第10話 競争 ――その①
ジリリリリリリリリ・・・・・
その日の朝、僕を眠りの世界から呼び戻したのは、いつも通りけたたましい目覚ましの音だった。
昨夜は思いの外ぐっすりと眠れた。
今日はいよいよ体育祭。少しは緊張するかと思っていたが、普段と少しも変わりはしない。
“やってやるぞ”みたいな意気込みは全然沸いてこなかった。
いつも通り涼子ちゃんの作った朝ご飯を食べ、いつも通り涼子ちゃんと家を出る。
僕と涼子ちゃんが肩にかけているバッグには涼子ちゃん手製の弁当、それに鉢巻が入っている。
僕と涼子ちゃんは同じ赤団だ。ちなみに体育服は制服の下に着込んでいる。
昨日に増して空には鈍色の雲が垂れ込め、お世辞にも良い天気とは言えないが、雨が落ちるまでには至っていない。
午前の降水確率20%、午後の降水確率40%・・・天気予報の上では運がよければつつがなく体育祭の全日程が行われるだろう。
・・・いや、“運が悪ければ”と言ったほうがいいかもしれない。
午後が土砂降りになれば午後に行われる2年男子徒競争は中止になる。つまり雨が勝負ごと流してくれるわけだ。
「いよいよ体育祭が来たね。今日は頑張ってよね。」
僕の心の内に反して、涼子ちゃんの声には僅かな高揚が感じられる。
正直、この勝気なお姫様の期待に添う結果を残せるとは自分でも思えない。
「あのねぇ、あまり期待されても困るよ。はなから実力が違うし、とりあえずは頑張るけど何も約束は出来ないよ。」
「弱気な事言わないで。龍輔さんにばかり頑張らせないよ。私も頑張るから。」
「はぁ・・・」
気持ちはありがたいが、涼子ちゃんがどう頑張っても、僕の順位が上がるわけでは無い。
「もう、龍輔さんはとにかく精一杯走ればいいの!新沼さんに負けたとしても、龍輔さんが1つでも順位を稼げば赤団は優勝に近づくんだから。」
その言葉に、もしかして涼子ちゃんは優勝するためだけに僕を焚きつけようとしていたのだろうかという疑いが一瞬浮かんだ。
まあ、新沼さんを目の敵にして絶対勝てと言ってるよりはましか・・・そう思っているときに限って校門で新沼さんに出くわしたりするのは、やはり僕には運が無いという事なのか。
噛み付くような視線を送る涼子ちゃんを無視して、新沼さんは僕1人に声をかけた。
「おい、ちょっと来い。話がある。」
その言葉に黙ってうなずき、踵を返した新沼さんに付いて行こうとする僕の袖を、涼子ちゃんがギュッと掴んだ。
「行かないほうがいいよ。」
そう囁く涼子ちゃんの手を解いて、僕は笑顔を作ってみせた。
「大丈夫だって。ちょっと話を聞くだけだよ。」
「でも、腹いせに・・・リンチとかされるかもよ?」
「それは、恐いね。」
そう応えつつも、僕は付いて来ようとする涼子ちゃんを目で制した。
僕だってリンチされたい訳でもミンチになりたい訳でも無いが、新沼さんはそんな事をしないという僕なりの確信があった。
第一、そういう形での報復を考えているなら、今までに果たす機会はあったハズだし、わざわざ短距離走勝負なんかを切り出す理由が無い。
新沼さんは終始黙ったまま、僕のほうを一瞥もせずにずんずん歩いてゆく。
校舎を半周くらいしたところで、新沼さんはようやく足を止めた。
そこは丁度トイレの裏にあたり、人通りが少なく廊下の窓から見られる事も無い。
僕の方を振り返る新沼さん・・・金色の髪がふわりと広がり、雲間から差す僅かな光を反射した。
場違いにも、見蕩れそうになる。
新沼さんはそんな僕を厳しい目つきで見つめ、問いを発した。
「お前、何で勝負を受けたんだ?」
予想しなかった質問に、僕は少し面食らった。
なぜ受けたかと訊かれたら、勝負しろと言われたからと答えるしかないが、そんな答えを要求しているようには見えない。
「お前が誰かに脅されてるんなら怒りはしねえよ。あの日、本当は兄貴に何があったのか、教えろよ。」
まあ、僕の言った事が信じられないのも無理は無い。信じようとしても、一体どうやって僕が新沼さんのお兄さんを追い詰めたのかまるっきり想像がつかないに違いない。
なにせ僕自身、夢だったのではないかと思いたくなるほど非現実的な出来事だったのだから。
「仮におまえが兄貴をやったとして、おまえはあたしと勝負してまでそれを証明したいのか?」
質問の切り口が変わる。
「いや、その・・・」
改めてそう訊かれると、自分でもどうしたいのか分からない。
「あたしに信じさせたとして、お前は・・・お前はそんなにあたしに殴られたいのか?」
言葉の裏に、沸々と湧き上がる彼女の激情が窺えた。
そもそも、僕はなぜ自分がやったと白状する羽目になったのか・・・
初めは、新沼さんのお兄さんが正気を取り戻す切欠になるかもしれないという考えだった気がする。
だから、新沼さんのお兄さんと屋上で会った事を、病室において明かしたのだ。
