玄関のチャイムが鳴ったのは、ハルが朝食を終えてテレビのニュースを見ているときのことだった。

 休日の朝は時間がゆっくり流れていて、光の具合もどこかのんびりとしている。父親の恭介は何かの仕事で徹夜だったようで、まだ眠っていた。テレビのニュースに特に変わったところはなく、当然ながら完全世界のことについてなど誰も気づいてはいない。

 チャイムの音が聞こえると、ハルはテレビを消して玄関へ向かった。扉を開けると、そこにはアキの姿がある。

「こんにちは、ハル君」

 とアキはいつものような声で言った。

 そして、その隣には――

 見覚えのない女性が立っている。

 さっぱりした短めの髪に、大抵の人間は気を許してしまいそうな明るい笑顔を浮かべていた。古い宮殿に描かれた壁画みたいに、長く人の印象に残るタイプの女性である。そうして彼女は、どこかアキに似ていた。

「こんにちは、あなたが宮藤晴くんね?」

 その女性はひどく気さくな調子で言った。そんなところも、どこかアキに似ている。

「そうですけど、えと――すみませんが、どなたですか?」

「おっと、これは失礼したわね」

 彼女はひどく堂に入った戯けかたをした。

「私はアキの母親で、水奈瀬幸美といいます。よろしくね、宮藤くん」

 そう言って差しだされた手を、ハルは反射的に握ってしまう。何かを放り投げられたとき、ついそれを受けとめてしまうみたいに。

 彼女がアキの母親だということは、はじめから何となくわかっていることだった。けれど問題は、どうして彼女がここにいるのかということである。今日は廃墟になっているという例の施設を訪ねる予定だった。そのことに無関係のアキの母親を連れてくる必要はどこにもない。

「何で、アキのお母さんがここに?」

 当然ながら、ハルはその質問をした。

「だって、車の運転をする人がいるでしょ?」

 アキはにこにこした顔のまま言う。

「確か、朝美さんが送ってくれるはずだったけど?」

「――何か、うちの母親が面白そうだからって」

 ちょっと苦しげなアキの言葉を聞いて、ハルはもう大体のことが想像できてしまっていた。

「サクヤは、どこに……?」

「ええと、車のほうかな」アキの笑顔はだいぶ怪しかった。

「すぐわかることだけど、本当に?」

 アキは困ったように、母親だという相手のほうを見る。けれど相手は軽く、肩をすくめるだけだった。

「――何でわかったの、ハル君?」

 降参するように、アキは言った。彼女が母親だという相手はやはり、サクヤの変身した姿らしい。

「そりゃわかるよ、どう考えても変だし。アキこそ、何でこんなことを?」

「えっと、驚くかと思って」

 特に反省したふうもなく、アキは言った。ハルは少しだけため息をついて、確認する。

「ということは、車の運転もサクヤがするってことなの?」

「うん、まあそういうこと。わたしが魔法を使ってもいいけどね」

 アキは気にした様子もなくうなずいた。いくら大人に変身しているからといって、サクヤはまだ未成年のはずではあったけれど。

「――あら、私運転は得意なのよ」

 そう言って微笑むサクヤが、きっと本物の水奈瀬幸美そっくりなのだろうということは、ハルにも何となく信じることができた。


 アフラ=笠島に教えられたその施設は、市内でも郊外にあたるかなりの山奥にあった。

 ほとんど民家もない山道を走っていくと、両側には木々が林立するだけの森が広がっている。木立の奥には、太陽を拒否するような湿った暗闇が身を潜めていた。こんな場所を二人の小さな子供が逃げていったというのは、現実的には想像しにくいことでもある。

 道路はしばらくすると本筋から離れ、森の隙間を無理に押しひろげたような細い道へと入っていった。火星にある川床のようなどこか秘密めいた間道を進んでいくと、しばらくして不意に視界が開けている。

 そこはかなりの面積の敷地に、様々な施設が点在している場所だった。いくつもの建物や、田畑らしいものも認められる。とはいえそれらは、今はもうすっかり荒れ放題になって緑が繁茂していた。周囲はフェンスで囲まれ、その上には有刺鉄線が巡らされている。

