その家は、川沿いの古い住宅地にあった。

 かつて、牧葉清織と澄花が暮らしていたという場所である。

 あたりはガラクタをつめこんだような雑然とした雰囲気で、道というよりは何かの隙間に似た狭い道路が走っている。家々はひどく密集していて、何となく公園の空き地に生えた雑草を思わせる景観だった。

 二人の家は、誰かが置き忘れていったような慎ましさでその中にあった。木造平屋の小さな家で、降りるべき駅を二つか三つ間違えたような古めかしさをしている。とはいえよく手入れされているらしく、構えや造りはしっかりしていた。

 室寺と、サクヤを含む五人の子供たちは、その家の前までやって来ていた。

 そこまで案内してきたのは、もちろん室寺である。向こう側に行って牧葉清織と会う前に、子供たちはできるだけのことを知っておいたほうがいいだろう、という判断だった。

「どっちにしろ、今の俺では役立たずだからな」

 と、室寺はやや自嘲気味に言う。あの日から、〈英雄礼讃〉を含めて魔法の力が戻ってくる気配はなかった。だからといって、この男がへこたれるというほどのことはなかったが。

 二人の家は年季の入った板塀に囲まれていた。六人はその塀のあいだを通って玄関へ向う。塀と家の狭い隙間の向こうには中庭らしきものがあって、湿った土がそこまで続いていた。玄関は古い引き戸になっていて、時代物の電球がその上から様子をうかがっている。

「でもこんなふうに、勝手に人の家に入るなんて――」

 あまり熱心にではないが、ハルは一応抗議した。人倫に悖るというほどではないが、不法侵入には違いない。

「俺たちにはやつのことを知る必要がある」室寺はあっさりとそれを却下した。「贅沢は言ってられん」

「……扉の鍵はどうするんです?」

 とナツは現実的な質問をした。

「念のために、佐乃世さんから〝開錠魔法〟の魔術具を借りてきている」

 室寺は鍵といっていいのか、知恵の輪といっていいのかよくわからないものを取りだした。

「俺が物理的にやってもいいんだが、まあ魔法のほうが早いな。ただし今の俺にはこいつは使えんから、誰かお前たちでやってくれ」

「あ、わたしやりたいです」

 いの一番に、アキが挙手した。

「……アキか」

 室寺はいまいちぱっとしない控え投手でも見るような目をした。

「何ですか、その言いかた。名誉毀損ですよ」

 アキは憤慨する。

 その時、がらがらと音がして扉が開いていた。サクヤは引き戸に手をかけたまま、みんなのほうを振りむいている。

「鍵ならかかってないみたいよ」

「ずいぶん不用心だな」室寺はちょっと肩をすくめて、魔術具をしまった。「あるいは、この世界に残してきたものは全部捨てた、というところか――」

 六人は玄関にあがって、廊下を進んだ。ひっそりとして屋内には、人の息づかいや体温といったものが、まだいくらか残っているようでもある。隅に沈んだ暗闇は誰かが身動きするたびに、海底の砂が撹拌されるみたいにして宙を漂った。

 外観通りのこぢんまりとした家で、中には片手で数えられるくらいの部屋数しかない。必要最低限のものだけを残して、あとはどこかに捨ててしまった、という感じでもある。小さな縁側の向こうには、まるで光を溜めておく容器みたいにして中庭があった。

 神坂の話によれば、牧葉清織と澄花は二人でこの家に暮らしていた、ということだった。同居人や親類といったものはいない。数年前までは牧葉総志という老人がいっしょだったそうだが、その人物もすでに鬼籍に入っていた。

「――とりあえず、全体を隈なく調べるしかないだろうな」

 と、室寺は言った。それから、各自が分担して部屋を調べることに決まる。

 ハルは担当に従って、台所のほうに向かった。居間といっしょになったその部屋には、妙に歴史を感じさせる卓袱台と、座布団が置かれている。ただしほかには何もなく、テレビやラジオといったものの姿さえなかった。何だか、砂時計の落ちる速さがずいぶんゆっくりになりそうな空間である。

 台所のほうを調べてみると、きれいに掃除がされていて、整理された調理器具が無駄なく収められていた。ちょっと見習いたいくらいの整頓ぶりである。冷蔵庫を開けてみると、中は空になってコンセントも抜かれていた。ゴミの類はすべて捨てられている。何もかも、貴人を埋葬するみたいにきちんと処理されていた。一応、まだ水道やガスは使えるらしい。

 一通りのことを調べてしまうと、ハルは居間に戻った。わかったことといえば、牧葉清織と澄花が、ごくささやかできちんとした日常を送っていたらしい、ということくらいである。

 ちょうどその時、廊下のほうからアキが顔をのぞかせていた。何か発見したらしく、手に四角いものを抱えている。

「ハル君、こんなの見つけちゃった」

 と嬉しそうに言って、アキは持ってきたそれを卓袱台の上に置く。

 それは、絵本だった。かなり読み古されているようで、ひどくくたびれた感じがしている。とはいえ丁寧に扱われてきたらしく、表紙やページはしっかりしていた。ごく最近にも読まれたことがあるのか、埃などの跡はない。

