Action.18【 無口な背中 】

「黙秘権を行使します」

 そう宣言したきり私は無言を通した。

 刑事にどんなに恫喝どうかつされても、自分に不利な証拠を見せられても一切口を開かなかった。

 私が犯した罪は殺人未遂、被害者は病院へ救急搬送されたという。


 心の耳を塞ぐ――。

 夫はとても無口なので、無言の時間には慣れていた。結婚して十年間になるが、私が話し掛けても「ああ」とか「うん」しか返事をしてくれない。

 仕事が忙しいせいなのか、いつも疲れ切っていて、家に帰っても夫婦の会話がない。子供もいないので、こんな夫との生活は寂しくて、とてもやり切れない。

 無口な背中に話し掛けるのは、まるで壁と会話するようでむなしかった。


 高校の同窓会があると便りがきたので参加した。

 当時、片思いしていた憧れの男性と再会、彼は昔とあまり変わってなかった。生活に疲れた男女の多い中で彼だけはキラキラして見えた。

 二次会の居酒屋で隣同士の席になった。と、いうか無理やり彼の隣に座った。どうしても話しがしたくて……話し掛けるタイミングを見計らって、少女のように胸がドキドキする。すると彼の方から気さくに話し掛けてきてくれた。

 高校時代の思い出や近況など話している内、彼が、妻と最近離婚して独りぼっちで寂しいと言い出した。その言葉に、結婚しているけれど家庭内離婚で私も寂しいと応えたら、「僕らは寂しい者同士だね」と私の手を熱く握った。

 三次会は酔った勢いで二人してホテルへ行ってしまった。


 無口な夫と違って、彼はよく喋るし、陽気で一緒にいると楽しい男性だった。

 私は夢中になってしまい、月に二、三度ホテルで逢うようになった。夫も家庭もどうでもよくなっていた、もう後戻りはできない。無関心な夫は、私の不倫にはぜんぜん気づいていない様子だ。

 独身の彼とだったら、私に夫とさえいなければ二人は結婚できるのに……そう思うと悲しかった。

 夫婦の会話のある幸せな結婚生活を手に入れたいと切望していた。


 その内、彼がお金の無心むしんをするようになってきた。

 離婚した妻が引き取っている子どもが事故にあったので、二十万円治療費に貸してくれと言われ、ヘソクリからそのお金を出した。

 離婚した妻から復縁してくれと迫られている。もっと手切れ金を渡さないと縁が切れないと言われ、家の貯金から百万円ほど渡した。

 二人の逢瀬おうせに使うマンションの敷金や家電品を揃えるのに、夫の定期貯金を解約して捻出した。――彼はお金の掛かる男だったが、惚れた弱みで私は断れない。

 そして、株で大損してヤミ金に借金したから、一千万円期日までに払わないと殺される。逃げれば、もう君とは逢えなくなると彼が言ってきた。幾らなんでも、そんな大金は無理だと言うと……旦那さん、生命保険に入っていないのか? と、意味深な顔で訊いた。

 生命保険は、死亡五千万円に入っているが、まさか、夫を……?

「別れたくないのなら、金が必要なんだ!」脅すように、真剣な顔で彼が言った。

 その言葉に身体がガクガク震えた、だけど絶対に別れたくない! 


 数日後、深夜に酔っぱらって夫が帰宅した。

 そのまま、リビングのソファーにだらしなく寝てしまった。寝室に運ぶのにも重いし、そんな愛情もないし、こんな無口な人は要らないと思った。いっそ死んでくれたら助かるのに――その時、夫への殺意が芽生えた。

 この人さえ消えれば、彼と結婚できる!

 夫が死ねば、その保険金で彼と第二の人生を歩める!

 お願い! だから、死んでよっ!

 発作的に、テーブルにあった大理石の灰皿を夫の頭部に振り落とした。「ギャッ」と叫び夫が振り向いて、もの凄い形相ぎょうそうで睨んだ。

 見る見る間に夫の顔は鮮血で真っ赤に染まっていく――。

 私は怖くなって、叫びながら家から飛び出し、逢瀬に使っていたマンションに潜んでいるところを警察に逮捕された。


 そして、警察の取り調べ室に座っている。

 私の黙秘に焦れたのか、二人いる刑事の若い方が、

「あんたの交際相手がペラペラ喋ったよ。自分には妻が居るのに、あの女にストーカーされて迷惑だった。事件は自分には関係ない。女が一人でやったことだと……」

 えっ、奥さんと離婚していなかったの? 独身だと騙していたのね。保険金について言い出したのは、彼のくせに酷い男だ。

 中年の刑事が話を繋いだ。

「病院で旦那さんに事情聴取したら、犯人の顔を見てないって、あんたのことをかばっていたよ。だけど、交際相手の男が供述したと言ったら、やっと本当の話をした。――けどね、妻があんな事をしたのは、元はと言えば自分が悪い。仕事が忙しく疲れて、家で喋らなくなって、妻をかまってやらなかった自分のせいです。妻を恨んでいません。どうか、罪を軽くしてください。と、嘆願たんがんしてたよ」

 夫を裏切り、酷いことした私を赦してくれるというの? まさか、あの無口な夫がそんなことを言うなんて……。

「あんな目に合わされても奥さんを『愛している』そうだ。いい人じゃないか。あんたが殺そうとした旦那さんは……」

 私を愛している? なぜ、その言葉をもっと早く言ってくれなかったの!


 無口な部屋の中で女の啜り泣く声だけが響く――。

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