Action.17 【 コーヒー、一杯分の幸せ。 】

 夕凪で窓のカーテンは微動びどうだにしない。西日のあたるキッチンのテーブルで千秋はコーヒーを飲んでいた。

「今日は忙しかったなぁー」

 フーと溜息をついてテーブルに頬づえをつく。

 今日はスーパーの売り出しだった。まだ新米の千秋はレジの前に並ぶ客の多さに、目が回りそうだった。その上、商品の値引きを忘れてしまい、中年の女性客にしつこく文句を言われて辟易へきえきした。


 今年、三十二歳になる主婦千秋は、夫の和哉と子どもは五歳と三歳のやんちゃ盛りの男の子が二人いる。夫は真面目な性格だが面白味もなく、不幸というほどでもないが、満たされない、物足りない、何となくイライラしちゃう……ありふれた日常だが、こんなものだろうと納得しながら暮らしている。

 和哉の会社は製造業だが、この不況で受注が減ったせいで残業がなくなり、給料も大幅ダウンした。おまけに三年前に新築の分譲住宅を購入したため、住宅ローンの返済もあり家計が苦しい。

 千秋は五歳の長男を保育園に、三歳の次男を実家に預けてパートの仕事に出ている。スーパーのレジ係だが午前十時から午後三時までのシフトである。

 やっと慣れてきたが、仕事が終わってからスーパーで買い物を済ませて、保育園に長男を迎えに行って、実家に居る次男を連れて帰る日常である。――それを毎日々繰り返している。

 家に帰ってから、キッチンで飲む一杯のコーヒーだけが疲れた千秋を癒してくれる。

 この時間、長男はテレビのアニメに釘付け、次男はソファーで夕寝している。一日の中でわずかな時間だが主婦千秋の安らぎのひと時なのだ。


 昨夜、千秋は夫の和哉と喧嘩した。

 帰りが遅いので残業かと思ったら、パチンコをしていて九時過ぎに帰って来た。勝ったみたいで景品がいっぱい、お菓子や玩具が入っていたので子どもたちは大喜びだったが。――千秋としては面白くない。

「仕事終わったら遊んでないで、さっさっと帰ってきてよね」

「たまに気晴らしにパチンコくらいしたって構わないだろう」

「気晴らし? あたしだって働いてるのよ。もっと育児や家事も手伝ったらどうなの?」

「俺だって、出来るだけ協力してるさ」

「たまにお茶碗洗ったくらいでデカイ顔しないで、あたしのマグカップ割っちゃたくせして!」

 つい言葉を荒げてしまった。

 和哉は腹を立てたのか、黙り込んだまま、寝室に入ってそのまま寝てしまった。

 最近、自分でもイライラしているのは分かっている。育児や家事、慣れない仕事でストレスが溜まっているのだ。そんな自分に反省しながらも余裕が持てない千秋だった。


 先日、ショッピングセンターの駐車場で千秋の古い軽自動車の隣に、黄色いビートルが停まった。降りてきた女性は結婚するまで働いていた会社の同僚だった。「千秋さん?」向うから声を掛けてきた。

 懐かしさで会社の話などしていたが、その内、夏のバカンスでフィジー島へ行ったとか、老後のことを考えて分譲マンションを購入したとか、シェイプアップにスポーツジムに通っているとか、自慢話ばかり聞かされた。

 彼女とは同期で入社したが、千秋が寿退社ことぶきたいしゃした後も、彼女は独身のまま働き続けていた。

「千秋のお子さん? ふたりとも可愛いわね」

 散々自慢話を聞かせた後で、付け足しみたいにお愛想を言って彼女は去って行った。

 私だって、あのまま会社を辞めていなかったら、今頃は外車や海外旅行だって……悔しかった。洗い晒しのジーンズ姿に小さな子どもを連れて、すっかり所帯やつれした自分が惨めだった。――結婚さえしなければ、もっと自由に遊んでいられたのに……。

「ああー、嫌になっちゃう!」

 そんな言葉が口を突いて出てきた。


「ママ」

 長男の声がする。

「どうしたの? アニメ見ないの」

「ううん。ぼく、パパからママにわたしてくれっていわれた」

「なぁに?」

 後ろ手に持っていた、小さな箱を千秋に渡した。

 ひらがなを覚えたばかりの長男の字で『ままありがとう』と赤いクレヨンで書いてあった。箱を開けたら、オレンジ色のクマ柄のマグカップが入っていた。

「パパからママに……」

「うん。ママのマグカップわれたからプレゼントだよ」

 昨夜、帰りが遅いと思ったら夫はこれを買っていたのだ。喧嘩になったので渡し難くて長男に頼んだようだが、テレ屋の彼らしいと笑みが零れた。


 思いがけない夫からのプレゼントと長男の『ままありがとう』の文字に千秋は救われたような気がした。

 日々の暮らしに追われて、自由も余裕もないけれど、自分にはかけがいのない『家族』がいる。妻として母として必要とされている存在なのだから、不満ばかりを言ってネガティブになってはいけない。

 毎日、コーヒー一杯分の幸せを拾い集めながら頑張っていこう!

 スーパーで同じマグカップの色違いが売られていた、和哉の分も買ってきてお揃いにしようと千秋は思った。私たち夫婦は二人揃って一対なのだから――。


 コーヒーの最後の一口を飲み終えて、「よしっ」と呟き、千秋は立ち上がった。

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