帰宅してから、ハルはフユの家に電話をかけてみた。滅多なことでそんなことはしないが、今は聞きたいことがあったのである。

 三回と半分くらいのコールで、相手は電話に出た。つながるというよりは何かが途切れる気配があって、受話器の向こうから相手の声が聞こえる。

〝……もしもし?〟

 森の奥から聞こえてくるような、ちょっと不思議な静けさのある声だった。フユのものではない。たぶん母親の、志条夕葵のものだろう。

「あの、ぼくは宮藤晴といいます。志条さんは在宅でしょうか?」

 と、ハルは丁寧に尋ねた。

〝在宅、ねえ〟何故か少しだけ笑うように、志条夕葵は言う。〝ええ、いるわよ。ちょっと待ってもらえるかしら?〟

 受話器から保留音が流れ、ハルは少しだけ待った。舞い散る桜と揺れる想いを歌った、ポップソングのメロディーである。

 しばらくすると、音楽は小さな雑音で途切れた。マナーの悪い客に怒って、演奏を中止してしまうみたいに。

〝もしもし?〟

 今度は間違いなく、フユの声だった。

「急に電話してごめん」ハルはまず、礼儀正しく断った。「――実は、フユに聞きたいことがあるんだ。今、大丈夫かな?」

〝別に問題はないわ〟

 いつものように、フユの言葉はそっけない。

 ハルは一度、受話器を握りなおしてから、小さく息を吸った。暗闇の中で、一歩を踏みだすときみたいに。

「……結城季早の連絡先を知りたいんだ」

 電話口の向こうで、フユは黙っている。テントウムシが指先から飛びたつのを待つような、そんな沈黙だった。

〝どうして、そんなことを聞きたいのかしら?〟

「あの人に教えてもらいたいことがあるんだ。とても大切なことを」

〝……今度は笑うわけにはいかないでしょうね〟

 フユはどこか懐かしさを含んだ声で言う。四年前のあの冬の終わりと同じことを、もう一度頼まれるとは思ってもいなかったけれど。

〝ええ、いいわよ、教えてあげる。あの時と違って、もう気をつける必要はないと思うけど――〟

 少しだけ忠告するように、少しだけ心配するように、フユは言う。そして彼女は、その番号を教えてくれた。

 ハルはメモを取って一度確認し、それから礼を言った。〝たいしたことじゃないわ〟とフユは言って、電話は切られる。どちらかというとそっと、眠る前の挨拶でもするみたいに。

 受話器を戻して、ハルはもう一度番号を確認した。時間帯としては少々問題があるかもしれなかったが、結局は電話をしてみることにした。あまり時間に余裕があるわけでもない。

 永遠と一瞬のあいだくらいの時間のあと、それは確かにつながっていた。結城季早のいる場所へと。

「すみません、ぼくです。宮藤晴です……ええ、お久しぶりです。番号はフユに教えてもらいました……実は、季早さんに聞きたいことがあったんです……できれば直接、これからすぐに」

 どこで会うのがいいだろうか、と訊かれてハルはすぐに答えた。

「――ぼくと季早さんが、最後に会った場所で」


 放課後の小学校に人気はなく、空っぽの校舎には墓地に似た静けさが漂っていた。それはたぶん、時間によって存在の密度に差があるからだろう。死は、そんなふうに再現することも可能なようだった。

 学校までやって来ると、ハルはまず職員室に向かった。かつての担任だった葉山美守はまだ現役で、ちょうどデスクのところに座っている。

 ハルが挨拶をすると、彼女はひとしきり懐かしんで歓迎してくれた。ある用事について頼むと、彼女はたいして事情も聞かずに許可してくれる。昔の生徒のことを信頼しているのか、ただいい加減なだけなのかは、判断に困るところではあったけれど。

