桜色だけが蠢く世界の中で、一人と五人は対峙を続けていた。風も音も写しとられなかったその世界では、完全な無音だけが存在している。

 牧葉清織の言う、完全世界――〝黄金の一日〟

 それは永遠に傷つけられることのない、終わることのない一日だった。そこではすべての、どんな人間もが、穏やかな眠りにつくことができる。その一日の夢の中に、苦悶や悲嘆の影が残ることはない。すべてがただきれいなだけの、生まれる前の卵が夢見るような世界――

 そしてその繰り返しに、誰も気づくことはない。人々はただ、同じ一日を新しくはじめ続けるだけだった。太陽や星々でさえ、そうだ。その完全世界は、宇宙全体を含んでいるのだから。

 永遠と絶対に保障された、〝黄金の一日〟。

 けれど、それは――

 そんなものは――

 死んでいるのと、同じだった。

「どうして――」

 と、ハルはつぶやいている。

「どうして、あなたはそんなことを望んだんですか?」

 今までに会ったどんな魔法使いでも、そんなことを望んだりはしなかった。彼らは一様に完全世界を求めはしたが、それは失われたものを取り戻すことであって、新しく作りだすことではない。

 ましてや、世界の死を望む魔法使いなど――

 清織はどこか、遠くを見つめた。まるでその視線の先に、すべての答えが存在しているかのように。

「世界が美しくなれないというなら――世界からすべての悲しみや醜いものがなくならないというなら、そんな世界は死んでしまうべきなんだ」

 と清織は風にでも囁くようにして言った。

「この世界はもう十分に傷ついてきたし、悲しみを増やし続けてきた。もうこれ以上、耐えられないくらいに。誰かが、それを終わらせるべきなんだ。この世界があくまで美しくなれないというなら、僕がそうしてやるまでだ」

「けど、それは――」

 ハルは混乱するように首を振った。

「それには、もっと別の方法があるはずです」

「かもしれない」

 と、清織は逆らわなかった。

「そう望むのなら、僕はこの世界に対して一種の調停役のようなものにもなれるだろう。すべての不幸や悲劇を秤に載せ、そのバランスを調整するようなことだって。手で触れられる範囲において、みんなの幸福と運命を守り、不幸や過誤を是正する――」

 けれど、と清織は言った。

「けど僕は、この世界に対してどんなささやかな贈り物もするつもりはないんだ。澄花を救わなかった、この世界に対して。

「議論の余地はない、ということですか……?」

 ハルは死に至る病に冒された人を見るようにして、清織に向かって言った。

「世界が変わらないかぎり、僕が変わることはない」清織は淡々と、ただ星の座標を計測するように言った。「だったら、僕が世界を変えるしかない」

「どうして――?」

「残念だけど、これはもうずっと前に決まっていたことなんだ。あるいは、もう終わってしまっていたこと……九年前の、あの日の夜に。僕は物語を書き換えて、世界に完全な魔法をかける。永久に解けることのない魔法を」

「…………」

「そして君たちに、勝ち目はない。例え僕の〈終焉世界〉に直接記述されないとしても、君たちがこの世界に存在していることに変わりはないのだから。僕は今すぐに地球を消滅させることも、月を墜とすことも、太陽を爆発させることもできる。君たちを片づけるのにたいした時間はかからない。僕はそのあとで、ゆっくり仕事にかかればいい」

「…………」

「君が僕を倒すために何かの方法を考えていることも知っている。記述されなくても、音を聞くことは可能だからね。君たちの会話を盗み聞くのは、別に難しくはなかったよ」

 ハルにはもう、言葉はなかった。

 牧葉清織は確かに、それをするだろう。〝黄金の一日〟を作りだし、もう誰も傷つくことのない、美しく死んだ世界を実現する。彼を説得するのは、不可能だった。彼があの生まれることのない卵のような場所を旅立ったとき、それはもう決まっていたのだ。

 彼の作ろうとしている世界は、完全だろうか――?

