その日記は、清織でも澄花のものでもなく、牧葉総志のものだった。

 彼はこの家の持ち主であり、書類上は二人の養父ということになっている。元裁判官という経歴で、二人を養子に迎えたときには、すでにかなりの高齢だったようである。妻を亡くして以来、実の子供たちとは疎遠なまま、この古い家に一人で寡夫暮らしを続けていた。死後、遺産のすべては実子のほうへと渡っているが、この家だけは清織と澄花の二人に残されている。

 日記には、職業柄を思わせる恬淡とした文字で日々のことが記されていた。気候や出来事や雑感が、一連の手続きでも踏むようにして几帳面に綴られている。それは何となく、管理の徹底した工場で休むことなく記録を生産している、という感じだった。

 内容については相当古くまで遡れるが、二人のことについてはあまりはっきりとした記述は得られなかった。

 牧葉総志によれば、二人と出会ったのは偶然だという。住所不定の子供たちを見つけ、一時的のつもりで保護することにした。は、毛糸の玉でも転がすように次第にのびていき、結局は養子として引きとることになった。ただし全体としては、牧葉総志が二人と過ごした時間はそれほど長くはない。

 二人が浮浪児になった経緯や、その事情について、総志の日記は特に語ってはいない。あえて書き残さなかったのか、何か不都合があったのかはわからなかった。

 けれど――

 その日記を読むかぎりでは、老人と二人の子供は幸せに暮らしていたようだった。ちょうど、昔話のその後みたいに。清織と澄花という名前は、老人がつけてやったものらしい。あの二人の少なくとも半分くらいは、この場所で誕生したといってもよさそうだった。

 結局、牧葉総志という老人は、二人に家と名前を与えてやったことになる。


 ――というのが、翌日に室寺がまとめた日記についての概要だった。

 しかしその中で、二人の前歴についてわかったこともある。それが〝光の教団〟だった。



 その年配の女性は、ふくよかな体つきに、よく発酵したパンみたいに丸々とした顔立ちをしていた。小さな丸眼鏡をかけて、ゆったりとしたローブのような白いワンピースを着ている。

 彼女は自分の名前を、「アフラ」と名のった。表札には笠島と書いてあったはずだが、どうやらそれは仮の名前らしい。少なくとも彼女の信奉する教えに従えば、そういうことになる。

 光の教団について室寺たちが調べたところ、その宗教組織はすでに瓦解し、消滅しているらしい、ということが判明した。教祖は行方不明で、関係者の多くは離散している。清織と澄花の二人がいた当時のことを知っていて、なおかつ〝壁〟の内側に在住している人物ということで、彼女、アフラ=笠島に白羽の矢が立てられた、というわけだった。

 例によって室寺と五人の子供が彼女の自宅を訪ねたのは、午後の半ばというところである。 案内された部屋は、全体が白色で統一されていた。天井や壁紙はともかくとして、床や柱、家具や小物の類にいたるまで、可能なかぎりのものに白が使われている。注意書きのあるベンチみたいに、気がつくとべっとりその色がくっついてしまいそうだった。

 室寺は名刺を渡すと、まずは彼女のことについて確認している。

「――確かに昔、私はそこでシスターをしていました」

 と、彼女は何の気負いも後ろめたさもない声で言った。

「教団そのものはなくなってしまいましたが、私は今でも教義を守り続けています。それが正しい教えであると、信じているからです」

「なるほど……」

 室寺はあたりを見まわしながら、注意深く同意した。何種類かの細菌なら殺せそうなこの部屋を見れば、それはよくわかることだった。

 彼女と室寺たちは、ガラス製らしい白いテーブルを囲んで、当然のように真っ白なソファに座っている。

「教団が解散してから、もう十年近くになります。正直なところ、今さらそのことで人が訪ねてくるとは思っていませんでした」

 彼女は目の前に火のついたロウソクでも立っているような、ゆっくりとしたしゃべりかたをした。少なくとも、狂信的なところや、暴力的な気配は微塵も感じられない。

「我々も関係者のかたをほうぼう探しまわったんですが、見つけだすのには苦労しました」室寺は適当な嘘を混ぜつつ、礼儀正しく言った。「それで、ご迷惑とは思いましたが、こうして訪ねさせてもらった次第です」

