世界の行きどまりのような病院の片隅で二人の医師が会話をしている頃、運動公園では四人の子供たちがさらに二つの問題を解き終わって、六つめの地点へと向かっていた。

 移動には、同じく〈生命時間〉のかけられた室寺の車を利用している。野球場を離れたあとも、各所に白い人形が配置されていたが、朝美の言うとおり起動条件が違うのか、どれも動きだすことはなかった。当面のところ危険や問題はなかったが、二人の安否については不明なままである。

 車内ではさすがに、ぴりぴりとした緊張感が漂っていた。焦りや不安感が、ミツバチの羽音にも似た音を立ててあたりを飛びまわっている。

 やがて車は次の目的地に到着していた。総合公園のちょうど中央付近に位置する、時計台の置かれた広場である。レンガの敷きつめられた床に、ベンチや花壇が配置された休憩スペースになっていた。

 ヒントでは、ここにある時計台の文字盤を調べろということになっている。

「――あったぞ」

 ナツが最初に、それを見つけた。時計の文字盤、三の隣にある余白に六つめの問題が書かれていた。


『佐乃世来理はアルビレオの場所にいる

              ――グース』


 書かれているのは、それだけだった。

「アルビレオ?」例によって、アキが首を傾げる。

「確か、『銀河鉄道の夜』にそんなのが出てきた気がするわね」フユは少し考えながら言った。

「てことは……星の名前?」

「ここで佐乃世さんの名前が出てるってことは、次で終わりってことか?」ナツが言う。

「たぶん、そうなんだろうと思う」ハルが慎重に発言した。

「星まで行くのは、ちょっと遠いよね。母を訪ねるのも三千里までだし」アキは星の光が溶けた空を見ながら言った。

「もちろん、アルビレオは公園のどこかにあるんでしょうね」と、フユ。

「といっても、この公園に星と関係するような場所なんてないけどな」ナツは肩をすくめた。

「たぶん、何か意味があるんだ」

 と、ハルはあたりを見渡しながら言った。もちろんそこには、星の光の影さえ存在しない。

「今になって、こんな問題を出してきたってことが……」



 ――そして、時間は少し遡る。


 その日の朝のことだった。公園内に大量の人形が運びこまれ、ニニやサクヤ、鷺谷や烏堂がそこで準備をしていた頃のこと。太陽は決まりきった儀式に向かうみたいに、ゆっくりと階段をのぼりつつあった。

 牧葉清織は住宅地の一角を歩いていた。何ということのない、ごく普通の住宅地である。造成計画に従って、不自然にまっすぐな道路が敷かれ、たまたま席が空いていたという感じで公園が作られていた。まだ朝の早い時間なので、それほど人影は見られない。時折、まだ世界になじまない音を響かせて車がひっそりと通りすぎていった。

 清織は一人で、あくまで形而下的な道を歩いていく。手に持った厚手の本と、空っぽらしいバッグに少し違和感はあったが、その様子はただ近所を散歩しているだけといったふうにも見える。

 しばらくしたところで、清織は足をとめた。一軒の住宅が、その前にはある。表札には「秋原」という文字が記されていた。

 牧葉清織はチャイムもノックもせずに、その家の扉を開けた。


 今年、中学生になったばかりの秋原ことりは目覚まし時計をとめた。実にけたたましく鳴る時計で、この音で起きれなかったことはない。ちょっと目が覚めすぎるくらいで、夢の残骸がまだベッドの上に転がっているような気がするくらいである。

 その時計をくれたのは、祖父の尚典だった。小学校三年の時である。当時としてはもっといいものをくれればいいのにと思ったが、結局はずっと使い続けている。もしかしたら、今までにもらったプレゼントの中では、一番役に立っているかもしれなかった。いかにも祖父らしい贈り物ではあった。

 彼女はパジャマ姿のまま部屋を出て、階段を降りる。父親と母親の二人は、もう食卓についている頃だろう。大抵、朝食の席に着くのは彼女が一番最後になる。

「――おはよう」

 と言いながらリビングのドアを開けて、彼女は足をとめた。

 テーブルのイスに、知らない人物が座っている。

 だいぶ、年上の人だった。といっても、父親などよりはずっと若い。高校生か、大学生くらいだろう。その辺のことは彼女にはまだよくわからなかった。

 その人物に、特に怪しいところは見られない。靴を履いているわけでもなければ、変な格好をしているわけでもなかった。何となく、親戚のおじさんが遊びにきた、という感じでもある。優しげだし、それに今まで見た中ではテレビをのぞいて一番格好がよかった。

