Action.16 【 アンナのアリア 】

 18世紀、ウィーンはハプスブルク家が栄華を誇り『音楽の都』と呼ばれていた。当時はヴィヴァルディやバッハのバロック音楽から、交響曲の父・ハイドンを中心にウィーン古典派が開花しようとしていた。

 ヨーロッパ中から成功を夢見る、才能溢れる音楽家たちが集まっていた、ウィーンの街外れの下宿屋に、その音楽家は住んでいた。

 彼は下宿屋の娘と恋に落ちて、今度、公演するオペラの成功を強く望んでいた――。


 今年二十歳になる、アンナ・シュトーレンはオペラ劇場のバックコーラスだった。

 オペラの主役プリマドンナになるのが彼女の夢だったが、いつまで経っても芽が出ない。新しいオペラの主役オーディションがあると聞いて、ぜひ受けてみようと思った。

 これに受かったら歌手を続けていこう。もし落ちたら……自分の才能に見切りをつけて、歌手を辞めようと決心していた。

 アンナはオペラの作曲家が住む家を探し、緊張した面持おももちでノッカーを叩いた。……ややすると「お待ちになって」と声がして、若い娘がドアを開けてくれた。

 小柄でコケティッシュなタイプ、どうやらメイドではなく、この家の娘のようだった。

 アンナは用件を話し、この家に住む作曲家に面会を乞うと、娘はアンナを上から下までジロジロ見て、

「じゃあ、先生に取り次いできます」と、二階へ上がっていった。

 しばらく待たされたが「どうぞ」と声がして、アンナは階段を上がっていき部屋に通された。「ヴォルフィーまたね」アンナと入れ替わりに娘が出ていった。


 その男はピアノの前に座っていた。

 ピアノソナタを片手でポロンポロンと手慰てなぐさみに弾いているだけなのに……それが素晴らしい演奏だと分かった。作曲家は若い男で、背が低く、丸い鼻、顔には天然痘のあとと見られるアバタがあった。

 彼は人懐ひとなつっこい笑顔でアンナに話しかけた。

「やあ、君の名前は?」

「アンナ・シュトーレンです」

「パートはソプラノかい?」

「ええ、ソプラノです」

「じゃあ、君の歌声を聴かせてくれるかな?」

「はい」

「曲は何がいい?」

「バッハのマタイ受難曲『血を流せ、わが心よ』を」

「ずいぶんと高尚なアリアがお好みなんだね」

「この曲が好きなんです」

 彼は鍵盤に目を落とし、ピアノ伴奏を始めた。



ああ あなたが育てし子

あなたの乳房に養われた子


今や 養い育ててくれた親を

噛み殺そうとしている


その子は蛇になってしまったのだ


血を流せ 我が心よ!

血を流せ 我が心よ! 

          


 アンナが歌い終わると、彼は腕組みをして考えている様子だった。

「君の声はバッハのアリアにはぴったりだね。だけど僕のオペラは後宮こうきゅうの話でもっと華やかな歌声が欲しいんだ。それと……高音部になると声が少し震えるね? プリマドンナとしては欠点なんだ」

 申し訳なさそうに告げた。

「……私、ダメですか?」

「君の歌声は好きだけど、僕のオペラのプリマドンナには向いていない」

「……そうですか」

 オーディションに落ちてガッカリしたが、これで踏ん切りがついた。「ありがとうございました」にっこり笑って、アンナが部屋を出ていこうとしたら、

「君は歌声より、その笑顔の方がずっと素敵だよ!」

 あっはっはっと作曲家が陽気に笑った。つられてアンナも笑ってしまった。

 無邪気な笑顔で励ましてくれた。――その笑顔をいつまでもアンナは忘れなかった。


 その後、アンナは結婚して平凡な主婦になった。

 バイオリン奏者だった夫はコンサートマスターから、オーケストラの副楽長へと出世して、今では大きな屋敷を構え、使用人も雇う裕福な暮らしである。

 結婚生活も順調で三男二女の母親になっていた。――歌手になる夢を捨てたアンナだが、幸せな家庭を築くことができた。

 十二月のある夜、仕事から帰って来た夫が言った。

「ウィーンで有名な作曲家が亡くなったらしいよ」

「あらっ、そうなの」

 クリスマスに家族に贈る手袋に刺繍ししゅうをしながら、アンナは話を聞いていた。

「子供の頃からヨーロッパ中を演奏旅行して『』って呼ばれた人らしい」

「しんどう?」

「目隠しても完璧にピアノが弾ける。まさに神業だ」

 アンナは刺繍の針を止めて訊いた。

「そんな人が、どうして亡くなったの?」

「――毒殺されたという噂があるんだ」

「まぁー、怖い!」

「死ぬ前に謎の人物からレクイエムの作曲を依頼されて……そのせいか、誰かに命を狙われていると知人に漏らしたらしい」

「最後の仕事がレクイエム……鎮魂歌なんて、不吉ね」

「彼の才能に嫉妬した楽長のサリエリさんが犯人じゃないかと疑われているけど……。本人は否定している」

「……その殺されたってって?」

 肝心な名前をまだ聞いていない。

「確か……名前は……えっと……え―――と……」

 失念しつねんしたらしく、こめかみに指を添えて考えている。

「いったい誰なの?」


 やっと思い出した夫が、パンと手を打って答えた名前は、アンナを笑顔で励ましてくれた、あのだった――。

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