8

 すると――。


「おい、東……?」


 肩を掴まれ、我に返る。ガッツが僕の真横から顔を覗きこんでいたから。

 いたはずのかなみの姿は、後ろを振り返っても、もうどこにもなかった。


「どうしたんだよお前さ、いきなり立ち止まって同じとこばっか見つめて……やめろよな、そういうの。怖いだろーが」


 あ。ああ、ごめん。ごめんよ。と、僕はすぐに謝ってみせた。


「なんだよ、なんか、みえ、ちまったのか……?」


 恐る恐る尋ねる彼に、僕はきっぱりと告げた。別に、なにも。と。彼に真実を伝えようとは思わなかった。

 だってそうだ、言ったところでなにになるかという話じゃないか。それに、今のが本物のかなみだったとは僕は毛頭思えなかった。


 ……参ったな、なんてことだ。僕は先を行く彼に見られないように後頭部に手を回した。


 気を動転させてしまっていたのは、彼だけじゃなかったみたいだ。知らず知らずのうちに、僕もあんな幻を見るまでにこの廃校の空気に毒され、自分を見失ってしまっていたということか。情けないが、それが真実だろう。


「ほんと大丈夫かよ」


 黙る僕を心配して、前から声を投げるガッツ。ああ、僕はいい。なにも心配はいらないのだ、他に心配するとしたら今は百合子の行方と、減っていく一方のバッテリー残量だ。


 数字は正直で現実的だ、文章を読むより視覚から脳に伝わりやすい。だんだんと若い数字になっていく僕らのバッテリー残量。此処に入ってもうじき二十分が経過する。


 じれったいが、こう、床に穴が点々としているようでは走るわけにもいかない。一階の見られる教室は全て見て回ったが、校舎は四階まで続いている。それまでこの心許ないライトの光が僕たちを照らし続けてくれるか怪しいところである。


 二階に続く階段を見上げても、百合子が降りてくる気配はない。


「クソ、百合子どこいっちまったんだ……」


 焦りと不安が体の内側で荒波のように押し寄せるのに、辺りは相変わらず怖いほど静かで、物音もしない。物音も……。……そうか。そうだ――。


「は⁉︎ なに言ってんだ、正気かお前」


 ああ、正気だ。今はこれ以外、いち早く百合子を見つける方法はないと思っている。


「って……言われても、出るわけねえよ、何度やっても無駄だったんだからよ、それに俺、今残りこんだけだぜ」


 9%でも実行するには充分だ。今、此処で百合子のスマホに掛けるのは、なにも彼女に電話に出てもらおうってことが目的じゃない。


 本当の目的は――音だ。

 この静寂なら、着信音がどこかから響き渡るはず。


「っ、そういうことか!」


 僕の指示通りガッツが早急に百合子の携帯に電話を掛け、長いコールが微かに響くなかで僕たちは息を止め。その時を待った。


 二人静かに耳を澄ます。


「おい……」


 闇に紛れて消え入りそうなその音が耳に入り込んだのは意外と早かった。

 聞こえる――単調なリズムの着信音が。


「上だ――!」


 僕たちは軋む階段を駆け上がって、音のする方へ急いだ。

 確かにする、ピリピリピリピリ。高い独特の音が。近づいている。


 僕らが歩を早めるたびに、大きくなっていくのがわかる。近い。この先に――。


 階段を上り、教室を三つ追い越したところで、僕らは四つ目の扉のついていない教室の前で立ち止まった。……あった。

 目の前に、百合子のレモンイエローのスマホが。


「百合子っ‼︎」


 床に落ちていたそれを拾い上げる僕。『ガッツ』と表示された着信画面。でも……百合子は。


 至る所に散らされた壊れかけた机と椅子を押しのけ、僕らはそこで百合子を探し回る。


 掃除用ロッカー、教卓の中、破かれたカーテンの影。ライトで隅々まで照らすも、それでもみつからない。こんなところにスマホを落として、彼女は一体どこに行ってしまったのだ。


「どこだ、百合子! 百合子ッ!」


 もう時間がない、ガッツのスマホは時間切れだと言うように充電を求める画面に切り替わる。


「隣だ、隣を探すぞ」


 焦った表情で、隣の教室に走ろうとした彼を、僕はいなくなる前に腕を掴んで止めた。


 待ってくれガッツ。なあ、なにか。


「なんだよ……東、早くしねえとお前のだって!」


 違うんだ、落ち着いて。少し、耳を澄ませてくれないか。なあ、ほら……。

 聞こえないか。


 なにか。


 小さな。


 軋んだような、音が。


「なに、言って」


 ほら、聞こえる。聞こえるだろ。

 ぎし……ぎし……と。床板の音じゃない。だけどこの音は木だ。不可思議な木の呻き声が、天井から。すぐ真上の、天井から。僕らの頭の上から。


 音、しないか。


 下を向いていたライトの光を。僕はガッツの顔が上を向くのと同じ動きで。天井に掲げた。


「あ――」


 一番最初に見たのは。足――。

 暗闇から生えたような、それでもはっきりと見える。夏らしいデニムのサンダルとライトに反射したライム色のエナメル。


 それだけでも心臓が動きを止めそうになったのに、僕の腕はそのまま動き続け。ライトの光はその先を追う。

 細すぎる白い脚。

 枝のような腕。

 宙に浮いた、女の体が暗闇から現れ出た。

 ゆらゆらと、メトロノームみたいに揺れている。

 その体の肩の付け根から伸びきった首の上――。


 瞬間。

 とんでもないものが降ってきて、僕らの脳髄から足元を駆け抜けていった。

 僕らを撃った雷は、次に僕の指から携帯を落とさせ。


 ガッツの口から人間とは思えない声を出させた。


 真上に、人が……。人が揺れている……。


 首を天井から垂らしたロープで首を括って。若い女が二十代ほどの女が……。

 足場もなく、文字通り首を吊っていた。

 首をぐりんと真横に曲げて、血の抜かれたような蒼白の顔で、虚空を仰ぐ女の顔は。この世のものとは思えない、死人の顔をして。

 ゆらゆら宙ぶらりんになった女のその顔は。ぐちゃぐちゃに泣きじゃくり、苦しみもがいたような痕跡を残すその顔は。間違いなかった。


 百合子だった。

 首を吊っていたのは百合子だった。

 僕たちの真上で、百合子が首を吊っていた。

 僕たちが探していた百合子が、僕たちの、目の前で。

 揺れていた。

 あの時の。


 かなみと同じように。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

荊棘―おどろ― 天野 アタル @amano326

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