エピローグ

エピローグ

 もうすぐ、春も終わろうとしていた。

 山の斜面を造成して作られた市営墓地には、誰かがきれいに折りたたんだような静寂が漂っていた。そこでは、永遠と絶対が静かに保証されている。死者はもう、何も語ることはない。

 ハルたち四人の子供は、誰もいないその市営墓地を訪れていた。

 平地と違って、山間部にはまだ少しだけ春が残されている。散りそこなった花をわずかにつけた桜が、ただ控えめに春の名残りを告げていた。風は冷たく、陽射しもどこか透明だった。しかしいずれにせよ、季節は次の場所へと進もうとしている。


 ――あれからのことを、少し語っておかなければならない。

 崩壊中の完全世界から、四人はウティマに導かれて無事に元の世界へと帰還した。親たちはもちろん喜んだが、すべてをただ手放しで祝福するというわけにもいかなかった。特にサクヤのことは、アキの母親にとってはショックだったようである。

 事件そのものは解決したが、問題はまだ山積していた。室寺たちは魔法委員会の本部へと戻り、事後対応や詳しい調査を続けるようだった。「――賞状の一枚くらいはやりたいところだがな」と、室寺は苦笑いをしている。

 鴻城希槻の不在は、はっきりとはしない形ながら、かなりの影響を及ぼしているようだった。不可解なニュースがいくつも流れ、今までは問題にならなかった不祥事が続発した。誰かがずっと停めていた時間が、動きだしたみたいに。

 同時に、結社は解散し、再結成の動きなどは見られていない。しばらくは委員会による監視が続けられる予定だったが、もうほとんど脅威はなくなっているようだった。魔法に関する事件は、それでもどこかで起こってはいたけれど。

 ウティマはまだしばらく、この世界に存在しているようだった。本来なら完全世界が消滅した時点で世界の揺らぎも消えるはずだったが、彼女の存在は何故か今も残り続けている。〈絶対調律〉による何らかの影響があるのかもしれなかった。

 その〈絶対調律〉によってつなぎあわされた完全世界と不完全世界は、今のところ目に見える形での変化は示していない。世界には相変わらず混乱と不和があり、一方で真実や奇跡があった。すべての人間が完全世界を望めば、あるいはそれも変わるのかもしれなかったが。

 牧葉清織と澄花の失踪は、一部の人間を除いて話題にもならなかった。この世界ではよくあることの一つとして、それは処理されてしまったらしい。アキの母親はいまだに、サクヤの持ってきた玩具を眺めている――

 世界に大きな変化はなく、すべてのことは日常に戻ろうとしていた。結局のところ、この不完全世界にとって魔法は存在しないものでしかないのだから。

 この物語が世界に残したものは、本当にごくわずかだ。

 それでもアキによれば、時々不思議な魔法の揺らぎを感じることがあるという。例の調律がこの世界に残した、完全世界の切れはしのようなものを。

「ハル君は、感じないかな?」

 そう訊くと、けれどハルは首を振った。

「ぼくにはもう、魔法の揺らぎがわからないみたいなんだ」

「……?」

 ハルは淡々と、事実だけを告げた。

「たぶん、〈絶対調律〉による魔法のせいだと思う。美乃原さんの魔法のこと、覚えているかな?」

 訊かれて、アキはうなずく。彼女の魔法は、周囲の願いを自動的に叶えてしまうというものだった。

「人の願いを叶えているあいだ、彼女は魔法が使えなくなっていた。それと同じように、ぼくも魔法が使えなくなっているみたいなんだ。ぼくの魔法は、今でも働き続けている。あるいは、室寺さんみたいに強力な力を使いすぎたせいかもしれないけど」

「つまり――」

「うん、そうなんだ」

 ハルは今日の天気についてでも話すみたいにして言った。

使

 アキはちょっと考えるようにしてから言った。

「そのこと、残念だと思う?」

「魔法がなくったって、人は生きていけるよ」ハルは軽く首を振った。「それにアキも言ったみたいに、魔法でできることなんてたかが知れてるんだ」

「わたし、そんなこと言ったっけ?」

「言ったよ、確かにね」

 ハルはそう言って、からかうように少し笑った。


 ――その二人は今、未名の墓の前に立っている。もう四年も前に、そうしていたのと同じように。あの時と違って、もう桜はほとんど散ってしまっていたけれど。

 ハルは墓の前で、最後に母親と会ったときのことを思い出していた。あの夢の、黄金の一日でのことを。そこで確かに伝えられた、言葉のことを。

 おそらくこれから、ハルは母親のことを忘れていくだろう。その匂いや、まなざしや、手の温もり、声の響き、言葉使い――

 そしてそのことは、小さな痛みとなって残るだろう。それが失われ、壊れていくのだということが。

 けれどそれは――

 この不完全世界で、生きているということでもあった。

 ナツとフユの二人は、少し離れたところで街の様子を眺めていた。アキはハルのすぐ隣で、そんな二人に目をやっている。

 その時、アキはふと気づいてハルのほうを見た。

「ハル君、泣いてるの?」

「うん」

「そういう時って、あるよね」

「――うん」

 アキはそっと、ハルの手をとって握った。相変わらず少し冷たくて、それは誰かの温もりを必要としている。

「大丈夫、ハル君?」

 と、アキは訊いた。

「うん、ありがとう――」

 二人の子供たちは、この不完全世界で手をつないでいる。

 それはたぶん――

 いつかの暗い夜に、誰かと誰かがつないでいたのと同じ種類のものだった。少なくとも、それと同じだけの可能性を持った――


 季節は巡り、すべてはまた新しく始まろうとしている。



 かつて、世界は完全だった。

 そこには悲しみもなければ苦しみもなく、一切の不幸はほんの小さな一欠片さえ見いだせなかった。争いも、諍いも、間違いも、そこにはない。

 それは生まれる前の卵が夢見るような、完全な世界だった。

 けれどいつしか、人はその世界を捨ててしまった。どうしてそんなことをしようと思ったのかはわからない。何しろそこは、完全な世界なのだ。そこを出る理由なんて、どこにあっただろう――?


 ――それは、人が新しい可能性を求めたからだ。

 完全世界では得られない、新しい可能性を。そして可能性とは常に、善きものにも悪しきものにも開かれている。人はたくさんのものを失い、たくさんのものを得た。それはきっと、これからも続いていくだろう。

 人が魔法を失い、言葉を得てまで求めたものが何なのかは、まだわかっていない。それはこれから、わかるはずのことだからだ。

 いずれにせよ、これで物語は終わる。

 四つの季節と四人の子供たち、そして完全世界と二人の魔法使いを巡る――この「不完全世界と魔法使いたち」は。

 本はもう、閉じられるべきなのだ。

 始まりを終えるために。あるいは――


 ――魔法使いのいない、もう一つの不完全世界へ戻るために。

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不完全世界と魔法使いたち⑥ ~物語と終焉の魔法使い~(下) 安路 海途 @alones

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