 それは、優しさやきれいなものだけが存在する世界。抗いがたい不幸や、醜い傷跡の追放された世界。誰かが飢えや渇きに苦しむことも、銃火や災厄に倒れることも、悲憤や煩悶に駆られることもない。すべての神々を支配し、すべての物語を書き換え、たった一日だけ可能な、完全世界。

 母親が子供にせがまれて何度でも読み聞かせてやる、一番のお気に入りの絵本みたいな――

 そんな、世界。

 あるいは、人々はそんな世界を望むのかもしれない。すべてに絶望し、疲弊し、困惑してしまった人々なら。ただささやかな幸福を、平穏を、希望を願う人々なら。

 何故なら、世界はそういう場所なのだから。

 けれど――

 けれど牧葉清織の作ろうとしているその世界に、不完全世界で得られるものは含まれていない。

 悲しみや、苦しみや、喪失、代償、後悔、心の傷や、叶わぬ願い、救われることのない過去、失われていく大切なもの――

 それらのものに、意味はないのだろうか?

 いや――

 ハルはそれを、

 だから、宮藤晴はまじろぐこともなく牧葉清織のことを見つめて、言った。

「もう言葉では無理だというなら、魔法で決めるしかないでしょうね」

 それはおそらく、もっとも魔法使いらしい宣告ではあっただろう。


 ――そしてその瞬間に、サクヤは動いていた。



 そこからの時間は、実際の経過としては十秒にも満たなかっただろう。



 サクヤは四人から少し離れると、〈妖精装置〉によってあるものに変身した。

 もちろんそれは、魔法の鎖でつながれた狼でも、海の底に沈められた大蛇でもない。そんなものは、牧葉清織の前では無意味だった。どんな物語を用意しても、彼にはそれを書き換えることができる。

 しかしたった一つだけ、彼には書き換えられない物語があった。彼はそれを、のである。

 ――サクヤは魔法によって、ある少年の姿に変身した。

 それは、あの施設で働いていたというシスターに見せてもらった、例の写真の少年だった。牧葉清織がその顔の原型も残さないほどに叩き潰した、どうという特徴もない平凡な少年――

 その姿を確認したとき、清織は反応した。

 ……反応せざるを、えなかった。

 彼にはそれを無視することも、放置することもできなかったのだから。

 例え贋物とわかっていても、彼にその存在を許すことなどできはしなかった。その存在の一欠片さえ、世界に残してはいけない。

 清織は指輪をかざし、その少年を足元から焼尽せしめた。

 地獄の業火に等しい炎が、一瞬でその体を包みこむ――

 その、直前。

 ほぼ同時に、ハルもまた動いていた。

 牧葉清織に魔法をかけるために。

 そのためには、ハルは清織に直接触れる必要があった。走っても、もちろん間にあいなどしない。〝ソロモンの指輪〟は、刹那の時もなくすべてを灰にするだろう。そうすれば、魔法をかけるどころか、ハルもまた同じように焼尽せしめられるはずだった。