「それは構いませんが――」彼女はやや当惑気味に訊ねた。「いったい、どのようなご用件でしょうか?」

「実は、人を探しているんです」

 そう言って、室寺は二枚の写真を彼女の前に並べた。手に入った中で一番古い、清織と澄花の写真である。

「その二人に、見覚えはありませんか? あなたが教団に勤めていた頃、その施設にいたはずなんですが」

 彼女はしばらく写真を凝視していたが、やがて静かに言った。何かの鍵を、そっと開くみたいに。

「――ずいぶん大きくなってはいますが、この二人なら間違いないでしょう。実に印象的な子供たちでしたから」

「よく覚えている、と?」

「ええ、ですが――」

 と、彼女は室寺から、五人の子供たちまでを巡り見ながら言った。

「失礼ですが、いったい二人にどのようなご用件があるのでしょう。正直なところ、あなたがたと二人の関係については見当もつかないのですが……」

「申し訳ないが、事情について細かいことをお話しすることはできません」室寺は友好的な笑みを浮かべつつ、何食わぬ顔で強弁した。「ある特別な調査に関わること、とでも思っていただければ――それ以上の説明は、どうか宥恕ください」

 彼女は室寺を見て、子供たちを見て、二人の写真を見て、それから最後に室寺から渡されてテーブルの上に置いてあった名刺を見た。そしてちょっとだけため息のようなものをついてから、何割か諦めも混ざった顔でうなずく。

「わかりました、ともかく知っていることはすべてお話しましょう」

 室寺は感謝したが、彼女の承諾がこの男の笑顔のせいでないことだけは明白だった。

「その頃の写真を入れたアルバムがあるはずですから、ここにお持ちしましょう」

 と彼女は言うと、立ちあがってどこか別の部屋へと向かっている。

「――俺もああいう名刺が一枚、欲しいところだな」

 ナツは半分くらい冗談の口ぶりで、ハルに向かって囁いた。

 やがて彼女が戻ってきて、手に持っていたアルバムをテーブルの上に広げている。当然のように、そのアルバムも真っ白だった。

「あなたがたがお探しの二人は、おそらくこの子たちで間違いないでしょう」

 彼女がそう言って指さしたのは、一枚の写真だった。

 その写真には、縦に切りとられた空間に二人の子供が写しとられていた。室内のようだが、吹き抜けの広場になった場所で、二人の背後には何かの機械をばらばらにして積みあげたような、奇妙な形の巨大なオブジェが飾られていた。

 子供たちはオブジェのある台座に腰かけて、何かを熱心にのぞきこんでいる。二人とも、紙を切りとっただけみたいな装飾性のない白い服を着ていた。

「これは?」

 と、室寺が訊ねる。

「当時、私が撮ったものです」

 彼女は十年近く前のそのことを、どちらかという比較的最近のことみたいにして言った。

「廊下を歩いていたときに、たまたま見かけたのです。別の用事でカメラを持っていたのですが、気づいたときにはシャッターを押していました。二人は絵本を読んでいるところでした」

 写真の中の二人は、とても幸福そうに見えた。たった今、神様から特別の贈り物でも受けとったみたいに。写っているのは横顔だけだったが、その二人の面影は清織と澄花のものに間違いはない。

「この二人は教団の施設で暮らしていた、ということでいいんですね?」

 室寺は確認した。

「ええ――」

「施設というのは、どのような?」

 訊かれて、彼女は少し考えるように間をとった。箱の奥にしまっておいたものを、丁寧に一つずつ取りだしていくみたいに。

「教団の教えによれば、私たちにとってこの世界は一種の通り道にしかすぎません。本当の世界は、その先に訪れるものなのです。ですから、それをすでに知っている者として、私たちは本当の世界での名前を名のっています」

 つまり彼女がアフラと名のっているのは、そういう理由によることのようだった。当然ながら清織や澄花にもそれがあって、彼女はその名前も教えてくれる。

「私たちがいずれ到ることになる本当の世界には、この仮住まいとは違って、怒りや悲しみ、憎しみや苦しみといったものは存在しません。そこは清浄無垢な、生まれる前の卵が見る夢のような世界です。ですからその世界に到るまでは、私たちはできるかぎりこの世界の毒気を避けなければなりません。いわば、をできるだけ取りのぞく必要があるのです。そうしたものは、本当の世界にはふさわしくないものですから」

「だから孤児や引きとった子供たちを、隔離施設で育て、世界との接触を断とうとした――?」

 彼女は首肯する。ごく簡単に。

「光の教団が白を最高色とするのも、同じ理由によります。ご存知のとおり、光はすべての色を混ぜあわせると白色になります。それはすべての穢れを超越した、神聖にして冒されざる色なのです。だから我々は、できるだけその色を尊び、親しむようにしています」