結果、彼が発作的に乱心し、無駄だと悟ったのだから、新沼さんに対しては「たまたま屋上に居合わせただけ」と誤魔化すべきだったのかもしれない。そういう選択肢もあった筈だ。
結局のところ、あのとき僕は、自分に降りかかった色んな出来事に混乱して、言わなくていい事まで言ってしまったのだ。
「何とか言えよ!コラァ!!」
新沼さんから急き立てられても、僕は何も言えなかった。
同じ失敗をしたくないという思いが、彼女と会話する事に対し僕を臆病にしていた。
「あたしは絶対お前に負けない。必ず勝ってあんたを土下座させてやるからな。」
一応、約束どおり勝負をして、僕が負けて土下座をする。
そういう形式をとってこの問題の決着とするのもいいかもしれない・・・
それは、勝負を受けたときから僕が頭の隅に描き続けている結末であった。
僕が教室に着いたのはチャイム寸前だった。
既にほとんどの人が体育服姿になっていて、僕は慌てて制服を脱ぎ始めた。
朝礼が終わって簡単に諸注意・諸連絡が行われた後は、すぐに外に出てグラウンド脇に集合だ。今の内に着替えを済ませておかなければいけない。
「おっ、龍輔のストリップだ。」
茶化す治樹を無視して僕はワイシャツとスラックスを脱ぎ捨てる。
当然、その下から現れたのはあらかじめ着込んでおいた体育服だ。
「なんだよ、少しくらいサービスしろよ。」
「僕の裸で誰が喜ぶんだよ!」
「そりゃあ、ねえ・・・ちゃんとギャラリーもいるようだし。」
治樹が意味ありげに視線を移した先には、西原がいた。
こちらを見ていた西原は少しの間きょとんとしていたが、慌てて首を振った。
「ち、違うよ。何言ってるの!誤解だって!」
顔を真っ赤にして否定する西原を見て、治樹は豪快な笑い声を上げた。
「うっはっはっはっは!そんなにムキにならなくてもいいだろ?うひひっ!」
治樹の笑い声を聞いて、僕は一抹の違和感を覚えた。
どうもカラ笑いのような印象を拭えなかったのだ。
しかし、人の心を推し量るなんてのは僕が最も苦手な事の1つである。
(“力”を使えば確認できるかも・・・なんてね。)
“力”を乱用するのは間違っている様な気がしたし、サイトを暴発させてしまう危険性だってあるから、もちろん真剣にそんな手段を考えてはいなかった。
体育祭において、競技が始まるまでやたらと無駄に時間がかかるというのは、どこの学校にも共通している事だろう。
ウチの高校も例外ではない。入場行進から始まり、開会の挨拶や校長先生の話、準備体操などが終わり、生徒たちが各団の待機スペースに引き上げると、ようやく最初の競技がスタートした。
競技開始以降、僕のように強制参加の2競技(学年徒競走と2年男子全員による騎馬戦)しか参加しない生徒は暇を持て余す。
まあ、選抜競技も1人1種目しか参加できないので、基本的にはみんな暇なわけだが、応援団に駆り出された生徒たちだけはずっと手足を振り声を出し続けなければならない。
運悪くクジを引き当てた人たちを可哀想に思うが、治樹のように例外的に立候補して応援団に加わる人もいる。
大抵の人が団員就任を避けようとする中、わざわざ苦労を買って出る治樹の気が知れない。
「フレー!フレー!あ・か・ぐ・み!! フレ!フレ!赤団!フレ!フレ!赤団!」
ホントに元気だなーと思いつつ、頬杖を突いて競技中の生徒たちを眺める僕。
「フレー!フレー!ほら、声出せ龍輔!!」
応援団の中から飛び出してきたあり得ない呼びかけに、僕はぎょっとした。もちろん声の主は治樹だ。
「分かったから名指しするな!」
思わずツッコミを入れた僕に、治樹がすかさず応じた。
「そう!それくらいの声だ!」
周囲からどっと笑いが起こる。赤団の団長は治樹のスタンドプレーで応援が滞った事に不満げだったが、雰囲気が盛り上がった事でよしとしたようだ。
(まったく、なにやってるんだか・・・)
苦笑しながらグラウンドを見やると、まさに1年女子の徒競走が始まろうとしていた。
(新沼さんどこにいるかな・・・)
1年女子全員がスタート地点に密集して座っているので、誰がどこにいるのか確認するのは本来とても困難な作業である筈なのだが、僅かに差し込む心許ない日光さえも鮮やかに跳ね返す新沼さんの髪は、遠目にも充分目立っていた。
「用意!」
パンッ!
ピストルの音が響くたび、スタート地点の塊の中から1列ずつ女生徒が吐き出され、徐々に新沼さんの位置が前の方に移ってゆく。
そしてついに、新沼さんがスタートラインに立った。新沼さんはどうやら3コースのようだ。
次の瞬間、7コースにスタンバイしている涼子ちゃんに気付き、僕は思わず驚きの声を上げそうになった。
涼子ちゃんは3コースの方を横目でちらちらと見ている。かなり新沼さんを意識しているように見える。
「用意!」
パンッ!
