートル。小魚でも数メートルはあった。鮪のような大型の魚類では数十メートルにもなる。そんな巨大な群れが一直線にこちらに落ちてくるのだ。


「うわっ!」


 突然の轟音に、少年は咄嗟に耳を覆った。暫く鳴り止む気配はなかった。音の発生源の海上へ目を向ける。

 そこには、数隻の海上自衛隊の艦艇がいた。機銃が空に向かって火を噴いていた。

 空を飛ぶ奇怪な動物たちが次々と海面へ撃ち落される。そのはずだった。

 

「なっ、き、効いていないぞ! 一体、何なんだあれは!」


 誰かがそう叫んだ。見た目は動物だったが、それの表皮は弾丸を弾くほど硬かった。

 迫り来る巨大で無数の脅威。野次馬たちは自らの危険を今更になって悟る。その場は、逃げ惑う人々で混沌を極めた。


 ああ、まずい。僕も逃げないと。でもなぜか体がいう事を聞いてくれない。

 轟音が再び大気を震わせた。しかし、これは先程とは比較にならないほどの大きさだった。耳を覆っていた筈なのに鼓膜が痛い。

 あ、緑の貝が空中で爆散した。す、凄い……。今のはもしかしてミサイルだろうか。あ、あの国旗は米国海軍?


 少年の推測は当たっていた。日本に駐屯していたアメリカ海軍の巡洋艦から発射されたものだった。砲弾やミサイルによって、次々と漆黒の動物が撃墜されていく。


 でも、だめだ。相手が多すぎる。撃ち洩らした、それらが次々と街へ襲いかかる。悲惨な光景だった。


「えっ、そんな……」


 巡洋艦に巨大な鮪の群れが突き刺ささった。よく見ると何隻かの艦隊からはすでに火の手が上がっていた。


 そして、身動きできない僕も例外ではなかった。数十匹の羽のついた巨大な魚の群れ。それが頭上から降り注いできた。


「うわぁぁああ!」

 

 恐怖に身動きできない僕の頭を、一匹の魚が貫いた。


 こ、ここは? 少年の意識が再び覚醒した。広い大通りが交差していた。後ろを振り向き理解した。どうやら駅前のようだ。

 東京から東に約二十五キロ。人口百万人を誇る都市だ。いつのまにか、そこに移動していた。


 でも、こんなところに来たくなかった――。

 一軒の高層ビルが崩れ落ち、赤に飲み込まれた。街全体が灼熱に包まれていた。時折、あちこちで爆発が起きる。

 ここは、サンエナジータウンとして、有名な先進モデル都市であった。ビルの外壁、道路、公園など、至る所で太陽光から燃料を生産していた。人工光合成シートと呼ばれる新技術だ。