 入口にあるフェンスは閉じられ、鍵がかけられていた。

「どうするんだ?」

 と、ナツが訊いた。侵入するのはそれほど難しくはないだろうが、ちょっと面倒なのには違いない。

「あ、ちょっと待ってて。わたしがお願いしてみるから」

 助手席に座っていたアキはそう言うと、さっさと車から降りてしまっている。入口のところまで行って、アキは何やらはじめているようだった。

「お願いって、何のことだ?」

「少なくとも私には聞かないで」フユがため息をつくように言う。

 やがてアキは同じ足どりで戻ってくると、ドアを開けて助手席に座った。

「お願いしたら、通ってもいいって」

 その言葉と同時に、フェンスの入口が勝手に開いている。どうやら、〈生命時間〉で魔法をかけたらしい。車はそのあいだを何の問題もなく通り抜けた。気のいい老門番か何かに見送られるみたいにして。

「……こりゃ、人のいないところでも迂闊なことはしゃべれないな」

 ナツはぞっとしない顔で嘆息した。

 施設の中を、車は走っていく。当然だがあたりに人の気配はなく、建物にはあちこちに時間の傷跡があった。深海に沈んだ鯨の骨みたいに、この場所もこのままゆっくりと朽ちはてていくのだろう。

 そのまましばらく走っていくと、明らかにほかとは違う建物が見えてきた。施設の中心部であり、子供たちが暮らしていたという住居である。

 一言でいうと、それは卵殻に似ていた。半球状のドーム型建造物で、異常に滑らかな表面をしている。ほかの建物同様に真っ白で、地面と平行な丸窓が二列だけ並んでいた。何の装飾性も色彩もないその建物は、何かを暗示するための夢から抜けだしてきたようでもある。

 入口部分まで行くと、五人は車から外へ降りた。半球状の建物からは、エントランスだけが小さく突きだしている。土の露出した部分では、いたるところに植物がのび蔓延っていた。

「……何か、不気味だね」

 アキが白い卵殻を見あげながら、直截的な表現をした。

「人がいなくなって、もうずいぶん経ってるから」

 とハルは注意深くあたりの様子をうかがいながら言う。

「――幽霊とか、出ないよね?」

 アキが不安な顔をすると、

「魔法使いならいいのか?」

 と、ナツが混ぜかえした。

 エントランスは両開きのガラス戸になっていたが、ハルが押してみると簡単に開いた。後ろの四人に確認するように振りむくと、全員がうなずいている。この先に何が待っているのか、確かなことはわからなかったけれど。

 五人は入口ロビーを抜けると、建物の中へと入った。外壁もそうだったが、屋内にも破損の跡はなく、少なくとも見ためだけは概ね当時のままで残されているようだった。それでも空気は澱んで埃っぽく、ここがもう死んだ場所なのだと教えている。

 廊下は入ってすぐのところで、三方に別れていた。中央をまっすぐ進む道と、外周にそって湾曲してのびる左右の道。無数の丸窓から射しこむ光は、海底に沈んだ遺跡でも照らすようにして、外周部を静かに浮かびあがらせていた。

「手分けして探したほうがよさそうね」

 フユは廊下の先に目を凝らしながら言った。廊下はどれも、かなりの長さがある。

「けどそうすると、お互いの居場所がわからなくなるんじゃないかな?」

 ちょっと考えてから、ハルは言った。

「――なら、こいつを持っていくといい」

 そう言うと、ナツはいつものウエストバッグからメモ帳とマジックを取りだした。そして〈幽霊模型〉を使って、何やら描きこんでいく。

「何、それ?」アキが訊いた。

「〝ハンドベル〟」

 言って、ナツは破りとったメモ用紙を揺らしてみせた。からん、からん、と角の鈍くなった鈴の音が、かなりの音量で響きわたる。これなら、建物のどこにいても聞こえそうだった。

「何かあれば、こいつを鳴らせばいい。それから、これも――」

 ナツはもう一度、メモ用紙に何かを描きこんだ。それをまた破りとって、前方に向けて何かのスイッチでも押すような仕草をする。すると、メモ用紙から黄色い光がのびてあたりを照らした。どうやら、〝懐中電灯〟を描いたらしい。

「あんまり長くはもたないだろうから、必要な時だけ使うようにしてくれ」

 そうしてナツは、残り四人分のベルと電灯を用意した。

 道が三方に別れているので、ナツとフユが左右に、残る三人が中央の道に進む。当然ながら建物に明かりは一つもなく、あたりは雪にでも埋まったように暗く、静かだった。ただ採光に何か工夫でもあるのか、ナツの電灯をつけるほど暗黒ではない。

