丘を登る坂には、真新しい遊歩道がつけられていた。

 おそらく、牧葉清織がその魔法で作ったものだろう。住宅地を少し外れた、ただの雑木林が続くだけの場所に、そんなものがあるとは思えなかった。

 五人はその遊歩道を登っていく。あたりは、ほとんど真空といっていいような静寂で覆われていた。鳥や虫といった生き物も存在しないのだろう。それに、写真に音が写るようなことはない。

 空を見あげると、雑木のあいだから例の桜に似た巨樹を望むことができた。近くで見ると、その花らしい部分はかすかな燐光を帯び、ほんの少しだけ明滅しているようでもあった。ある種の波の繰り返しや、心臓の鼓動みたいに。

 その桜色の樹そのものが〝完全魔法〟の魔術具であり、そこには牧葉清織がいるはずだった。

 坂を登る途中で、ハルは言った。

「あの人とはまず話をするつもりだけど、もしもが来たらぼくに任せて欲しい」

 ハルはもちろん、サクヤのことは言わなかった。目をあわせることもしない。そういう約束だった。

「どうなるかはわからないけど、それしか方法はないと思うから――」

 五人はただ黙って、ハルの言葉を聞いている。牧葉清織との対峙がどんな結果に終わるかは、誰にもわからなかった。本当に、サイコロを振るみたいに。

 遊歩道を登りきると、雑木林はなくなって視界が開けていた。空にほんの少しだけ近いその場所には、下草の生える平坦な地面があって、その先には例の巨樹が天涯を押しつぶすような格好で梢を広げている。

 本来なら大きな影ができるのだろうが、樹から射す燐光のような白い光によって、あたりは問題なく明るかった。ちょうど、月夜の明るい晩に広い平原で佇むみたいに。

 そしてその樹の根元には、二つの人影があった。

 五人が近づくと、そのうちの一つが地面へと降りてくる。

 それはもちろん、牧葉清織だった。彼は孤独な王様みたいに、一冊の本だけを手に持っている。財宝も、衣装も、城館も、家来もなく。

 清織の後ろには、牧葉澄花がいた。彼女は頭に花冠をかぶり、まるで樹とよりそうようにして眠っている。終わることのない夢と、始まることのない目覚めのあいだで。

 二人の姿はまるで、神話の登場人物みたいに見えた――


「――まず、はじめに確認しておこう」

 と、清織は言った。

 そこには歓迎の辞も、恫喝の言葉もない。五人は招待されたわけでも、侵入してきたわけでもなかった。それはただ、同じ電車の中でたまたま席が隣あっていた、というだけにすぎないのだから。

「君たちはウティマの言うサイコロを振るためにここまでやって来た、そうだね?」

「――はい」

 五人を代表して、ハルが答える。

「自分たちの意志で、ということにも間違いはない?」

 訊かれて、ハルは一度ほかの四人を見まわす。けれどもちろん、そんな必要はなかった。ハルはただ、無言でうなずく。

「…………」

 清織はちょっと黙ってから、五人を見た。それからどこか遠くのほうに目を向ける。そこに、小さなパン屑が点々と落ちているのを眺めるみたいに。

「まあ、僕がとやかく言うようなことではないだろう」

 そう言って、清織はかすかに笑ってみせた。

。わざわざ試験をする必要はないだろう。僕は鴻城希槻のような趣味はないしね。君たちには、十分な動機がある――」

 ゆっくりとした、穏やかとさえいっていいような口調で話す清織の前で、五人は緊張していた。ここはあくまで、この男の領土なのだ。フユはいつでも魔法の展開が可能なように、注意深く構えている。

 だが、清織はそんな五人のことなど歯牙にもかけないといった様子だった。

「君たちが何かしないかぎり、僕のほうから危害を加えるつもりはない」清織はまるで、退屈な伺候の相手でもするように言った。「そして君たちも知ってのとおり、この世界では誰も僕に勝つことはできない」

「…………」

「ただ、一つ聞いておきたいことがある」

 清織は時計の針が少しだけ遅れているのに気づいたとでもいうような、そんな口調で訊いた。

「些細なことだし、全体としては何の問題もないだろう。でも、気になるのでね。できれば教えて欲しいんだ。君たちが僕の〈終焉世界〉の記述対象から外れたことについて」

 ハルは少しのあいだ、考える。もちろん、その方法をわざわざ教える必要はなかった。そんなことをしても、何のメリットもない。しかしハルには、この機会に確認しておきたいことがあった――

「その方法を教える前に、ぼくにもいくつか聞いておきたいことがあります」

 と、ハルは言った。

「――いいだろう」清織はハルの発言を咎めることも、嚇怒することもなかった。「僕としても、譲歩せざるをえないだろうからね」

 話が決まったところで、ハルはこちらから口を開いている。ほかの四人は、黙ってハルにすべてを任せていた。

「まずはあなたの魔法〈終焉世界〉について、聞きたいことがあります」

「……その口ぶりだと、もうこの魔法については知っているみたいだね」

 訊かれて、ハルはうなずく。ただ、それ以上のことを言うべきかどうかについては迷いがあった。

 けれど、清織には当然ながら見当がついている。

「結城季早、か」

「――ええ」

 ハルはためらいながらも、そう答えるしかなかった。

「季早さんには、特に口止めをしたわけじゃない」清織はまるで気にすることなく言った。「僕のことを誰にしゃべっても、それはあの人の自由だ。ただ、君がそこまでのことについて気づいたのは面白いな。いや、君だからこそ気づいた、というべきなのか――」

