第26話 開戦

「ついにこの時が来たな、雪」


「そうですね。去年景虎に上田の様子を見に行ってくれ、何て頼んだのが昨日の事の様に思い出せますよ」


「あの時は流石に私も何を言い出したのかと思ったものだ。ついに狂ったのかとも思ったぞ」


去年の事を思い出すかのように含み笑いを浮かべる長尾(ながお)景虎(かげとら)、この栃尾城(とちおじょう)の城主である。

表情は朗らかに笑っているのに視線は鋭く先を見据えている。


「狂ったとは失礼ですね。まだまだそんな歳じゃないですよ」


「そうか?その割には言動が年寄り臭いとあちらこちらから聞こえてくるが……」


「ちょっと景虎、その話、後で詳しく聴かせてもらいますよ?」


太陽も既に頂点を過ぎ、地面に伸びる影が傾き始めた正午を過ぎた時間帯。


山城である栃尾城が築かれている山の中にひと際大きく開かれたかのような空間にある本丸。その端に行くと眼下に栃尾の情景が広がっている。

夏には鬱蒼(うっそう)と茂っている木々だが、今はまだ春の始まりという事もあって萌えたばかりの黄緑色の新芽や新葉が見て取れる。その為か木々の間には空間が広がっており遠くまで見渡せる。


自然豊かなその景色の中、街道ともいえる人々が行き交う道の脇に広がる木が生えていない広い空間。普段はその広い空間の中心に生えている傘松だけが目立つだけなのに、今はその周囲に黒い影が所狭しと動いている。


黒い影、それこそが今回の敵。上田の農民兵たちだ。


「数はざっと見ただけで……1000人以上。1500人とまではいかないかな?」


「そうであろうな。対するこちらは何とか寄せ集めても400人もいればいい方だろう」


城攻めには城兵の3倍の戦力が必要とされている。されている……のだが、これは正直この時代の考え方ではない。


城攻めには3倍の兵力を。これを別名『攻撃三倍の総則』というのだが、これは本来俺がいた現代の時代の考え方だ。

今から遥か未来の1870年の普仏戦争(ふふつせんそう)から第一次世界大戦におけるドイツ陸軍の研究によって経験的に論じられたことが英国公刊戦史で記述されたのだが始まりとされる。

つまり彼ら上田の農民兵や率いている将らが態々この栃尾城の兵力の3倍の兵を集めたわけではなく、たまたま集まったというだけだのだ。対してこちらも相手が3倍近くいるからと言っても悲観的な考えも無ければ、城を盾に戦える分たった3倍か、という印象だってある。


「真正面からぶつかったら、一人当たり三人を相手にすれば何とか平等な戦いが出来る。だがいくら冬の間訓練をして鍛えたと言っても所詮は農民兵。相手も同じ農民兵なら1対3で圧倒的に不利ですね」


「その通り。真正面からぶつかれば同じ練度であれば数が多い方が勝つのは自然の摂理。雪の考えている通りあっと言う間に蹂躙されてしまうだろうが、ならば相手の数を減らして事に当たればいいだけの事」


「あちらの農民兵たちは多くが食糧を得るためにこの戦に参加している。冬の間は山で食材を取ることが出来なかった上田の人々は多くが死に絶え、運よく生き残ったとしても春になってまだ日が浅く十分な食料が得られていない今、冬に飢えた者がこんな短時間で十分に戦えるほどの力を得られたとは考えにくい。だからこそ上田の人々は戦場に出る……食べられる物が貰えるから」


農民が戦場に出る理由、それは多くが食糧事情が厳しいのが理由である。

農耕だけでは生計が成り立たず、家族を十分に養うことが困難であるため多くの農民は進んで戦場に出る。これは現代風に考えれば命がけの出稼ぎと一緒である。


戦場に出れば食料が貰える。それも朝と夕の二食が確実に。

だからこそ農民が戦場に出るのだが、時には小さな息子なども連れてきてご飯を貰おうとするのだから、この時代の農民は実に逞しい根性をしている。


「だがそれが奴らの付け入る隙よ。食べ物で釣られる程度だからこそ、この戦いに対してそこまでの思い入れが無い。絶対に勝ちたいという信念がないのだ。信念が無いものがいくら集まった所で所詮は有象無象(うぞうむぞう)の輩よ」


「例え小さな波紋でも、有象無象の集団においてはやがて大きな波となって彼ら自身を襲う、かな?」


「そうだ。だからこそ最初の波紋さえ起こせればいいのだ」


多くの者が命を懸けてまでこの戦いに参加しているわけではない。しかし中には本当に命を懸けて戦っているものだっているだろう。そんな者が戦場に置いて背中を預ける時、命を懸けている者と懸けていない者のどちらに任せたいかなど考える暇もないだろう。

思いの違いは戦い方にだって影響を与える。

命懸けの者は少しでも多くの敵を倒そうと前へ前へと出て戦い、命を懸けない者は出来るだけ傷を負わないように右往左往して戦いが終わるのを待つ。


そして彼ら上田の者たちは圧倒的に後者の者たちが占めている。そんな彼らの中に一つの波が起こせたら少しでも生き延びようと何をするかなど簡単に想像がつく。


「雪、頼んだぞ。此度の戦(いくさ)、上手くいくかどうかはお前に掛かっているのだからな」


「分かっていますとも。何としても成功させますよ。これでも夜目(とめ)は利(き)くんです」


一城の主としての景虎の真剣な言葉に、俺は少しだけお茶目に呟いた。


ぶつかり合うだけが戦(いくさ)ではない。戦いはもう――――始まっているのだから。

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