 校舎の中を目的地まで向かっている途中、ハルは何だか不思議な気がしていた。ずいぶん長いことその場所にいたはずなのに、まるで知らないところを歩いているみたいに感じられる。そこはもう、ほかの誰かの場所だった。人にあげてしまった玩具が、すっかり別のものに変わってしまうみたいに。

 やがてその場所に到着すると、ハルは中央付近まで歩いていった。あの時と違って、イスは並んでいない。窓からは何かを囁くような春の陽射しが、ぼんやりと館内を照らしていた。

 そうしてしばらくすると、彼は同じ入口から姿を現している。あの時とは、ちょうど反対の格好だった。

「――ようこそ、季早さん」

 ハルはちょっとからかうように、そう言ってみる。

 季早は苦笑して、あたりを見渡しながらハルのほうへと歩いてきた。あの時の時間が、もしかしたらどこかに落ちていないか、とでもいうように。

「まさか、ここでまた君と会うことになるとはね」

 と、季早は複雑な表情をしてみせた。実際、奇妙な話ではある。四年前のあの時、彼は少年の魂そのものを奪いとろうとしたというのに――

 季早の様子はあの冬の季節とは、少しだけ違っていた。あの、何もかもを照らし続ける白夜のようなこわばりは薄れ、夕べを告げる太陽のような輪郭のくすみがあった。永遠の中にあったとしても、時間が経過しないわけではない。

「あの時の女の子は、いないみたいだね」

 と季早はそのことに気づいて言った。もちろん、今日のことは彼女には伝えていない。さすがの少女も、それを知るのは無理だったろう。

「今日は、彼女の助けはいりませんから」

「……そうだね」

 季早は簡単にうなずいた。

 体育館は、巨大な棺桶にも似た静けさだった。空気は定められたとおりに整列し、光は両手ですくいとれそうな速度で巡行している。世界にはきちんと、死を過ごすのにふさわしい場所というものが用意されていた。

「それで――」と季早は落ちついた声で言った。「今日はいったい、何のようなんだい?」

 ハルはちょっと呼吸を整えてから、小さく決心するように口を開いた。

「牧葉清織のことについて、季早さんに聞きたいことがあったんです」

 その名前を聞いて、季早は少しだけ目を細めた。まさか、この少年から彼の名前を聞かされることになるとは思ってもいない。

「どうして僕が、彼のことを知っているなんて思ったんだい?」

 季早は疑問を口にするというよりは、興味深そうに訊いた。

「理由はいくつかあります。でも、まずは車です」

 ハルはゆっくりと、積み木でも組みたてるように言った。

「――車?」

「そうです」ハルはうなずいて、続ける。「季早さんは知らないと思いますが、牧葉清織が向こう側に消えたあの日、屋敷の周辺は複数の映像に撮られていました。その一つに、屋敷に向かったとおぼしき車が一台、映っていたんです」

「…………」

「映像から車を特定するのは難しいことでした。でもぼくには、その車に見覚えがあったんです。

「たいした記憶力だな」季早は少し笑う。「犯罪者がまず車を乗り換えるのも、当然のことらしい。確かに僕の車はあの時と変わっていない。幸いというべきか、あの車には事故も故障もなかったものでね」

 ハルは話が落ちつくのを待つように、少し間をとってから続けた。

「時間の前後関係から考えて、季早さんと牧葉清織のあいだに何らかのつながりがあったことは間違いなさそうでした。でも、二人はどんな関係だったというのか――?」

 続きの言葉を待つように、季早はただ黙っている。

「そのヒントになる事柄は、二つありました。そしてぼくの知っていたことが、二つ――ヒントの一つはまず、魔術具を作るために魔法使いの魂が必要だった、ということ。それからもう一つは、牧葉清織の〈神聖筆記〉が自由に文字を書き換えるものだった、ということ」

 ハルは少し言葉を切ってから、なおも続けた。

「ぼくの知っていたことは、牧葉澄花の〈物語記憶〉が世界を文字化するものだった、ということ。そしてこれは誰よりぼくが一番よく知っていることですが、季早さん、あなたの魔法が人の魂を取りだせるものだということ――」