 この部屋や彼女の格好を見れば、それは十分に理解できることだった。

「教義についてのお話もけっこうですが、二人のことについて詳しく聞かせてもらっても構いませんか?」

 言われて、彼女は機械が何かにつっかえるように口を噤んだ。おそらく、教えについてまだいろいろと話したいことがあったのだろう。けれど思いなおすように一呼吸してから、質問について答えはじめた。

「――前にも言いましたが、この二人は実に印象的な子供たちでした。血はつながっていないのに、本当の兄妹みたいに仲がよくて。メーテルリンクの『青い鳥』に出てくる、未来の王国の恋人のことを知っていますか?」

「あいにくと……」

 室寺は肩をすくめた。

「『青い鳥』には、これから生まれてくる子供たちの国を訪ねる一幕があります」彼女はごく静かな声で話しはじめた。「そこでは、未来の英雄や医者、科学者といった子供たちが生まれるときを待っているのです。そうして送りだされる子供たちの中に、恋人同士と呼ばれる二人がいます。ですが二人はいっしょには生まれられないのです。一人は早すぎ、一人は遅すぎます。それで二人は、お互いを見つけるための印を求めます。その印として、一人は愛を、一人は悲しみを約束します。二人は結局のところ、一人ぼっちでしかいられないのです」

 彼女はちょっとためらうように言葉を切って、それから続けた。

「――あの二人は、その恋人同士に似ていました。もしも二人が同じ世界で生を受けていれば、こんなふうになっていたのではないか、というふうに」

 部屋の中に、何かがそっと置かれるような沈黙が流れた。白い色は、まるで自分で自分を傷つけるみたいに明るい光を放っている。

 その沈黙を静かに脇へどけて、室寺は言った。

「だが、二人は施設を出ていった……何故です?」

 彼女は何か困ったような、戸惑ったような表情を浮かべている。

「実は、そのことについてはよくわかっていないのです」

「わかっていない?」

「ええ、二人がいなくなる直前……いえ、いなくなったその夜に、ある事件が起きました。です。あれは、あれは、本当に恐ろしい出来事でした」

「そのこと、しかるべき機関には?」

 彼女は首を振った。

「私たちは、外部の組織とはできるだけ接触を断っていました。その時も、同じです。捜査と呼べるようなことはほとんど行いませんでした。遺体は施設に埋葬され、事件としてはそれっきりです」

「――殺したのは、いなくなった二人だと?」

「それはわかりません」彼女はどちらかというと、混乱気味に首を振った。「とても、そんなことをする子供たちではありませんでしたから。被害者は頭部を金属バットで叩き潰されていました。非常に念入りに、です。もう原型はとどめておらず、部屋は――そこは女の子の部屋でしたが――一面が血の海でした。凶器は残されていましたが、犯人につながる明確な証拠はありませんでした。あんなことが……あんなことがあの子たちにできるなんて、私には信じられません」

「殺されたという相手は?」

「同じ施設にいた子供たちの一人です」

 彼女はそう言うと、アルバムから別の写真を取りだした。そこには二人よりいくらか年上の、特にどういう特徴もない平凡な少年が写っている。その少年の名前も、彼女は教えてくれた。

「施設にいる子供としてはごく普通の、何の問題もない男の子でした。社交的で、教えにも忠実で――どうして殺されたのか、私にはまるでわかりません」

「教団が解散したのは、それから間もなくのことですね?」

「そうです、教祖様が突然いなくなられて……残された私たちでは、教団の運営すらままなりませんでした。何しろ、ほとんどのことをお一人でなされていましたから」

「事件とそのことに、何か関係があると思いますか?」

「それはどうでしょう」彼女は慎重に言葉を選んで言った。「直接的なつながりがあったようには思えません。ですが、私はそれをある種の天罰のように感じています。清浄無垢であるべきはずのあの場所で、そのように恐ろしいことが起こったのですから」

 室寺は質問を切りあげ、子供たちのほうに顔を向けた。聞くべきことは概ね聞き終わったので、そっちから何か知っておきたいことはないか、というのである。

 少しだけ時間があってから、ハルが訊いた。

「その施設というのは、今はどうなっているんですか?」

 室寺は質問を取り次ぐように、彼女のほうを見る。

「――おそらく、ほとんど当時のまま残されているはずです。つまり、事件のあった直後のまま。土地や建物は教祖様個人のものでしたし、山奥なので誰も興味を持ったりはしないでしょう。今は光の教えと同じく、一種の廃墟になっているはずです」

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