 だが、その瞬間――

 宮藤未名の魔法が発動した。


 〈真理変換ワールド・ロジック


 それは、〝自分以外の時間を停止させる〟魔法だった。あの最後の夢の中で、ハルが彼女から受けとった魔法。彼女が残してくれた、ほんの小さな力――

 その魔法が今、すべての時間を固定させていた。

 ――牧葉清織は、偽者の少年に向かって手をかざしている。

 ――サクヤは、まさにその足元から焼き尽くされようとしている。

 ――アキ、ナツ、フユの三人は、突然のことに為す術もなく立ち尽くしている。

 そして牧葉澄花だけが、そのことを知っているかのように同じ表情を続けている。

「…………」

 ハルはその中を、清織のほうに向かって歩いていった。

 この魔法が使えるのは、この一度きりのはずだった。それも、あまり長い時間は停めていられない。これはあくまで、もういなくなった未名の魔法なのだ。

 けれど――

 運命を決めるのに、それは十分な時間だった。

 途中、ハルはサクヤのほうに顔を向ける。

「ごめんね――」

 と、ハルは小さくつぶやいた。彼女を助ける暇はなかった。約束したとおりに、彼女のことは見捨てるしか方法がなかった。

 ハルは清織の後ろに立つと、その心臓のあたりに手をあてた。

 あとは、その鼓動が再び動きだすのを待つだけだった。

 ハルは深呼吸をして、その時を待った。陸上選手が、スタートラインで合図を待つみたいに。

 桜色の樹とその下の澄花だけが、静かにそれを見つめていた。



 清織はその少年の姿を完全に滅却した。髪の毛の一本まで、あまさず灰と化すように。灼熱はほとんど一瞬に、まるで新聞紙に火でもつけるようにして、その姿を消し去った。

 炭化し、もはや魂を持てない物質となったその体は、光の欠片となって完全世界に溶けていく。かつて鴻城やニニが、そうしてこの世界から去っていったように。

 けれど――

 その最後の一瞬、元の姿に戻ったサクヤは微笑を浮かべていた。

 彼女の瞳だけが、清織の後ろに立つハルの姿を映していた。それだけで、十分だった。その少年はたぶん、自分を助けられないことを、犠牲にしてしまったことを、悔やんでいるだろう。そんな必要はないのだとしても。それ以外に良い方法などないのだとしても。

 だがサクヤにとって、これで望みは叶えられたのだった。あの少年なら、きっとうまくやるだろう。そのことは、心配していない。だからサクヤは、もしもこれからニニのいる場所に行けるのだとすれば、満足して彼に会いにいくことができる――

 サクヤを消滅させるその直前、清織は自分の中で魔法の揺らぎが発生していることに気づいていた。どうやったのかはわからないにせよ、それがいつのまにか自分の背後にいた人物によるものだということも。

 一秒にも近いその時間のあいだに、けれど清織は後ろを見ることも、その場から動くことも、魔法で周囲一帯を消滅させてしまうことも――何も、できなかった。

 彼には、それを見届ける必要があったのである。

 その不完全世界が、この完全世界から一欠片さえ残さず排除されるところを。

 だからハルはその時間を使って――

 調

 そしてハルは、清織に触れていた手をそっと離す。読み終えた本を、静かに本棚に戻すみたいに。

 調律の終了した清織からは――

 〈終焉世界〉の力が失われていた。

 空から落ちてきた水の一雫が、いつかどこかへ消えてしまうみたいに。

 清織はただその事実を確認するように、自分の手を見つめた。そのどこにも、雨粒の消えた跡は見つからなかったけれど。

 そう――

 十秒にも満たないその時間のあいだに、すべては終わっていたのである。

 彼の敗北が、決定した。

「…………」

 牧葉清織は手をおろすと、ハルのほうに向きなおった。彼の表情には、どんな感情もうかがうことはできない。星のない夜空を見あげたときみたいに。

「……君は、僕に何をしたんだ?」

 と、清織は訊いた。怒りも嘆きもなく、ただ少しだけ不思議そうに。

「ぼくは調律したんです」

 この少年の魔法〈絶対調律〉が〝すべてのバランスを零に戻す〟ものだということは、清織も知っている。結城季早と、彼自身をさえ調律するような。

 けれど――

 けれど今、何と何のバランスをとったというのか?