 そこまでの話を聞いても、季早の表情に変化はない。

 いや――

 最初から、それはわかっていたのだ。この少年が、すべてを解いてここにいるのだということは。四年前の、かつてのあの時もそうだったように。

「……つまり君は、僕が牧葉清織に何らかの協力をした、と言いたいのかい?」

 季早はごく穏やかに、そう訊いた。

 ええ、とハルはうなずいて、最後の説明を加える。

「誰かの魂を魔術具に移せるというのなら、同じことを魔法使い同士で行うことも可能なはずです。というようなことが。牧葉清織の魔法は、そうすることで大きく変化したはずです。そしてそんなことができるのは、季早さんの〈永遠密室〉くらいしか考えられない」

「…………」

 そう言われて、季早はしばらくのあいだ何も答えずに黙っていた。変化のない時間だけが音もなく過ぎていくと、やがて季早は言った。

「そう――その通りだよ。相変わらず見事なものだ、宮藤くん」

 季早は軽く首を振って、素直に感心したような表情を浮かべる。

「確かに僕は牧葉清織に頼まれ、彼女の魂を彼の体に移植した。それは可能なことだったし、二人の魂が拒絶反応を示すようなこともなかった。何しろ彼らの魂は、ずっと同じ場所で生き続けてきたんだから――そして、彼の魔法〈終焉世界エンド・クロニクル〉は誕生した」

「〈終焉世界〉……?」

 訊かれて、季早は小さくうなずく。

「二人の魔法――世界を記述し、その文字を操作すること――で可能になった魔法だ。〈終焉世界〉には、〝この世界を書き換えることができる〟。様々な現象や法則、それらをね」

 そこまでを話してから、季早はふと笑うように言った。

「僕はね、宮藤くん。二人とは古くからつきあいがあるんだ。娘が亡くなるのより、だいぶ前のことだよ。実のところ、結社のことについて教えてくれたのは、彼らなんだ」

「……どうして、二人と?」ハルは訊いた。

「こう見えて、僕は小児科の医師でね。二人とは診察室で初めて会ったんだよ」

「病気だったんですか?」

「――牧葉澄花のほうが、ね」

 季早は目の前で生命が少しずつ消えていくのを眺めるような、そんな少しだけ悲しい目をした。

「事情はわからないが、。何らかのPTSDによるものらしいが、詳しいことはわからない。萎縮が進めば、彼女はその記憶だけでなく、精神や人格さえ失うはずだった。外見はそのままで、果物の中身だけが虫に喰われてしまうみたいに」

「でも、だからってどうして牧葉清織は彼女の魂を……?」

 何をどう聞いていいのかわからないように、ハルは首を振った。

 と、季早は言った。

「少なくとも、彼が言うにはね。それがどういうことなのかは、僕にもわからない。おそらくそれを知るには、直接本人に聞いてみるしかないだろう」

「……それがどんなことであるにせよ、牧葉澄花がそれを望んだとは思えません」

 ハルはたった一度だけ会ったことのある、彼女のことを思い出しながら言った。牧葉澄花が何を望むにせよ、それはこの世界の死などではなかっただろう。

「牧葉清織にしても、それはわかっていたはずだ」

 言って、季早は深く深くため息をついた。この世界が不完全になってから、消えることのないその亀裂を思いながら。それはこれから先も、決して閉じられることはないだろう。

「だが彼には、ほかの何かを望むことはできなかった。永遠に、絶対に。牧葉清織はただ、この世界が許せないだけなんだ。彼女を傷つけた、この不完全世界が――」

 不治の病でも宣告するように、結城季早は静かにそう言った。

 体育館は相変わらずの無関心な静けさの中で、誰かの死を待ち続けている。死だけがいつも、変わらない平穏さの中にあった。それは誰かを拒絶することも、否定することもない。

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