「やあ、こんにちは――」

 と、その人物は言った。落ちついた、ピアノの鍵盤を正確に鳴らすような声である。

「あ……おはようございます」

 ことりはつい反射的に、挨拶をしてしまった。そういうところは祖父などから厳しくしつけられている。

「えと、失礼ですけど、どなたでしょうか?」

 ことりはあくまで丁重に、質問した。パジャマ姿でいることも忘れ、彼女はその場で立ちつくしていた。とりあえず、状況を確認する必要がある。

 訊かれて、男は同じように丁重な声で答えた。

「僕の名前は牧葉清織。君のおじいさんの秋原尚典さんとは知りあいなんだ」

 なるほど、祖父の知人の人か、とことりは思った。道理で見たことのない人なわけだ。

「私は秋原ことりです。よろしくお願いします」

 ことりは習慣的に、お辞儀をする。誰に対しても礼儀正しくしろ、と教えられていた。

「さすが、秋原さんのお孫さんだね」清織は感心したように微笑んだ。「物腰が柔らかいし、きちんとしている。きっとみんなから好かれるだろうね」

 誉められて、ことりは悪い気はしない。素直に喜んだ。

「……ところで、父と母はどこにいるんですか?」

 と彼女はようやく、さっきから気になっていたことを訊いた。

「二人ならすぐそこでよ」

 そう言われて、ことりはあたりを見まわす。

 なるほど、確かに母親は台所の床に倒れていたし、父親は不自然な格好でリビングのソファに横たわっていた。でもどうして、二人はそんなところで眠っているのだろう――?

 彼女は急に、ぼんやりとしてきた。ベッドの中に置いてきたはずの夢が、いつのまにか追いついてきたようでもある。現実の位置が、いつもとほんの少しずれていた。つけっぱなしのテレビから音声が聞こえてくるのに、時間は停止したみたいに静かだった。

「実は、今日は君に用があって来たんだ」

 と言いながら、清織は立ちあがった。その手には、重そうな本を抱えている。いったい何が書いてあるんだろう、とことりは思った。もしかしたら、自分の運命かもしれない。

「たいしたことじゃないんだ。でも、どうしても君の協力が必要でね」

 清織は言った。その口調は今までと変わらず、霞がかった月の光みたいに優しげだった。

「どんな用ですか?」

 ことりはつい、訊きかえしてしまう。清織の様子には、乱暴なところも強引なところもなかった。この青年の存在は、そうしたものからもっとも遠いところにあるように感じられる。

「君のおじいさんに聞きたいことがあってね」

 と、清織はかすかに微笑んで言った。

「祖父ならちゃんと頼めば、きちんと教えてくれると思いますよ」

「ところが、なかなかそうは簡単にはいかないんだ。例え本人に答えるつもりがあったとしてもね」

「その本には書いてないんですか?」

 ことりは自分でも、ちょっと妙な質問をした。

 けれど清織は気にもせずに、子供から難しい問題を尋ねられた大人がするような、そんな笑顔を浮かべている。

「残念ながら、それは書いていなくてね。この魔法では自分の知らないことや、存在しないものを作りだすことはできないんだ。それに相手の魂や、自由意志を侵すこともね」

 もちろん、彼女には清織の言っていることの意味などわからない。ただそれが、両親の不自然な状態と関わりがあるらしい、ということだけは何となく理解した。それが魔法である、ということも。

「えと、それで、私にどうして欲しいんですか?」

 彼女は訊いた。どういうわけか、恐怖は感じなかった。物語に登場する怪物たちは、どんなに残酷で恐ろしかったとしても、結局は空想の産物でしかないのと同じように。

 清織は無言のまま、そっと彼女の首筋に手をあてた。そして口づけでもするように、顔を近づける。清織の瞳があまりにきれいなので、ことりは。その瞳は何だか、夜の岸辺に忘れられていった月の光に似ている。

「君には、おじいさんを説得してもらいたくてね」

 そう言った次の瞬間――

 秋原ことりの胴体は、首から離れてどさりと床に転がっていた。血は一滴も流れていない。その切断面は、定規で引いたようにまっすぐだった。おそらく、どれだけ鋭利な刃物を使っても、その線分を再現することは不可能だろう。

 そうしてヨハネの首を持つサロメのように、清織は彼女の首を右手に掲げていた。

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