「……これは?」

「澄花さんの部屋で見つけたんだ。何だかずいぶん大事そうに置いてあったから」

 その絵本をちょっとめくってみながら、ハルは言った。

「……でも、これがどうしたの?」

 言われて、アキは「え?」ときょとんとした顔をする。

 絵本そのものに、特に変わったところは見られなかった。秘密の暗号が書かれているわけでも、余白に難しい証明の問題が残されているわけでもない。なのにどうして、わざわざ持ってきたりしたのだろう。

「何となく、気になったから」

 アキにはけれど、あまり反省した様子は見られなかった。この少女のこういうところは、昔から変わらないようである。

 苦笑して、ハルは仕方なくアキといっしょにその絵本を読んでみることにした。どちらにせよやることはなかったし、大切そうな本だから確かに何かあるかもしれない。ついでに、アキの名誉のために配慮してやる必要もあった。

 二人は座布団に座って、卓袱台の上でその絵本を開いてみた。表紙には主人公らしい子供と、その子供が住んでいるらしい小さな惑星の絵が描かれている。どういうわけか、作者の名前は書かれていない。薄く壊れやすい時間の層をそっと剥がしていくみたいに、二人はページをめくっていった。

 本の内容は、名前のない子供が自分の名前を探して旅に出る、というものだった。長い道のりのはてに、その子供は神様のところにたどり着く。その子供は最後に、神様に向かって一つの願いごとをする。それは――

 けれどそこで、本は途切れていた。最後のページが破りとられてしまっている。続きはどこにもなく、神様の前に立つ子供の絵で時間は完全に停止していた。

「それで、この子はどうなっちゃうの? 神様へのお願いって?」

 と、アキが不満そうに訊く。けれどハルにしたところで、そんなことなどわかるはずもない。

 ページは跡形もなく失われていて、結末を暗示する部分はどこにも見つけられなかった。特殊な事情で作られた本らしく、奥付けもなく、一般的な書籍の作りとは少し違うようである。その辺の書店を探せば見つかるというものでもなさそうだった。

「――アキの〈生命時間〉なら、何とかなるんじゃないかな?」

 少しして、ハルはそう言ってみた。

 アキはしぼんだ風船みたいにぺたっと卓袱台に頬をつけていたが、ハルに言われて目をぱちくりさせる。それから、がばっと勢いよく起きあがった。

「そうだよ、ページがなくなっても、絵本自体なら内容を覚えてるよね」

 嬉々として、アキは再び絵本に向きなおった。

 アキは表紙に手を置き、魔法の揺らぎを作る。それを形にしていくと、世界の仕組みは少しだけ変更されていた。置いていた手を離すと、アキは絵本に向かって話しかける。

「絵本さん、聞こえてるよね? 実は、あなたのお話の最後が知りたいんだけど――」

 アキがそう言うと、絵本のページは風に吹かれるみたいにしてぱらぱらとめくれていった。何か話をしているらしく、アキは何度もうなずいている。その話がほかの人間に聞こえることはない。言葉は、それを聞こうとする相手にしか伝わらないものだ。

 蛇足ではあるが、博物館にあったオルゴールにも同じことを試してあった。ただしその場合は、オルゴール自体が古すぎて記憶が定かでないのと、結局は何も知らないということで、特に成果はあがっていない。

「うん、うん……なるほど」

 やがて話は終わったらしく、絵本はまた元のようにひとりでに閉じている。

「――それで、どうだった?」

 黙ったままなかなか話そうとしないアキに向かって、ハルは訊いてみた。

 アキはそれでもなお、しばらく口を閉ざしている。手渡されたものの扱いに、自分でもちょっと困っている、というふうに。

「とりあえず、この本も自分の最後は知らないんだって」

 と、アキはまずそのことを言った。それはまるで、本が健忘症にでもかかったみたいに奇妙な話ではあったけれど。

「どうして、そんなことに?」

「よくわからないけど、本の最後のページはどこかに捨てられちゃったみたい。二人がまだ、子供だった頃」

 ハルはちょっと考えてから、訊いてみた。

「ページを破いたのは?」

「牧葉清織みたい」と言って、アキは続けた。「澄花さんが牧葉清織に頼んで、二人はつい最近までこの絵本を読んでたんだって。その時は、牧葉清織がいつも話の最後を自分でしゃべってたみたい。それだと、その子供は最初の星に帰ることになるんだって。もう名前のない子供なんかじゃないんだと気づいて。それが本当の話かどうかはわからないけど……」

 アキの話を聞いて、ハルは少し考えていた。どうして、牧葉清織は最後のページを破いたりしたのだろう。そしてそんな絵本を、どうして牧葉澄花は何度も聞きたがったりしたのだろう。

 二人にとって、この絵本は何だったのか――

 その表紙に描かれた一人ぼっちの子供は、いったい誰なのだろう――

 ハルがそんなことを考えながらじっと絵本の表紙を見つめていると、不意に向こうから室寺の声が聞こえていた。

「――おい、日記を見つけたぞ」

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