「ヒントは、澄花さんにもらいました」

 とハルは言う。

「澄花から……?」

 それはあの一つめの始まりの、博物館でのことだった。光の音さえ聞こえてきそうなその場所で、ハルが澄花から教えられたこと。

 ――もしも君にそれがわかれば、

「ぼくはただ、あなたの望みと彼女の願いを調律しただけなんです」

「……?」

「つまり――」と、ハルは言った。「と、――その二つを」

「…………」

「何しろあなたたちの魂は、同じ場所にあったんですから」

 そう言って、ハルは自分の胸に手をあてた。その、心臓のあたりに。

 清織は言葉も出ないまま、何かが自分の中でゆっくりと溶けていくのを感じた。

 そしてようやく、ほんの少しだけ笑う。

 彼は長い旅を終えた人のように、肩の力を落とした。最後の場所で、その風景をぼんやりと眺めるみたいに。

「なるほど、僕は君には勝てないだろうな。僕が澄花に勝つことなんて、できないのだから」

 ハルはそんな清織を直視できないまま、つぶやくように言った。

「――本当なら、あなたは最初にぼくたちを全滅させるべきだったんです。あんな夢を見せるくらいなら、いっそ」

 言われて、清織は肯定するような、否定するような、そんなかすかなため息をついた。

「確かに、そうだったろうな。君を宮藤未名に会わせたのは失敗だった。けど、そうすることは澄花の願いじゃなかった」

「…………」

「できることなら、澄花は過去のすべてを忘れるべきだった。物語のすべてを破り捨てて。でも彼女にはそれができなかった。彼女がそれを忘れてしまうことを拒んだから」

 清織は、少しだけ笑う。

「彼女がそんな魔法を持っていたことは、皮肉だと思わないか? この世界を記憶しておくだなんて、そんな魔法を」

「……ええ、そう思います」

 ハルは素直に同意した。かつて宮藤未名が、その瞬間をいくら停止したところで、何も変えられなかったのだということを思いながら。

 そんなハルを見て、清織は軽い負け惜しみのような、ちょっとしたいじわるのような、そんな質問をした。

「君は僕に勝った。〝完全魔法〟さえ打ち破って――だが、そのことにいったい何の意味がある? あの不完全世界をこれからも続けていくことに。終わらない悲劇を、新しい傷口をただ増やし続けるだけのあの世界を。かつての完全世界に帰って、すべての物語を書き換えてしまうことの、何がいけないというんだ?」

 ハルは少しだけあいだを置いて、そして答えた。

 そのためのヒントは、すでに未名からもらっていたから。

「この不完全世界のすべてに、意味がないわけじゃありません。ぼくたちはまだ、この物語を閉じてしまうわけにはいかないんです。どうしてぼくたちが完全世界をあとにしたのか、それはわかりません。でも――。だからぼくたちはまだ、この世界を捨ててしまうわけにはいかないんです」

 清織は静かな夢にでも触れるみたいに、そっと目をつむった。その言葉がこの物語にどんな意味を与えるのかを、ゆっくりと考えながら。

「――ぼくには一つ、試したいことがあるんです」

 と、ハルは少ししてから言った。

 清織は目を開けて、この少年のことを見返す。

「いったい、何をだい?」

「この完全世界と、不完全世界を調律します」

 言われて、清織はよくわからないという表情を浮かべる。珍しい天体現象についてでも説明されたみたいに。

「それは、どういう意味なんだ?」

「ぼくはぼくの魔法、〈絶対調律〉について考えてきました」

 と言って、ハルは説明をはじめた。

「複雑系の考えかたの一つに、アトラクタというのがあります。一見ランダムな振るまいも、観測条件によっては一定の平衡状態に陥る、というものです。例えば、熱運動が最終的には均質化されるみたいに。そういう点のことを、アトラクタと言います――〈絶対調律〉は要するに〝二つのものをそのアトラクタに導く〟魔法なんじゃないか、とぼくは思うんです。二つのもののバランスをとるというより、二つのものが何らかのアトラクタに落ちつくまでのんじゃないか、と」

「それで、完全世界と不完全世界のアトラクタを求める――と?」

 清織はそれを理解して、けれど力なく首を振った。

「だが、何のために……?」

「そのことはやっぱり、ぼくたちだけでは決められないことだと思うんです」

 ハルはそう言って、アキたち三人のほうに顔を向ける。その頃には、三人とも二人のすぐ近くまでやって来ていた。

「それは世界が、みんなが決めることです。どちらの世界を望むのか。かつてあった完全世界と、今ここにある不完全世界……サイコロを公平に振るためには、そうするのが一番だと思いませんか?」

「つまり、みんなに決めさせようというのか?」

 清織はちょっと信じられないように言った。

「そうです。それでどうなるかは、本当のところはわかりません。世界はただ、もっと混乱するだけかもしれません。あるいは、少しは良くなるのかも。どんなアトラクタに落ちつくのか、少しずつ変化していくのか、急激に変わっていくのか、それとも何も起こらないのか、本当のところは何も――」

