スタジアムでは、室寺の戦闘が続いていた。破壊した人形の総数は何百体かに迫ろうかというところだったが、あまりその数が減った様子は見られない。まるで地面についた影でも相手にしているようだった。地面を破壊することはできても、影には傷一つつけられない。

 攻撃対象を限定するため、室寺はスタンドにある通用口の一つに陣どっていた。そこからなら、前方の敵にだけ集中することができる。

(ちっ――)

 飛びかかってきた一体をカウンターで撃砕しつつ、室寺は内心で舌打ちをした。汗が滴り落ち、手足の動きが粘つきはじめている。疲労が攻撃の精度を鈍らせていた。

 だがそれ以上に、魔法の揺らぎが作りにくくなっている――

 もう一体を派手に吹き飛ばしたところで、室寺はわずかに息をついた。こう間断なく襲撃が続けられると、ゆっくり呼吸をする暇もない。

 けれど、その時のことだった。

 突然、後ろからの襲撃があって、室寺は右の肩口を強打されていた。とっさのことで、〈英雄礼讃〉による防御も間にあわない。

 すぐさま反撃してその人形は片づけたが、すでに背後からも敵影は忍びよりつつあった。室寺はコートによる防御魔法を展開すると、人形の群れを突破してスタンドのほうへと戻った。いくらか殴られはしたが、魔法のおかげでダメージというほどのものはない。室寺はそこからスタンド上段に移動して構えをとるが、さすがに息は荒かった。

 人形たちは獲物が力尽きるのを待つ肉食獣のように、そんな室寺をじっと取り囲んでいる。


「――確か、白鳥座の嘴のことだったわね」

 と、フユはようやく思い出したように言った。

 場所は、時計台の設置された中央広場のことである。四人は例の六つめの問題について考えているところだった。

「小説中では例の鳥捕りに会ったあと、二人はその横を通る。観測所、ということになっていたはずだけど」

「観測所、ねえ」ナツは連想を巡らしてみるが、あまりぴんと来ない。

 問題の書かれたその文字盤の上では、時計の針が厳しい顔つきで進んでいく。上官の命令に従う兵隊みたいな様子で。

「白鳥座って、どこあるの?」アキが訊いた。

「天の川のほとり。七夕の彦星と織姫のあいだにあって、二人をつなぐカササギの橋にも例えられるわね」

「――そうか、星座だ」ハルは不意に言った。

「ハル君、わかったの?」

 アキが訊くのも構わず、ハルは広場にある園内地図の置かれた場所へ向かう。その地図の各地点を指さしながら、ハルは言った。

「今までに出された問題は六つ。その問題があった場所を線で結ぶと、白鳥座に似た形になるんだ。ちょうど尾から首のあたりまでに四つと、両翼に二つ。それでアルビレオの位置は嘴になるから――」

「子供の広場?」

 アキがハルの指先にある場所の名前を読みあげた。公園内にあるレクリエーション用の施設で、ここは競技とは関係なく一般向けの遊具が置かれている。

「たぶん、そうだと思う」

 ハルはうなずいた。

「なるほど。基本的に全部の問題を解かないと、最後の正確な位置はわからないってわけだ」

 とナツは感心した。

「何にせよ、行ってみればわかることね。本当に佐乃世さんがいるかどうかは――」

 フユはあくまで慎重な態度を崩さずに言った。

 四人は車に乗りこみ、目的の場所へと向かった。そこに佐乃世来理がいるなら、もうゲームを続ける必要はない。室寺は戦闘から解放され、おそらくはこちら側の勝ちということになるのだろう。

 心なしか今までより短い時間で、車は目的地に到着する。舗装路の向こうには、緑の芝生とカラフルな遊具の置かれた空間が広がっていた。たぶんここでなら、いくら遊んでもロバになったりサーカスに売られたりする心配はないだろう。

「来理さんは?」

 と、アキはあたりを見渡して言う。

 子供の広場に、もちろん人影はない。本来あるべきはずの子供の姿も声もなく、いくつもの遊具だけが忘れられた古代の遺物めいた空虚さでたたずんでいた。緑の芝生は春の陽射しを浴びて、洗濯したばかりのような輝きを放っている。

