「完全世界といっても、向こう側と変わらないんだね」

 と、アキは縁石の上でバランスをとりながら言った。

 道には車も人通りもなく、がらんとしていた。建物や街路樹、電柱やポストといったものはそのままだったが、そこには人の姿だけが存在しない。知らないうちに、世界中の人間が遠くの星に向かって旅立ってしまったみたいに。

 無人の都市に余計な雑音はなく、足音の反響だけが聞こえた。静寂の密度があまりに高くなりすぎて、どこかに結晶化して転がっているようでもある。それを拾いあげて、粉々に砕いてしまうことさえできそうだった。

 完全世界の様子はアキの言うとおり、向こう側とまったく同じだった。ばらばらにした本をコピー機にあてて、再構成したみたいに。それは鏡の向こう側とでもいうべきもので、〝ウロボロスの輪〟はその両方を跨いで存在しているようだった。五人がまず同じ東屋にいたのは、そういう理由によるのだろう。

 ただし、この世界と向こう側は完全に同一というわけではない。鏡に映したというよりは、ある時点での写真として撮影された、というべきだった。

 それは、屋敷や街の様子を見て推測できることだった。屋敷では、焼け焦げた跡や、手入れが間にあわなくなって荒廃したはずの庭の姿が元に戻っていた。街中では、生物はともかくとして、道路上を走っていたはずの車が存在していない。

 おそらくこの世界は、ある時点での向こう側の世界を写しとったものなのだろう。その時点では屋敷は壊れてはいなかったし、一定以上の動きをするものはピンぼけとして処理されて存在しないことになった。そして以降、この世界では時間は経過していない。

 だが厳密に言えば、この世界での時間は停止しているわけではなかった。もしそうなら、写真の風景を動かすことができないように、五人もここには存在できないはずである。

 試しに何かを移動させるなり、破壊するなりすれば、その仕組みはすぐにわかった。しばらくすると、まるでパズルが最初の状態にリセットされるみたいに、すべては元通りになっている。この世界に変化というものは存在しない。池の水をいくら波立てたところで、また元のまっすぐな水面に戻ってしまうみたいに――

 鴻城の屋敷を出たあと、五人はそんな世界を目的地まで歩いていた。今のところ、ナツの〈幽霊模型〉による魔法は有効に働いているようである。少なくとも、つむに刺されて眠りについたり、首を斬られて盆に捧げられるといったことは起こっていない。

 幸い、目的の場所まではそう遠くはなかった。例の壁の円周から割りだしておいた、その中心地である。屋敷からは十分に歩いていける距離だった。

 五人は誰もその場所は知らなかったが、わざわざ探すような必要はなかった。簡単な地図も持っていたが、それを見るまでもない。何しろ、太陽を見つけるのに苦労がないように、その場所を見落とすことはないはずだったから。

 ――そこには、巨大な樹が生えていた。

 天を掃くバベルの塔にも似た、神話的な巨木である。樹の先端は青空に接し、ほとんど雲に触れんばかりのところに達していた。花か葉かはわからないが、全体が光のような桜色に包まれている。もしも始原の巨人を苗床にしたという世界樹があれば、こんなふうかもしれなかった。

 五人はぶらぶらと、散歩でもするように無人の通りを歩いていた。徒歩以外に移動手段はない。縁石の上でアキがバランスを崩して、ナツがそれをからかう。世界の終わりにしては、ひどくのんきな光景だった。

 ハルがそんな景色を眺めていると、隣からサクヤが話しかけている。

「――あんたなら、何か考えがあるんじゃないの?」

 と、この少女は刃物の切れ味でも確かめるような、どことなく不穏な言いかたをした。

「考えって?」ハルは訊きかえす。

「とぼけないで」

 二人は互いの顔も見ずに、並んで歩いていた。

「このままあいつのところまで行っても、あたしたちは全滅するだけよ。よくて、追い返されるのが関の山ね。あいつの魔法と、〝ソロモンの指輪〟があるかぎり、誰もあいつに勝つことはできない」