「…………」

「でもそれは、やってみる価値のあることだと思うんです。ぼくたちがここに来た本当の意味は、そこにあるのかもしれない、って」

 この不完全世界に魔法が残されたのは、あるいはそのためなのかもしれなかった。かつての完全世界を取り戻すためではなく、この不完全世界の可能性を試すために――

「……いいだろう」

 清織は言いながら、王の証であるその指輪を外した。

 そして〝ソロモンの指輪〟を、ハルのほうへと放り投げる。

 世界の法則に従って描かれた放物線は、ハルの手元へと収まった。ハルは指輪を、右手の人さし指に装着する。

 そして彼は、二つの世界の調律にかかった。

 両手を軽く開くと、それを体の前で構える。何か大切なものを、そっと抱えるみたいに。

 ハルは静かに目を閉じて、その人工の暗闇の奥を見つめる。

 二つのもの――

 完全世界と不完全世界――

 それらに両手で触れ、魔法の揺らぎを作りだす。

 本来なら、その二つはあまりに大きすぎるものだった。月や太陽をその手に乗せようとするみたいに。けれど今は、〝完全魔法〟の助けがあった。魔法の力は無限化され、何の制約も受けることはない。月や太陽であっても、親指を翳すだけで隠してしまうことができる。

 ハルは二つの世界をゆっくりと、慎重につなぎあわせた。

 はるか遠くの天体に、望遠鏡の照準をあわせるみたいに――

 神様が一番最初に、地球の位置を決めるみたいに――

 そして、それは完成した。

 〈絶対調律〉は発動し、その効果が執行される。

 瞬間――

 世界の基盤そのものが組み変えられるほどの、大きな大きな揺らぎが発生する。

 それは、宇宙全体を揺らすような――

 それは、魂の形を少し変えてしまうような――

 の耳に届くほどの、大きな揺らぎだった。


 ――完全世界と不完全世界は今、調律された。


 ハルはゆっくりと、目を開ける。

 世界に、目に見えるような変化はなかった。そこはさっきまでとまったく同じ場所で、清織やアキたちにも変わりはない。

 ただ――

 右手にはめていた〝ソロモンの指輪〟が、音もなく砕けつつあった。その形は風の中で砂が崩れるようにしてなくなり、光の欠片となって散っていく。

 それと同時に――

 〝完全魔法〟の桜色をした花もまた、散りはじめていた。

「……どうやら、この世界も終わりらしいな」

 と、清織はその花片にそっと手をのばしながら言った。手の平に乗ったその小さな桜色は、雪が融けるようにして光の中へと消えていく。

 どこからか吹いてきた風に巻きこまれ、花びらは吹雪のように舞いはじめた。

「この花がすべて散って、樹も枯れたとき、この世界は消えてなくなるだろう――」

 清織は目を細めるようにして、桜色の乱舞を眺めながら言った。

「そうなる前に、君たちは元の世界に帰ったほうがいい」

「清織さんは――?」

 その答えはもうわかっていたけれど、ハルは訊いた。

「僕はここに、澄花と残る。あの不完全世界に彼女は渡せない」

 清織は当然のことのように言った。

 ハルは何か言おうとして――

 けれど、どんな言葉も出てくることはなかった。それこそ、真空中では言葉が伝わらないのと同じで。

「――じゃあ、ぼくたちは行きます」

 ハルにかろうじて言えたのは、それだけだった。

「ああ、急いだほうがいい。本当なら僕が送ってやるべきなんだが、もうそれだけの力はないしね」

「…………」

「それから、悪いがこれを持っていってくれないか?」

 清織がそう言って差しだしてきたのは、一冊の本だった。〝書籍魔法〟の魔術具。かつて牧葉澄花が愛用し、その物語のすべてを記録してきたもの。

「これには、世界についての今までの記述がすべて残っている。僕たちにはもう不要のものだし、できれば君たちに持っていてもらいたい。澄花なら、きっとそう望むだろうから」