スタートの合図とともに先頭に踊り出たのは、4コースの女の子だった。ざっくりと刈り上げた髪がスポーティーなその女の子は、躍動感溢れる足運びでぐんぐんと前に出る。
(あれか・・・あれが治樹が言ってた陸上の娘だろうな。)
新沼さんはその娘の独走を許さない。後ろにピタリとつけてそのままコーナーに突入した。
涼子ちゃんも懸命に走っている。トップの2人にはやや水をあけられているが、必死に3位争いを演じている。
コーナーを抜けたところで、新沼さんは先頭の女の子と並んだ。
(・・・これは、ゴールまで決定的な差は付かなそうかも・・・)
そんな僕の見立てを嘲笑うかのように、残り50m付近でぐいっと前に出る新沼さん。
ショートカットの女の子は意地の形相で追いすがるものの、その差は1メートル、2メートルと一気に広がっていく。
新沼さんはそのままその子を一気に突き放し、余裕とも言える差でゴールに駆け込んだ。
新沼さんのスピードと完璧なレース運びに、僕は素直に感心した。この時点で負けを認めてもいいような気さえしてくる。
涼子ちゃんは結局4位でゴールインした。膝に手を当てて息を切らし、随分と悔しそうな表情をしていた。4位でも充分な気がするのだが、彼女にとって満足できる走りではなかったのだろうか。
徒競走に引き続き、グラウンドでは障害物競走だの棒倒しだのといった様々な競技が繰り広げられた。
僕が最初に出場したのは、2年男子競技の騎馬戦だ。
僕は土台の馬の左側担当だった。これは僕にとって幸いで、痛めている右脇腹をしこたまぶつけるような事態にはならずに済んだ。
この競技で赤団は1位を取ることができ、僕は特に足を引っ張る事もなく騎馬戦を終えられた事にほっと胸を撫で下ろした。
昨日全力疾走した時にも痛まなかったし、怪我は殆ど完治しているのかもしれない。
赤団は他の競技でも概ね好調で、同じく好調の白団と総合1位を争っていた。
やがて前半の競技が全て終わると、昼休みの時間になった。
小学校や中学校の時の運動会とは違い、家族が応援に来ている人はむしろ少ない。皆、友達どうしのグループになって思い思いの場所で昼食を食べ始めた。盗難防止のため、学校の全ての教室に施錠がなされているので、昼食は屋外でという事になる。
僕は雑踏から少し離れた木陰で弁当の包みを開いた。
「おう、今日はどんな弁当持って来たんだ?」
治樹が当然の様に僕の隣に腰掛ける。
「まあそんなことより午後はいよいよ徒競走だな。引き分けるためにはお前が1位になるしか無いぞ。」
治樹の言葉に、僕ははぁっと溜息を吐いた。随分気楽に言ってくれるものだ。
「なに深刻な顔してるんだ?ただのゲームだろ。何か賭けてるのか?」
(まったく、そう単純な話じゃないんだよ。)
でもまあ、徒競走の順位で勝負なんてのにそんなに深い意味があると思えないのも無理は無いかもしれない。僕たちの勝負が、傍からは他愛ないゲームにしか見えないのも当然だ。
そう考えると、この勝負自体がとても滑稽なものに思えてきた。
そもそも、体育祭の競技での決着を提案したのは涼子ちゃんだが、新沼さんがそれに乗ったのは意外な事だった。涼子ちゃんはともかく新沼さんは学校行事でハッスルするようなタイプには見えない。
(何というか・・・子供じみてる?)
そう、負けたら土下座して謝るという条件も、どこか子供じみているという印象を拭えない。
もしかしたら、それが新沼さんの
昼食を終えて赤団のスペースに帰る途中、涼子ちゃんとばったり会った。
「ごめんね、龍輔さん。私も出来るだけ頑張ってみたんだけど、龍輔さんの助けにならなかったね。」
申し訳なさそうな涼子ちゃんの言葉で、僕はようやく気付いた。
(ああ、もしかしたら、“私も頑張る”ってのは、“新沼さんの順位を下げるために頑張る”って意味だったのか?)
「そんな、謝らなくても・・・涼子ちゃんが新沼さんに勝つ事なんて期待してなかったし。」
「あ、ひどい。」
涼子ちゃんはちょっと拗ねたような表情をしたが、怒った訳では無さそうだ。最近、その辺の違いが段々分かるようになってきた。
「龍輔さんは陸上部とか学年最速とかと勝負しなくていいんだから、1位狙ってよね。」
(涼子ちゃんだって、陸上部やら学年最速やらを除いても1位になれてないじゃないか・・・)
そう突っ込みたくなったものの、そこまで言うとさすがに怒るだろうから言葉には出さなかった。
涼子ちゃんと別れた直後、スピーカーからアナウンスが流れた。
『午後の部開始5分前です。生徒の皆さんは、各団の待機スペースに集合し、整列してください。』
午後の部で最初に行われるのは、全校生徒によるフォークダンスである。
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