 広場を歩くうち、四人は足をとめた。ちょうど鉄棒や雲梯の並ぶあたりである。そこには確かに、佐乃世来理の姿があった――



 県庁の十九階は、一般に対して展望台として開放されていた。清織はそこにある四角いソファの一つに座って、町を眺めている。脇に本を抱え、足元にはバッグが置かれていた。

 郊外の外れに近い場所だけあって、窓からの眺望はあまり現代的とはいえない。のっぺりとした住宅地と、特徴のない店舗が並び、山の裾野までそんな景色が続いている。道路を走るミニカー大の車は、餌を探す蟻の群れに似ていた。ちょっと大きめの巨人が一跨ぎすれば、何もかもぺしゃんこに潰れてしまいそうに見える。

 全面を窓ガラスに覆われた展望ラウンジには、人はほとんどいない。友達連れらしい老人たちや、休憩中らしいビジネスマン、ベビーカーを押す若い夫婦、そんなところだった。小さなオープンカフェの席も今はがらんとして、店員が所在なげに掃除をしているだけだった。

 フロアの片隅では、「子供の世界」と題された展覧会が開かれていた。学校関係者が主催したものらしく、題名の通りに子供の描いた絵が飾られている。清織はこの場所にやって来た当初、その展覧会の絵を眺めていた。

 それらは子供の絵だけあって、ひどくまとまりを欠いていた。ちょっと驚くほど写実的なものから、絵の具から直接色を塗りつけたような派手なものまで、千差万別である。テーマも、モチーフも、驚くほど統一感を持っていない。

 清織はそんな絵を眺めながら、けれど何も感じてはいなかった。それは無感情や無感動とは違う、ただの色のない空白だった。知らない外国語の文字を読むのと同じで、そこに意味があることはわかっても、読解することはできない。

 それらの絵に描かれた世界は、清織とは無関係のものだった。月の上では光や、温度や、重力がこの世界とは異なっているのと同じで。

 ――彼らの求める完全世界は、僕とはまるで違ったものだ。

 清織にわかるのは、ただそれだけだった。虫食いだらけで題名もろくに読めない本を前にしたみたいに。

 それから清織はソファに座って、町の様子を眺めていた。人を待っている。連絡した時間を考えれば、その人物はもうすぐやって来るはずだった。

 しばらくして、その人物は予定通りに姿を現した。フロアにあるエレベーターから降りて、あたりを見まわす。すぐに清織の居場所に気づいて、そちらのほうに向かった。やや、慌てたような足どりをしている。

 その人物はいつものようにセーターとスラックスという、好々爺然とした格好をしていた。それでもこの人物の姿には、控えめな気品のようなものがあった。使いこまれた職人の道具に、一種の歴史的厚みが存在するのと同じで。

「急に呼びだしなどされて、いったい何のご用ですか?」

 と、秋原老人はいささか落ちつかない様子で言った。普段と比較してみれば、法外なほど狼狽しているといっていい表情である。

「ちょっとあなたにお聞きしたいことがあったんです、秋原さん」

 清織は立ちあがると、他意のないことを示すように懇ろな笑顔を浮かべた。どちらかというとそれは、写実的な仮面のように見えたけれど。

「しかし、わたくしなぞにわかることなど、きっとありはしませんよ」

 と秋原は困惑したように言う。彼自身は、魔法使いではなかった。秋原尚典はただ縁あって鴻城に仕え、長年のつきあいから彼に私淑している忠実な従僕にすぎなかった。魔法のことについては知ってはいたが、心のどこかでは信じきっているわけではない。だが現実的には何度もその力を目にしていたし、何より鴻城自身が歳をとらなかった。

「いえ、あなたでないと困るんですよ、秋原さん」

 清織は笑顔を変えないまま言った。

「はて、わたくしなぞにいったい何をお聞きしたいというのですか?」

 秋原は自分の声がかすかに震えるのを感じた。軽業師の足元で揺れる、頼りないロープのように。

「たいしたことじゃありません」と、清織は本当に簡単そうに言った。「ただ、

「…………」

 秋原はにわかには口をきけなかった。その質問の答えには、並外れて重量のある重石を乗せてあった。例え梃子が与えられたところで動かせないくらいの。

「お言葉ですが清織さま。あなたのおっしゃることがよく理解できないのですが……?」

「ごく簡単なことです。鴻城希槻の秘密の居場所を知りたい、と言っているんです。いつも使っているのとは違う、特別な場所です。あなたはそれがどこにあるか、知っているんでしょう?」