 ハルは黙って、その本を受けとった。

 そうして最後の別れを告げようとしたとき、

「――あの、ちょっといいですか?」

 と言って、アキが手を挙げている。

 清織は別にどういう反応もなく、小さくうなずいた。

「先輩に、澄花さんにお別れしておきたいんです」

 言われて、清織は少し考えるように澄花のほうを見た。けれど、特に断わるほどの理由はない。「……ああ、構わない」と清織は言った。

「ありがとうございます」

 アキはにっこりして、樹の幹によりかかって眠る澄花のところへ近づいた。

 そして言葉はかけずに、ただその手をちょっと握って別れの挨拶をすませる。何かをそっと、手渡していくみたいに。

 四人は今度こそ、本当にその場所を離れていった。

「――さようなら」

 とだけ、最後に告げて。

 牧葉清織に対して、残しておくべき言葉などなかった。彼はどちらにせよ、すべてを終わらせるつもりだったのだから。

 四人が去っていくのを、清織はその姿が見えなくなるまで追い続けた。空の上をまわる孤独な衛星が、地上の一点を見つめるように。

「…………」

 それから清織は、また元のように樹の根のそばまで歩いていった。すぐそこには、澄花がいる。彼女はただ眠るように、穏やかな顔をしていた。世界が終わり、自分たちが消えるのだとしても、これ以上望むことなどありはしなかった。

 桜色の花片は、地上に積もることもなく光となって消えていく。世界は今、美しく死につつあった。ある意味では、清織の望んだとおりに――

「実に豪勢な花見じゃな」

 と、不意に声が聞こえてきたのは、その時だった。

 見ると、少し離れたところにウティマの姿があった。彼女はまるで、そこにいるのが当然のような顔で散りゆく花を眺めている。

「――何をしに、ここへ?」清織はたいして意外そうな顔も見せずに言った。「敗者に対して、審判を下しに来たとでも」

「そのような役目は、我には含まれておらぬ」

 ウティマは軽く肩をすくめて微笑した。

「我がここに来たのは、お主に渡すものがあったからじゃ」

「渡すもの?」

 清織が訊くと、ウティマは近づいて、それを彼の目の前に差しだした。

 それは、一冊の絵本だった。

 清織と澄花がよく知っている内容の。

「それはお主のものじゃ。もっとも、最後のページはあの童どもが佐乃世来理に頼んで修復してもらっておるがの」

 清織は何も言わず、それを受けとった。あの場所に捨ててきたはずの、清織と澄花にとっての不完全世界のすべて。それをまた、この場所で拾うことになるとは思ってもいなかったけれど――

「我の用事は、それだけじゃ」

 ウティマはまるで、買い物の伝言でも頼まれたような口調で言った。

「あの童どもは、我が責任を持って向こう側まで送りとどけよう。もっとも、あの小僧の使った魔法のおかげで、我もどうなるかはわかったものではないがの」

 清織は黙ったまま、ただうなずく。その視線はずっと、絵本の上に注がれていた。

 もうその場を去りかけていたウティマは、ふと思い出しように清織に向かって言う。

「……お主は気づかなかったかもしれんが、あの最後の時に、水奈瀬陽がその魔法をかけたことは知っておるかの?」

 清織は怪訝な表情で顔をあげた。

「おそらくは、今だからこそできたことじゃろう。完全世界が崩壊し、細かな破片となりつつある今だからこそ。そうでなければ、あの娘の魔法といえど、それは叶わぬことじゃ」

「それは、いったい何の――?」

 清織が問いただそうとしたときには、この世界そのものである少女は、すっとその姿を消してしまっていた。謎めいた、何かを祝福するような微笑を残して。

 そして、その時――


「……お兄ちゃん」


 清織の後ろから、声が聞こえた。

 その声が誰のものなのか、清織には確認するまでもなくわかっていた。どんなに遠くからでも、どんなに騒がしい場所でも、清織にはその声を聞きわけることができただろう。

 どれだけの時間と距離があっても、彼方の星の光がここまで届くように。

「澄花――」

 清織は振りむいて、その名前を呼んだ。

 樹の根元から起きあがった彼女は、まだ夢の跡が残る足どりで慎重に地面へと体を降ろしていた。

 清織は今すぐにでも駆けよりたいのを我慢して、彼女のそばまで歩いていく。大切な何かが、壊れてしまわないように。

 桜色の花びらだけが、それまでと同じように散り続けていた。

「どうして、澄花が?」

 と、清織はまずそのことを訊いた。

 彼女はついさっきまで眠っていただけのような、ごく自然な状態でそこに立っていた。白い花冠をかぶり、それまでと同じ格好で。その魂は、まだ清織の中にあるはずだというのに。

