第三章 闇の中へ沈むように

闇の中へ/1

 最初に見たのは真っ赤な水溜りだった。それを踏むと、僅かにぬるりとした。油とも水とも違う。本来なら交わることのないそれら二つを、奇跡的に両立した赤い水溜り。

 苛々していたのは認めよう。死んでしまえと呪ったこともある。何度も何度も殺してしまう夢を見たこともあった。

 あぁけれど。

 いざこうなると、ははは。笑っちまうな。こんなにあっさりと死んじまうもんなのか? 人間って、脆いなぁ。


「あんたは殺される側だったみたいだな?」


 もうあんたに苛々することもないし、殺す夢を見ることもない。

 あぁ、楽しいなぁ。


「ひひ。良いもん見たよ」


 さぁってと、帰りますか。

 あとは警察が何とかしてくれるだろ。帰ろう。今日は発泡酒じゃなくてちゃんとしたビールを飲むことにしよう。

 今日は記念すべきこいつの命日なのだから。



 呼吸が荒くなっていた。心臓は早鐘を打ち、今でもまだそれは落ち着かない。感覚が異常に研ぎ澄まされているのがよくわかる。


「ちっくしょうが……」


 汗を拭くと、一瞬で体が冷えてくる。

 外はまだ暑いというのに、やはり日が当たっていない所は気温が下がるのだろうなと、何となく考えた。

 そもそも、何で俺が警察に追いかけられないといけないというのだ。

 ちくしょう。ちくしょう。

 俺が何をしたっていうんだ。少しだけ、〝楽しんだ〟だけだろうが。


「くそが……!」


 固く拳を握って、彼はそれを振り下ろした。拳よりも硬くできているアスファルトは、彼に対して何も言わない。しかし、それとは別に彼に語り掛ける存在は確かにそこにいた。


「はじめ、まして」


 少女だった。体はぼんやりと光っている。

 衣服は時代錯誤な着物で、深緑色だった。そこには薄っすらと細い蔓が浮かんでいる。髪は黒くて短い。その髪は艶やかで、彼女が僅かに呼吸をする度にさらりと揺れる。


「なんだ、お前……」


 彼は荒い呼吸を更に荒くし、少女に問いかける。


「私は癒し神です。あなたの心を、癒させてください」


 少女はさらりと答えた。

 その様に異様な恐怖を……いいや、気味悪さを感じた彼は、手に持っている拳銃を少女に向けた。


「殺されたくなかったら、答えろ!」


 拳銃を向けながらも、彼の手は僅かに震えている。

 それなのに少女の瞳は……いいや、少女の心も体も、というのが正しいだろう。〝一切〟恐怖が見られない。それどころか、少女は首を傾げて言葉を発する。


「あなたの瞳は、〝殺す人〟の目とは違いますね。どうしてですか?」


 彼に問いかけるのだった。

 感情も何もない、そんな声で。

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