 ハルたち三人は廊下をまっすぐ進むうち、中央部らしい広場へとやって来ていた。吹き抜けの円形になった空間で、大きな天窓から光が射しこんでいる。斜めになったその光線は、まるで傾いた柱みたいにも見えた。

 広場の真ん中には、例の写真でも見たことのあるオブジェが鎮座している。

「これ、二人が座ってたところだよね?」

 とアキがオブジェに近づきながら言った。

「――みたいね」

 廊下のほうを振り返りながら、サクヤが言う。写真の構図からして、シャッターが切られたのはそのあたりのようだった。

 オブジェは写真で見たものと、あまり変わりがないように感じられた。汚れや欠損もなく、位置的なずれもない。太陽があくまで、その中心にあり続けるみたいに。

 写真ではわからなかったが、広場からはさらに二つの道がのびていて、ほかにも二階に続く階段が円形の壁にそって設置されていた。

「ぼくが上を調べてみるよ。二人は右と左の道に、それで構わないかな?」

 ハルが言うと、二人は簡単にうなずいた。これで、全員がばらばらに別れることになる。

 軽く手を振って右の道に進んでいくアキに応えながら、ハルはその場に残っていた。二人が廊下の先に姿を消すと、あらためてオブジェのほうに向きなおる。ハルはその、写真で二人が座っていたはずの場所に近づいてみた。

 もちろん、そこには白い台座があるだけで、何の痕跡も残っていない。二人の男の子と女の子がそこでどんなことを思っていたのか、ということは。この世界では、悲しみや苦しみのほうがずっと残りやすくできている。たぶん、そのほうが生存上有利だったからだろう。

「…………」

 ハルはそっと、その場所に触れてみた。

 けれどそこには、温もりのない白い石の冷たさがあるばかりで、何かが伝わってくるようなことはなかった。

 清織と、澄花――

 あの二人が手にしていたはずのものは、どこに消えてしまったのだろう。星の光がある日、突然届かなくなるみたいに、それはずっと以前に失われてしまったのだろうか。

 ハルはそっと、天井を見あげる。

 何もかもが白く覆われたこの建物は、まるで生まれることのない卵みたいだった。そこで見る夢は、きっときれいで、傷一つなく、幸福なものだ。そこではすべてが、完全なままでいられる。

 でも――

 もしそれが、壊れてしまったら。

 ハルは何かの痛みを感じたように、ぎゅっと手を握った。

 結局のところ、人は完全世界には耐えられないのかもしれない。そこはあまりに、きれいすぎる場所だから。



 ライトの先に人影を見つけて、アキは声をあげそうなくらいびっくりした。まさか、本当に幽霊が出るなんて。やっぱりナツに頼んで、幽霊用の掃除機でも作ってもらうべきだったろうか――

 けれどよく見ると、それはサクヤだった。どうやら調べていた部屋がつながっていたらしい。

 最初の暗い部屋をおおかた調べてしまうと、アキは扉を開けて次の部屋へと移っていた。その場所を見渡すため、アキはあちこちをライトで照らしたのである。それで、暗闇にいくつも穴を開けている最中に、サクヤをみつけたのだった。

(――きっと、光が弱すぎたせいだ)

 八つ当たり気味に思いつつ、アキは電灯のスイッチを消した。こちらの部屋は窓が多く、暗闇も灰色程度まで薄くなっている。特に明かりがなくとも支障はなさそうだった。

 アキがあらためて見まわしてみると、部屋は大きく、教室がいくつか入りそうなほどの広さがあった。レクリエーションルーム、という感じで、障害物はなく、好きな遊びに利用できそうだった。隅にある収納棚には、もう使われることのない遊具が詰めこまれ、文句も言わずに大人しくしている。

「サクヤ、どうかしたの?」

 言いながら、アキはそちらのほうに近づいてみた。

 サクヤはぬいぐるみのようなものを持って、立ったままじっとしているところだった。その足元には、片づけられずにいたらしいぬいぐるみが転がっている。ぬいぐるみはどれも真っ白だった。白いヒツジ、白いウサギ、白いクマ――

