「まずはこの一週間ほどのあいだに、僕がこちら側で何をしていたのかを説明することからはじめよう」

 清織はまるで、丁寧に授業を進める教師みたいな口調で言った。

「鴻城希槻が百年以上前に、この場所に〝完全魔法〟の種を埋めた。それは知っているね?」

 訊かれて、ハルはうなずく。ウティマの話によれば、鴻城はそれをシャムロック・L・ヘルンという人物から受けとったはずだった。

「だが、それだけの時間をかけても〝完全魔法〟の樹は十分には成長しなかった。せいぜい、都市一つぶんというところだ。鴻城希槻はそれでもまだ待ち続けるつもりだったが、僕には別の手段があった」

「――まさか、時間を?」

 ナツが顔をしかめながら言う。

「君は勘がいいな、久良野奈津」

 清織はやはり、教師みたいな口ぶりで誉めている。

「そう、僕はまず完全世界の拡大を停止してから、樹を十分な大きさまで成長させた」

「ええと、室寺さんの話では、壁の拡大は一日に二十センチほどだってことでしたよね」アキがちょっと慌てて思い出しながら言った。「世界全体を含めるのに、いったいどれくらいの時間が必要なんですか?」

「完全世界は今、光速による事象の地平線を越えているよ」

「えっと……」

 アキは助けを求めるように、まわりを見た。

「つまり宇宙の果てまで含んでいる、ということ?」

 フユが眉をひそめる。その助け舟は、アキを乗せずにそのままどこかへ行ってしまったようではあったけれど。

「要するに、そういうことだ。完全世界は文字通り、世界のすべてを包含している」

「けど、そんな時間が……?」

 ハルは首を傾げた。何しろ、一日二十センチで宇宙の果てまで届くのだろうか。

「君たちは、ある学者の話を知っているかな?」

 清織は急に、迂遠な話をはじめた。

「古い話だよ。チェス盤を発明したその学者は、王から褒美がもらえるというので、こんなお願いをした。チェス盤の一マス目に一粒、ニマス目に二粒、三マス目に四粒、そんなふうに小麦を二倍ずつ増やしていく。それを褒美に欲しいと。最終的に彼がどれだけの小麦をもらうことになるか、わかるかい?」

「いくつになるんですか?」

 アキは素直に降参した。

「二の六十四乗マイナス一――」清織はあっさり教えてくれる。「計算すればわかるが、これは常識的な範囲を越える数値だ。直感的には単純な初期条件でも、計算結果は膨大な数字になるというのはよくある話だ。宇宙のすべてを含められるくらいにね。僕がやったのは、そういう時間の進めかただよ」

 清織の話から、アキはふとウティマの解いていたパズルを思い出した。限られた数の円盤を移動するのに、無限に等しい時間が必要とされる。

「でもそんなふうに時間を進めて成長させたら、この樹そのものが世界を押し潰しちゃうんじゃないの?」

 サクヤは気に食わない顔で、巨大な樹を見あげた。巨大といっても、宇宙より大きくなるはずがない。小さな箱に、大きな箱を入れられないみたいに。

「正確には、僕が無限大まで増やしたのは樹そのものではなく、花のほうだ。体積ではなく、その面積を」

 清織はそう言って、自分でも桜色の空を見あげた。

「コッホ曲線、というのを知っているかな?」

 その言葉については、ハルに聞き覚えがあった。確か、ナツの父親のことについても書かれていた、例の複雑系の本に出ていた単語である。

「ある線分に対して、正三角形を加える操作を無限に繰り返すことで得られる、フラクタルな図形の一種――」

 確か、そんなものだったはず。

「そう」清織はうなずいた。「そのコッホ曲線をつなぎあわせると、雪の結晶によく似た図形ができあがる。これは面積は一定の値に収束するが、長さは無限になる、というものだ」

