四つめの始まり

 結城季早は病院の食堂で、遅めの昼食をとっていた。並んだテーブルにほとんど人の姿はなく、ひどくがらんとしている。その様子は何となく、どこかのクジラの体内を思わせた。その暗い胃の中が終着点で、もうそこからはどこにも行けない。

 季早は日替わり定食を口にしながら、休憩中のこともあってぼんやりしている。どことなく体の組織にまとまりを欠いているような感じで、手首の部分をまわすとネジ式に取り外せそうな気もした。

 そうやって機械的に食事を続けていると、前の席に誰かが座っている。見ると、宮良坂統だった。この心臓外科医は相変わらずの無造作な身なりで、使いこまれた工作機器のような風貌をしている。

「構わんかな、ごいっしょしても?」

 と、宮良坂は底響きのする声で言った。

「ええ、もちろんです」

 季早は儀礼的にトレイを少し下げて、宮良坂のスペースを作った。

 席に座った宮良坂の盆には、いつものようにサンドイッチとジュースが乗せられている。そのジュースは、宮良坂がこの食堂で唯一まともだというものだった。サンドイッチを一口で半分ほど平らげると、宮良坂は言う。

「――ここの飯は少しも変わらんな」

「そうですね」

 味噌汁を飲みながら、季早は逆らわない。

「何よりもこの病院はまず、食堂の改善にあたるべきだと思うんだがな」

 実際に、宮良坂は院内で頑固にそれを主張していた。症例の検討会で食堂の料理について一席ぶつような人間は、ほかにはいないだろう。

「宮良坂先生はそう言いますけど、僕はそれほど不満じゃありませんよ」

 季早ごく穏やかに、控えめに反論した。

「そうかね?」

 ちょっとなじるような口調で、宮良坂は言う。手元のサンドイッチはすでに三つめにかかっていたが。

「まあ、自分で作るよりはましですから」

 と、季早は言った。妻と子供を亡くしたという前歴が、季早にはある。心臓の悪かったその妻である結城鈴音すずねの治療にあたっていたのが、心臓外科医である宮良坂でもあった。

「そいつは一理あるかもしれんな」

 宮良坂は最後の一口を放りこむと、わざと感情を削り落とした声で言った。どれだけ問題なく癒着したところで、傷跡そのものはなかなか消えるものではない。

「……それよりも、だ」

 と、宮良坂は急に話題を変えて言った。

「外科部長がかんかんになってたぞ、例の手術のこと」

「――でしょうね」

 季早は平気な顔をしている。

「いったい何をしたんだ? 術式の途中でスタッフ全員を部屋から追いだしちまうなんぞ」

 それはつい数日前に行われた、患者の開胸検査についてのことだった。その手術を小児科医が執刀するのもおかしな話だというのに、あろうことか担当医である季早は、手術の途中で看護士も麻酔科医も退室させてしまったのである。患者本人の希望であったことや、実質的には問題のなかったことで表面化はしていなかったが、どう考えても医療過誤ですむ話ですらなかった。

 季早はけれど、料理のメニューでも確認するような、ごく当たり前の声で言っている。

――と言ったら、信じますか?」

「魂を……?」

 宮良坂はさすがに、言葉の意味を咀嚼しかねたような顔をしている。

「ええ――」季早は淡々として話を続けた。「僕の魔法〈永遠密室〉では、内部のものを取りだすことはできても、中に入れることはできません。だからそうするためには、実際に切開して、縫合する必要があったんです。つまり、外科手術の必要が」

 そう言われて、宮良坂にはもちろん何のことかはわからない。この経験豊富な熟練医師に理解できたのは、それが魔法に関わる物事らしいということだけだった。

「魂をつなぐ、ね」

 宮良坂は狐にでもつままれたような顔をしている。

 それを見て、季早はかすかに笑った。かつて浮かべていた、白夜に似た印象の笑顔を――

「でも宮良坂さん、もしも誰かが〝完全世界〟をくれると言ったらどうします?」

「完全世界?」

「人が言葉を覚える以前、魔法とともにあった世界のことです。そこでは一切の不幸も、虚偽も、犠牲もありはしなかった。すべては完全だった」

「それをくれる、と?」

「ええ」

 宮良坂は複雑な症例のカルテでも眺めるような、厄介そうな顔をした。

「そいつを断わるのは、ひどく難しそうだな」

「……そうですね」

 と、季早は深海の底からすくってきたような、暗く冷たい感慨を込めて言っている。

「魔法使いでそれができるとしたら、それはということですらあるんですから」

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