 それが仇となった。あちこちでそれに引火し爆発が繰り返されていた。


「や、やめてよ……。僕たちが、一体、何をしたっていうの!」


 少年は道路に蹲り嘔吐していた。火で包まれた大通りに巨大な蟹がひしめきあっていた。

 火から逃げ惑う人々を易々と掴み上げると、ハサミで切り刻みながら口へと運んでいく。まさに化け物の狩場だった。


 ビルの影から何かがのそりと顔を出した。地響きがしたかと思うと、僕の近くの蟹もどきが爆ぜた。 それは戦車だった。砲撃が相次ぎ次々と蟹が葬りさられていく。


 ひ、酷い……。それは容赦なく街の住民を巻き込んでいた。すでに市民を助ける事は諦めているようだ。その目的は、あくまで化け物の掃討になっていた。


 戦車が砲塔を回し、別の敵に照準を合わせる。砲塔の先は完全にこちらを向いていた。僕は自分の死を覚悟した。だが砲撃されることはなかった。

 固いはずの装甲に柱のようなものが突き刺さったのだ。長さは十メートル近くあった。戦車を突き抜け、地面に突き刺さっていた。搭乗員がどうなったかは想像に難くない。

 それが皮切りだった。数百の巨大で細長い魚が空から斜めに降り注ぐ。倒壊寸前だったビルは一瞬で穴だらけになり、砂上の楼閣のように全てが崩れ去っていく。


 四つん這いで惨劇を見ていることしかできなかった。そんな僕の視界が急に黒い壁で覆われた。僕は上を見上げる。どうやら、それは太い足だったようだ。

 十メートルを超す巨大な蟹だった。鋭利な鋏が僕の体を易々と持ち上げ口へと運んでいく。

 ぎらつく牙が待っていた。あまりの恐怖に僕は絶叫をあげる。そして気を失った。



「坊ちゃん! 大丈夫ですか!」


 慌てたように少年に駆け寄るメイド姿の女性。歳は二十代後半といったところか。少年専属の世話役兼教育係だ。

 吹き抜けの広大なリビングの側面は、一枚ものの巨大な窓ガラスに覆われていた。

 窓の外は白一色の真冬の景観。にもかかわらず部屋は快適な温度に包まれていた。

 特殊複層ガラスで外からの熱は、ほぼ伝わらない。室内には暖房器具も一切見当たらなかった。屋外の空調施設で温められた空気が、屋敷全体に供給されていた。とても田舎街の屋敷とは思えない作りだった。

 リビング中央には大きな革張りのソファーがあった。これも明らかに高級そうな艶を放っていた。

 そこに少年が蹲っていた。少年もソファーも吐しゃ物に塗れていた。

 メイド姿の女性は、そんなことを一切気にも留めずに少年を抱きかかえた。少年の顔は土気色。唇は紫に変色し、白目を剥いていた。わずかに痙攣までしている。


「ああ、どうしましょう! そうだわ。まずは元凶を取り除かないと!」


 彼女は恐る恐る少年の頭に手を伸ばす。黒いニット帽のようなものを被っていた。それをゆっくりと頭から脱がした。


「とりあえず、これで大丈夫かしら……。あとは安静にさせないと」


 少年を抱え上げて風呂場に移動する。汚れた服を脱がして体を洗う。その後、清潔な服に着替えさせると、少年の自室まで運んだ。


 ベッドに横にしたところで、少年の口から呻き声が漏れる。そして、大きく目を見開いたかと思うと、再び絶叫を上げた。


「坊ちゃん! 大丈夫ですよ! 大丈夫っ。静香しずかは、ここに居ますよ」


 彼女は、ふくよかな自らの胸に少年を抱き抱える。柔らかい温もりと心地よい匂い。それが少年に安心を与える。

 暫くして少年は正気を取り戻した。


「ああ……。静香か。そっか、あれは現実じゃなかったんだ」

「いきなり気を失われたので、びっくりしましたよ。あまり静香に心配かけさせないでください」

 

 静香は涙目で少年を諭す。それでも、どこかほっとした表情を浮かべていた。


「ご、ごめんなさい」

「昨日の今日ですよ!」


「いや、過去の記録だって頭ではわかっていたはずなんだけど。あれを被って体感する世界は、とても映像と呼べるものじゃないんだ」

「そうなんですか?」


「うん、五感全て、肌で実感するんだ。本当に自分がそこにいるのと変わらない」

「昨日は全球的災害でしたよね。ということは、今回は、もしかして奴らの襲来ですか?」


「そうだね。皆が助けを求めて必死に逃げ惑っていた……」

「私は経験していませんが、想像を絶するほどの地獄だったと伝えられていますよね」


 少年が体感したのは、西暦二〇五二年一月。ソレが初めて人類文明に顔をだした日だ。

 未曾有の災害から約一年。その頃の各国は自国を含む世界各地の被害状況を、やっと把握し始めたところだった。震災の復旧や食料危機への対応、伝染病拡大の防止、放射能の除染など、やるべき事が積み重なっていた。が、それらの目途は一向に立っていなかった。二次被害による死傷者数は時とともに増加していくばかりだった。 