 そのぬいぐるみ――白いネコを、サクヤは体からちょっと離して眺めていた。できあがったばかりの試作品を検査するみたいに。

「――ここにいるやつらってさ」

 と、サクヤは独り言でもつぶやくように言った。

「何を考えてたのかな?」

 訊かれて、アキは床に放置されたままのぬいぐるみに目を落とす。白一色のぬいぐるみたちは、どれも仲がよさそうだった。世界が終わったような場所でも、少なくともそこには仲間たちがいる。

「さあ、わたしにはわかんないよ」

 アキは屈みこんで、ぬいぐるみの一つに指を触れてみた。たぶん、手作りなのだろう。よく見ると、所々にちぐはぐしたところがあった。

 目が慣れてきたせいか、薄闇は水を足したみたいに透明に近づきつつあった。サクヤは何か気にいらないことでもあるかのように、まだぬいぐるみを眺めている。アキは地面のぬいぐるみをつつきながら、訊いてみた。まるで、ぬいぐるみに向かって話しかけるみたいに。

「サクヤはさ……サクヤは、どんなふうに生まれてきたの?」

 ここ数日いっしょに暮らしてきて、アキは彼女とだいぶ親しくなっていた。少なくとも外見や性格に関しては、この少女はその辺の女の子と大差はないようである。

 けれど彼女が魔法で造られた存在なのだということも、事実ではあった。鴻城希槻がいなくなって、遠からず死んでしまうのだということも。そのあたりのことについて、アキはあまり詳しくは質問していない。少なくともアキにとって、彼女は普通の女の子と変わりがなかった。普通の女の子みたいに、友達になることだって可能だ。

 でも、卵の中にある人工の夢みたいなこの場所で、アキは何故かその質問をした。

 サクヤはまだぬいぐるみを眺めていたが、

「……生まれた瞬間のことについては、よく覚えてない」

 と、雨粒がぽつぽつと降ってくるみたいに話しはじめた。

「あたしが最初に覚えてるのは、希槻さまの前に立っていたときのこと。この人があたしの仕える人、あたしを世界につなぎとめておく人なんだと、その時のあたしは誰に言われるでもなく理解できていた。どうしてそんなふうに思ったのかはわからないし、別に不思議だとも思わなかった――あんたたちだって、そうでしょ? 自分がどうやって言葉をしゃべるようになったかなんて、自分でも覚えていない」

 アキもサクヤも、特に相手のほうを見ようとはしなかった。話をしているのは、あくまで暗闇か、ぬいぐるみに対してなのだというふうに。

「ニニって子も、同じだったの?」

 そう、アキは訊いてみる。

「あいつとあたしは、同じ時に生まれたから」サクヤは何か不満そうな、何か満足そうな、おかしな声で言った。「でもあいつとあたしは、全然違ってた。あいつはロボットみたいに希槻さまのことが何より優先で、それが当然みたいだった。いつも温かくも、冷たくもない感じで。それは希槻さまとよく似てた。泣いたり、怒ったりすることがなくて、せいぜいちょっと悲しそうな顔をするだけ。だからあたしはずいぶんいらいらしたし……不思議な気持ちになったりもした」

「…………」

「あんたは、あのハルってやつのことが好きなの?」

 急に訊かれて、「ん――」とアキは考えてしまう。あまり真剣に悩んだことはなかった。

「さあ、どうなんだろう……」

 自分でもよくわからないまま言って、アキはサクヤのほうを見る。この少女は相変わらずぬいぐるみを眺めたままで、アキの言葉など聞いていないかのようだった。

「あたしはさ、好きっていうのがどういうことなのか、よくわからないんだ」

「――うん」

「好きって、何なの?」

 かなり深遠にして、難解な質問だった。

「……それは、わたしには答えられないよ」

 当然のように、アキは肩をすくめるしかない。

 サクヤはぬいぐるみを眺めるのをやめて、言った。

「あいつは、ニニは希槻さまがいなくなったとき、逆上して牧葉清織に襲いかかった――それは、あいつが希槻さまのことを好きだったからだ」

「うん――」

「それで、思うんだ。あたしはニニを殺した牧葉清織のことが許せない。例えどうなっても、あいつだけは殺してやる、って」

 サクヤは何かを確かめるように、アキのほうに顔を向けた。

「これって、あたしがあいつのことを好きってことなのかな?」

 アキは嘆息するように、息をついてから言った。

「そうかもしれない」


 ――何かを発見したベルの合図が聞こえたのは、そのすぐあとのことだった。

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