 清織の言葉には答えず、ハルは話を先に進める。

「あなたの〈終焉世界〉が澄花さんの魂を必要としたこと、その魔法が〝この世界を書き換えることができる〟ものだということは、季早さんから聞きました。でも、その魔法は必ずしも万能というわけじゃありません」

「――それは興味深いな」

 清織は驚きもせずに言う。

「厳密に考えれば、あなたの魔法が〝何でもできる〟はずはないんです。そもそも、そのこと自体が矛盾しているんだから。例えば、どこかの塀の上にでもある卵を、絶対に割れないようにするとします。そうしたら、何でもできるはずのあなたは、その卵を割ることも、割らずにいることもできなくなってしまう。嘘つきなクレタ島の人間みたいに」

「確かに、そういうことになるだろうね」

 と清織は逆らいもせず、素直にうなずいた。

「あなたの魔法が万能でないなら、問題はあなたの魔法には本当は何ができて、何ができないのか、ということです」

 ハルは言って、話を核心部分に進めた。

「あなたの〈終焉世界〉には四つ、できないことがあるはずです――その一つは、。それができるのなら、あなたは秋原という人にあんなことをする必要はなかったはずです。ただ単に、自分からしゃべらせてしまえばいいだけなのだから。そして、人を死なないようにすることはできても、生き返らせることはできない」

 清織は黙って聞いている。

「二つめは、。あなたの家には、つい最近まで生活していた跡がありました。自分のことを書き換えられるなら、そんなことをする必要はなかったはずです。それにそれができたなら、こんなまわりくどいことをしなくても、自分を神様に近い存在にもできていたはずです」

「…………」

「三つめは、。これは、フユの魔法が機能したこともそうですけど、ニニとの戦闘の時にもいえることです。あなたはニニの攻撃に対して、振動そのものを打ち消しはしたけど、魔法そのものを打ち消したりはしなかった。それは、それができなかったからです。ウティマがぼくたちを選んだのには、そういう理由もあるのかもしれない。あなたの〈終焉世界〉は完全魔法と拮抗しているんです。つまり、サイコロの目にするようなことはできない」

 清織はただ、少しだけ笑った。「――四つめは?」

、ということです」ハルは急に、ひどく大雑把な言いかたをした。「小説の作者にしたって、何でもできるというわけじゃありません。あくまでそれは、〝小説〟という形式なり枠組みなりに収まっている。たぶんそれは、なんです。例えそこが、完全世界だったとしても――」

 清織はハルの言葉を吟味するように、しばらく黙っていた。〝完全魔法〟の樹だけが、かすかなざわめきを続けている。やがて清織は、花でも揺らすみたいに小さく笑った。

「――君の言うことは概ね正解だ、宮藤晴」

 と清織はどこか愉快そうに言う。

「驚くほどに、ね。僕の魔法を、ほぼ正確に理解している。この世界のことについても――そう、たぶんこの世界は。少なくとも、それが全能の神であるなら」

「だからあなたが、条件つきの神様になると?」

「僕はそんなものを気どるつもりはないさ」

 清織は小さく首を振った。

「だがそれより、今度は君の話を聞かせてもらおう。君たちがどうやって、僕の魔法から逃れられたのか」

 ハルはその心の底を探るように、清織の瞳をじっと見つめた。宇宙空間で見るような、空気の揺らぎを欠いた純粋な星の光に近い輝きが、そこにはあった。その瞳に、嘘やごまかしはない。

 かすかにため息のようなものをついてから、ハルは言った。

「あなたの魔法の二つめと三つめの特徴を考えれば、は可能かもしれませんでした。ただ、確証というほどのものはなかったんです。でも今の状況では、とにかくやってみるしかなかった」

 清織は黙って、話の続きを待っている。

「ぼくはナツに頼んで、あるものを描いてもらいました。三つめのことで完全魔法を無効化できないのは想像できていたので、それがうまくいきさえすれば、あとは大丈夫なはずでした」

「いったい、何を描いてもらったと?」

「――これです」

 と言って、ハルは自分の左手を広げて清織のほうへと向ける。

「……?」

 そこには、マジックで何かの線が描かれていた。ごく単純な、図形のようなものである。

「これは、〝本〟です」

 言われて、清織は歯車の壊れた機械人形のような、どこか戸惑った表情を浮かべた。それも無理のないことではあったけれど。

「二つめのことで、どうしてあなた自身は書き換えの対象にならないのかを考えていました」

 ハルは左手をひっこめながら、説明を続けた。

「もしかしたらそれは、あなたが〝作者〟だからなんじゃないのか、と思ったんです。もちろん、ぼくたちはみんなこの世界の登場人物といっていい存在です。あなた自身も、それは変わらない。けれどあなたの存在は、それとは少しずれたところにある。その一部だけだったとしても、物語よりも上のところに。なら、ぼくたちも同じように物語の上のところに行ければ? そうすれば、あなたと同じように記述対象から外れられるかもしれない」

「…………」

「だからぼくたちは、〝読者〟になったんです。つまり、本を読む人間は必ず持っているものですよね――〝本〟を」

 ハルがそう言うと、清織ははじめ、かすかにだけ笑った。それから、新聞紙をくしゃくしゃに丸めでもするように哄笑する。

「――なるほど」

 清織はようやく笑いを収めながら言った。

「たいしたものだ。さすがに、澄花や季早さんが誉めるだけのことはあるよ、君は」

 それには答えず、ハルはふと清織の後ろにいる澄花のほうを見つめた。そこで人形のように――いや、として眠る牧葉澄花のことを。

「……あなたは、どうして澄花さんをそんなふうにしてまで?」

 訊かれて、清織は少しのあいだ目を閉じる。もう忘れてしまった夢を、無理に思い出そうとするみたいに。

「そう、そのことを説明しないといけないだろうね」

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