 そんな混沌といえる世界情勢。そこに追い打ちをかけるような形でソレが現れた。


「たしか、奴らは、最初は沿岸部に現れたんだよね」

「ええ、アメリカ大陸西海岸、インドネシア、日本、トルコ、イランなどが、ほぼ同時に襲われました」


 ソレには、確固たる意思があるかのようだった。数千もの群れを為し、人口の密集している都市部へと雪崩れ込んだ。その途上を妨げる高層ビルなどの建物は容易く崩れ去った。

 ソレは他の動植物には一切目もくれなかった。都市部に辿り着くと、逃げ惑う人類を選択的に捕食していった。

 沿岸部を皮切りに始まったソレの襲来。一ヵ月後には世界各国の内陸部へと広がった。世界の都市は人類の屠殺場と化した。ソレが去った後には首だけの廃墟が残された。


 国連はソレの総称を外見的特徴から、命名した。Slaughters of Humankind with Absolute Darkness Envelope,漆黒の殺戮者と。人々はソレをシェイドと呼び、怖れ慄いた。


「歴史上、初めてだったんです」


 生態系ピラミッドにおいて、人類よりも圧倒的上位に君臨する存在が生まれた瞬間だった。無論、人類も黙って被食者側にまわった訳ではない。沿岸域にシェイドの襲来を確認した直後から、あらゆる軍事対抗措置を講じた。

 戦闘機、爆撃機、戦車、地対空ミサイルや軍艦。陸海空軍の総力をもってこの脅威に立ち向かった。拳銃やライフル、機関銃のような軽火器類による攻撃は意味を成さなかった。シェイドの黒くて硬い岩石のような皮膚に弾かれたのだ。

 それでも榴弾や徹甲弾、ミサイルなどによる攻撃は効果があった。シェイドは人類文明を駆使したこれらの重火器に対抗する術はなかった。次々と破壊に成功したのだ。


「確かに、僕が見た現場でも、対空ミサイルや戦車砲は有効的だったよ」

「ええ、空中に浮かぶ数百メートルのシェイドにも有効だったようです。どんなに大型でも全て撃ち落としたそうです」


 先進国に襲来した数千を超えるシェイド。犠牲を出しつつも撃退することに成功したのだ。


「なら、なんで……」

「数です。あくまで始めが数千だったのです」


 第二陣が数万、第三陣は数十万、と夥しい数のシェイド。それらが物量にものを言わせるかの如く襲来したのだ。

 

「あ、あんなのが、数十万……」

「瞬く間に、世界各地の都市は蹂躙されました」

「でも、被害は大きくなっても、撃退はできたんじゃ」


「初めに、都市部と郊外部の輸送網が途絶え始めました。そうなると、どうなると思いますか」

「え? うーん」

「都市に対しての郊外の役割ですね。この街で言えば、市庁舎前と街外れといった感じでしょうか」

「あー。食べ物が届かなくなる?」

「そうですね。農作物などの物資の補給が滞り始めたんです。それは軍事物資も同じでした」


 郊外の生産拠点がシェイドによって破壊されていった。都市部に保管されていた戦略物資や生活物資はそれほど多くなかった。

 当然、需要に対して供給が追いつかない。シェイドへの対抗手段が底を尽きはじめる。人類による応戦は、じり貧にならざるを得なかった。

 各国政府は地方都市や農村部の防衛を諦めた。限られた大都市への撤退を余儀なくされたのだ。有限な戦力と物資を集約化し拠点を城塞化する。言わば籠城戦しか、選択の余地が残されていなかった。


「それって、僕らは置き去りにされたってことじゃないか」

「残念ながら、そうなります」


 二〇五二年の冬には、世界のあり様は酷いものだった。他国との情報通信網や陸海空の全ての交通網が、ほぼ断絶状態となった。


「世界総人口は、この時にはすでに十億を下まわりました」

「それって……。シェイド出現前の四分の一にまで減少したってことじゃないか」

「日本はもっと酷かったんです」

「なんでなの」

「シェイドの出現が最初に確認された地域。そこでの戦闘は特に苛烈を極めたんです」


 先進国であったにもかかわらず、日本の人口は五百万人ほどまで激減していた。まさに人類は絶滅の窮地に立たされたといっても過言ではなかった。

 ここに到り、初めて人類は一つに結束した。世界中で起きていた宗教や文化そして人種的な対立や争い。それは人類全体の生存にとって百害あって一利にもならない。それを本能レベルで悟った。