「大きさは同じで、長さは無限?」

 アキはきょとんとした。

「この樹にもそれと同じことを行っている。体積は一定だが、面積や長さは無限に等しい」

 清織はそう、こともなげに言った。

「――小難しい話はともかく」

 と、サクヤは不機嫌な顔で、今までの話をばっさり切り捨てるように言った。

「結局、あんたは何をするつもりなの? 宇宙の果ての、その向こう側にまで手をのばして」

 言われて、清織はあらためて五人の子供たちと向きあった。天秤の片側に置かれた、完全な魔法の所持者たち――

「君たちには夢を見てもらったはずだ」

 と清織は言った。

「……それはあの、くだらない一日を繰り返す世界のことかしら?」

 フユはどことなく、怒ったように言った。今頃になってまた、失ったものを見せられるというのは、愉快なこととは言えなかった。

「どうやら、気に入らなかったらしいね」清織は澄ました顔で言う。「僕としては、君たちにはサンプルになってもらいたかったんだよ」

「サンプル?」

 ナツは怪訝な顔をした。

「同じことを、世界全体で行う前に――ね」

「つまりあんたは世界中の人間を眠らせて、夢を見させようっていうわけ? ただ幸せなだけの夢を……」

 サクヤは笑おうとしてうまくそれができなかったような、奇妙な表情を浮かべた。この男には、確かにそれができるのだ。そしてそれは、あるいは完全世界といっていいのかもしれない――

「いや、それでは世界は眠っただけで、死んだことにはならない」

 清織は恐ろしく落ちついた声で言った。

「僕が望むのは、なんだ。人々がただ眠って夢を見るだけの世界は、死んだことにはならない」

「だから、夢を見るのはにすぎない――?」

 とハルはつぶやくように、未名に聞かされた言葉を口にした。

 清織はそんなハルを見て、少しだけ笑う。

「君たちは、サンプルとしてはあまり適当とは言えなかった。余計なノイズのせいで思ったような実験過程にはならなかったからね。しかし段階としては、同じことだ。まずは夢の繰り返しから、〝黄金の一日〟を作るための材料を抽出する」

「黄金の一日……?」

 アキは初めて聞く言語の発音でも確かめるみたいに言った。

「そう――」

 うなずく清織に、ほとんど感情らしいものはうかがえなかった。演劇者の昂奮も、科学者の冷徹も。そこには、何も――

「たいしたことじゃない」と、清織は言った。「それはただ、不幸や傷のない世界にすぎない。あるいは、一日の最後にその醜い痕跡が残らない世界、という程度のものでしか。そこは、最高の世界とは呼べない。夢や奇跡にあふれているわけでも、幸運や成功に恵まれているわけでもない。そこはただ、一日の終わりにきれいなものだけが残る世界。昨日と同じで、そして明日も同じ一日が続けばいいと願うような世界――」

「バカげてる」

 と、サクヤは吐き捨てるように罵った。

「そうかな?」

 清織は気にせず、穏やかに続けた。

「少なくとも、それはだ。結局は、そういうことなんだ。例え完全世界を作ったとしても、それは決して完全になることはない。この世界で神様がすでに、それを試しているようにね。世界というのは、そういうものなんだ。宮藤くんの言うとおり、何でもできる存在などありはしない。世界は完全を許容しない。

 ――けれど、近似値なら得ることができる。ごく限られた、一定の範囲と条件でなら。何百回でも、何千回でも試行することが可能で、その最適解が求められるような世界でなら。それにはまず、すべての人間に実現しうるレベルでの〝黄金の一日〟を夢見てもらう。。そうすれば、完全な〝黄金の一日〟は完成する。ただきれいなものだけが残る、そんな世界――この世界をこの世界のまま、それでも美しく死なせてやるには、それしか方法がない」

 ハルは清織の話を聞いて、ただ力なく首を振った。海岸の砂粒を一つずつ、手で拾って数えあげろとでも言われたみたいに。

「そんなのは無理です。すべての人間の物語を読むだなんて」

「忘れたのかい? 僕には永遠の時間と、何よりその動機があるんだよ――」

 牧葉清織はどちらかというと、もうすべてが終わってしまったかのように言った。

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