 実際に、サクヤは自分の目でそれを見ているのだ。ニニの〈迷宮残響〉は打ち消され、強力な雷撃が襲ってきた。しかもウティマによれば、指輪と〝完全魔法〟があるかぎり、牧葉清織は不死身で、その指輪を強制的に外すこともできない。

「まさか、あいつを説得できるなんて考えてないわよね?」

 サクヤは不機嫌そうに言った。

「それはわからないけど……サクヤの言いかただと、何だか説得できないほうがいいみたいだね?」

 むっとした顔で、サクヤは口を閉ざす。

「ごめん、茶化してるわけじゃないんだ」

 ハルは子供の駄々にでもつきあうみたいに、少しだけ笑う。

「でも本当なら、戦いなんてしないほうがいいんだ。サクヤの言うとおり、ぼくたちに勝ちめなんてないんだし。だからもしもあの人を説得できるなら、そのほうがいいんだと思う」

 サクヤは黙って、ハルの話を聞いている。人に馴れない獣が、渋々ながらも従うみたいに。

「話しあいをするのは、確かに難しいと思う。あの人の決意は固い。物語を殺せるくらいに。だからぼくも一応、最後の手段みたいなものは用意してるんだ」

「それであいつを倒せるの?」

「倒すわけじゃないんだ」まるでそれが本当は何かの罪であるかのように、ハルは沈んだ口調で言った。「ぼくはただ、バランスをとるだけだから――」

 サクヤはさっぱりわからない、というふうにハルのことを見た。けれどハルはいつものような顔で、前を見ているだけである。

「具体的には、どうするわけ?」

 サクヤはあらためて訊いてみた。

「それは言わないほうがいいと思う」

 と、ハルは少しだけ真剣な声で言った。

「もしかしたら、この会話だってあの人には聞こえているのかもしれない。ぼくたちのことを書き換えられなくても、声を聞くだけなら。だから念のために、ここでは話さないことにしておく」

「あたしが手助けできることはないの?」

 訊かれて、ハルはちょっと考えた。

「ぼくが魔法を使うための、ほんの数秒があればいいかもしれない……でもそれだって、難しいと思う。あの人がそれに気づけば、すぐにでも対処されてしまうだろうから」

「あいつの注意をそらす、ほんの数秒があればいいのね?」

 サクヤは何故か、強い口調で確認してきた。契約書のサインでも迫るみたいに。

「それは、そうだけど。いったい、どうするつもりなの?」

 ハルは首を傾げて、彼女のほうを見る。

「それは言わないほうがいいでしょうね」

 と、サクヤはハルの口調をそっくり真似て言った。

「でもはっきり言っておくわ。

「…………」

「だからあんたは、その時が来たらあたしのことには構わず、その最後の手段とやらを使って」

 ハルは深い森の中で、別れ道にでも立ったみたいに首を振った。

「よくわからないけど、何か危険なことをするつもりなんじゃないの?」

「どっちにしたって、あたしの生命はもうもたないのよ」

 サクヤはどちらかといえば、穏やかといっていいくらいの笑顔を浮かべて言った。

「そのことを、あんたが気にする必要なんてないわ。だからその時になったら迷ったり、躊躇したりしないで」

「――うん」

 と、ハルにはうなずいてやることしかできない。

「それから、この話はみんなにはしないで。特に、アキには」

「どうして?」

「言ったら、きっと止めるからよ」

 サクヤはほんの少しだけ、何かを恥ずかしがりでもするように言った。

「そうでなくとも、巻き添えになるような真似はさせたくない。これはあたしだけの問題でしかないんだから」

 ハルはやっぱり、うなずくしかなかった。彼女の決意に、口出しするわけにはいかないだろう。魂の形を勝手に変えるわけにはいかないみたいに。そして何より、ほかに良い方法などないのも事実だった。

 五人はそのまま、物語の終焉が待つ場所へと歩いていく。

「ねえねえ、二人とも」

 と、前にいたアキが、後ろむきに歩きながら言った。

「何だか、お花見にでも行くみたいだね――」

 ひどくのんきな口調で、彼女はそう言って笑った。

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