「あの子が魔法をかけてくれたんだよ」

 澄花はそっと、自分の胸に手をあてて答える。おそらくは仮のものとしてそこで動いている、心臓の鼓動を感じながら。

「水奈瀬陽の魔法で――?」

 清織が訊くと、澄花はうなずいた。

「あの子の魔法〈生命時間〉が、私にほんの少しのあいだだけ時間をくれたの。つまりね、みたいだった私に、あの子の魔法が作用したの。ちょっと強引だけど、完全世界が解けていく、今だけは――」

 言われて、清織は千々に乱れていく桜色の花を見つめる。どちらにせよ、これは魔法の話なのだ。人々の望みや願いを叶えてくれる。

 それから二人は、あらためて向かいあった。もうすぐ終わってしまう、この世界の真ん中で。

「――たぶん、これでよかったんだと思うんだ」

 澄花はそっと、海岸で貝殻でも拾いあげるようにして言った。

「どうして?」

 と、清織は訊く。

「あの子も言ってたとおり、ここはまだ試されている可能性だから」

 そう言って、澄花は笑う。世界で最初に開いた花みたいに。

「その可能性はほんの少しだけ、世界が終わるのより大きかった。たぶん、そういうことなんだと思う。世界は、そういう場所だから――」

 彼女の言葉に、清織はかすかに首を振った。もう止まりかけた、古い時計みたいに。

「でもその可能性の中に、澄花が幸せになることは含まれていない」

「……お兄ちゃん、まだそんなこと言ってるんだね」

 澄花はそう言って、くすりと笑った。

「私の可能性は、ほかの人に移っただけ。それは失われたわけでも、壊れてしまったわけでもない。それがなくなったりすることはない――この世界が続いてくかぎり。私がやりたかったこと、やろうとしたこと、やるべきだったことは、その人がやってくれる。いつかどこかで、きっとほかの誰かが」

「…………」

「それに、私は幸せだったんだよ」

 牧葉澄花はそして、じっと清織の瞳を見つめた。夜空に星の光が届くような、ありふれた奇跡みたいなものとして。

「あの日の夜から、私は幸せでしかいられなかった。あの暗い森を抜けた日。だって、清織がその手を離すことはないんだって、知っていたから。どんなに暗い場所でも、どんなに恐い場所でも、その手が離されることはないんだって。だから――」

 澄花は笑顔を浮かべた。とても自然に、とてもきれいに。

「――ありがとう、清織。ずっといっしょにいてくれて。ずっと私を守ってくれて――」

 彼女の言葉を、清織は確かに受けとった。そのままの形で、どこかがほんの小さくでも損なわれることなく。

 そう――

 牧葉澄花は、世界を愛していた。

 この不完全な世界を、それでも――

「…………」

 だから、清織も――

「ねえお兄ちゃん、最後にその絵本を読んでくれる?」

 と、不意に澄花が言った。

 清織は手元の絵本に、目を落とす。結局、最後まで捨てきれなかったその絵本に。ずっと読み続けてきたそれは、あちこちが傷んでもう完全には元に戻せなくなっていた。

「ああ、いいよもちろん」

 そして二人は、樹の根元に並んで座る。あいだに、一冊の本を広げて。

 桜色の花は、もうほとんどが散ってしまっていた。完全世界は、もうすぐ閉じられようとしている。そこにある、最後の時間を見守りながら。

 二人はずっとそうしてきたように、絵本を読みすすめていった。あの時、清織が破り捨てたはずのページには、こう書かれている。


「名前ノナイ子供ハ自分ニドウシテ名前ガナイノカヲ思イ出シマシタ。ソノ子供ハ自分デソレヲ捨テタノデス。ドコカコノ世界デハナイ、自分ノイナイ場所ヘト行キタクテ。ダカラ名前ノナイ子供ハ神様ニ向カッテ、ミンナノ幸セノタメニ残ッタ命ヲ燃ヤスコトヲオ願イシマシタ。ソシテソノ子供ハ輝ク星トナッテ、ホカノドノ星ヨリモ明ルク美シク、今デモ夜ノ空ヲ飾ッテイルノデス――」


 物語は、そして終わる。

 ――完全世界とともに。

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