「それは――」

 確かに、秋原はそれを知っていた。しかし、

「清織さま、それは造反というものです。何人たりとも、そのようなことを知ろうとしてはいけません。これがご冗談でないというのなら、わたくしは鴻城さまにご報告しなければなりません。いずれにせよ、わたくしのようなものからは、口が裂けても教えられないことです」

「あなたがそれを言わないだろうということは、もちろんわかっていました」清織の口調はまるで変わっていなかった。「そしてまさしくその〝鴻城希槻に仕える〟という願望によって〈悪魔試験〉がかけられているのだということも――」

 清織はそれから、小学生が算数の九九でも読みあげるようにゆっくりと、丁寧に言った。

「けれどあなたはこれから、

「いったい、それは――?」

 怪訝な顔をする秋原の前に、清織は足元にあったバッグを置いた。

 どさり、と何か重量のある物音がする。

 秋原はいつのまにか、冷や汗の流れるのを感じた。もう何年も水を飲んでいないかのように口の中が渇く。電話を受けたときからあった不吉な予感が、急速に形をとりつつあるような気がした。娘夫婦に連絡がつかないのも妙である。今すぐ孫の声でも聞ければ、こんな悪夢めいた不安は霧散してしまうはずだった。

 目の前に置かれたバッグに、おかしなところはない。ごく普通のスポーツバッグというところだった。たいしたものなど入りはしないだろう。けれどすべての災いが詰まっていてもなお、こうまで禍々しい気配を感じることはなさそうだった。

 秋原は憑かれたように、バッグのファスナーを開ける。

 その中には、何か黒い物があった。暗くて、よくは見えない。バスケットボールくらいの大きさだろう……何だか、妙だ。黒いものは、毛のように見える。まるでかつらだった。バッグに手をかけたときの感触から、かなりの重量だとわかる。植木鉢くらいだろうか。いったい何が、入れられているのだろう? これは――

 そして秋原の心臓は、停まった。

 悲鳴さえ出ない。彼はが何なのかを知った。

 その顔を、見間違えるはずはない。誰よりも、そう――おそらくは主人である鴻城希槻よりも大切に思っているであろう、その存在のことを。

「――――」

 秋原は長くのびきったゴムから手を離すみたいにして、短く息を吸った。

 心臓が、再び鼓動を開始する。

 牧葉清織は、見くびっていたのだ。この老人は、を見せられたくらいで、恐怖から秘密を暴露するような精神の持ち主ではない。そのような行為はただ、硬度の高い悲しみと、絶望的な憤怒を呼び覚ますだけだった。

 彼は決して、牧葉清織を許すことはないだろう。例え刺し違えてでも、この男を――

 そう思っていた彼は、甘かったのだろう。

 何故、清織が「」などと言ったのか。

 ――それはすぐ、明らかになる。

 秋原の足元にあるバッグの中で、何かが動く気配がした。蛹になった昆虫が、繭の中でかすかに身じろぎするような具合に。


「……お願い、私を、殺して」


 首だけで生きているそれは、言った。

 秋原は今度こそ、悲鳴をあげた。いや、おそらくあげただろう、と自分では思う。その前に喉が裂けてしまったのかもしれない。一瞬で耳が壊れてしまったのかもしれない。ただ、秋原は奇妙な音が耳にこだまするのを聞いただけだった。あるいはそれは、世界か老人自身のどちらかに罅が入る音だったのかもしれない。

 すべてのことを、秋原はしゃべった。もはや鴻城希槻への忠誠心など、この世界のどこにも存在しようがなかった。

 彼の願いは、今やたった一つのことでしかない――

 清織は最後に、それを叶えてやった。もうこの老人は不用だった。あるいはそれは、わずかばかりの慈悲心のようなものだったのかもしれない。

 もう絶望する必要もなくなった秋原尚典に向かって、清織は言った。

 月の光のような、優しい笑顔を浮かべながら。

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