 シェイドにより断絶しつつあった国交の回復と国家間の協力体制の構築。各国政府はそこに腐心した。


「そして、いまの組織が出来上がったのです」


 シェイド襲来から約三年後の二〇五六年初頭。国際連合はその組織を一旦解体した。そして改めて世界各国から代議員を二名ずつ選出した。


「世界連邦政府だね」


 旧米国国内にそれが樹立された。


「でも、少し遅かったかもしれません」


 世界連邦政府には国連加盟国であった国の三割程度から議員が派遣されなかった。これは世界政府の樹立に反発したものではない。これらの国は、もはや国家としての機能を有していなかったのだ。それが、シェイド襲来により世界が陥っていた現実だった。


 新政府は世界連邦軍を速やかに編成した。しかし直ちに反撃体勢に転じることはできなかった。シェイドに対抗するための決め手に欠けていたのだ。むしろ、加盟国が徐々に音信不通になる様が以前よりも的確に把握されるようになる。

 皮肉なものだった。絶滅というゴールに向かった道を着実に歩まされている。その事実を突きつけられる形となったのだ。


「あれが今も世界を滅ぼす元凶なんだね。ほんとに恐ろしかった……」


 少年は再び思い出したのか、唇をぎゅっと噛む。


「あれほど、今日は止しましょうと言ったじゃないですか」

「でも、父上から早く最後まで見るようにと言われたんだ」


「それでも、歴史の勉強をしてから見た方が衝撃が少ないと言ったじゃないですか」

「父上の期待に早く応えたいんだ。応えないと……いけない」


 少年は弱々しく笑いかけると、静香はため息をついた。


「とりあえず、今日はもうお休みになってください」


 静香は少年をベットに横たえ、布団を掛ける。


「うん、わかったよ。お休み、静香。今日は本当にありがとう」

「いえ、坊っちゃんのためなら、何の苦でもありませんよ。では、お休みなさいませ」


 屋敷の廊下を足早に歩く、静香。汚れてしまったソファーを急ぎ掃除しなくてはと思っていた。

 廊下の反対側から恰幅のよい禿面の中年男性が歩いてきた。静香は下を俯いて壁際に移動する。

 あいつが、坊っちゃんを……。正直、いま一番会いたくない相手だった。


「おい、蓮夜れんやは、どこにいったんだ?」


 静香の前を通り過ぎることなく、声をかけてきた。


「旦那様。坊ちゃんは、自室で横になっています」

「なにっ? 病気にでもかかったのか」


「いえ、シェイド襲来の過去の惨劇を見たのです。あまりのショックに失神までされました」

「なんだと」


「もう目は覚ましております。が、本日は、ゆっくりと寝かせてあげようと存じます」

「ふん、軟弱者め」


「ぼ、坊ちゃんは、まだ三歳です。流石にあれは、お可哀想です」

「何を言っておる。早くあいつに自覚を促すためにも必要なのだ」


「で、でも――」

「お前もだ! いつもいつもそうやって、あれを甘やかすな。大体、あのシステムを我が家に構築するのに、いくらかけたと思っているんだ。それもこれも、あやつが我が家を更なる高みに押しあげる原石だからだ。いまから磨かんでどうする。いいか、儂の言いつけをしっかりとやらせるんだぞ!」


 そう言って、男は蔑んだ視線を静香に浴びせる。

 静香は、もう何も答えなかった。ただ下を俯いていた。そんな静香の態度が面白くなかったようだ。男は鼻息を荒くし、廊下をのしのしと歩いていった。

 贅肉に包まれて歩く男の背中。静香は冷たい表情でそれを見つめていた。

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