5-2 姫君からの挑戦状

 その後、アルシャは青果屋の一室を借り、おばさんの仕事を手助けしながらこの土地で暮らし始めた。

 衣料品代を浮かそうとチェリオーネの部屋から拝借する作戦は、一週間前に失敗しているため、衣服は自分で買い揃えてもらうしかないが、事前に俺が渡した金もあるからさほど困窮することはないだろう。

 それからというもの、休日や今日みたく半休が取れたときは、こうして顔を合わせ楽器の練習をするのが専らの習慣になっていた。竪琴はもちろんのこと、宮廷からこっそりくすねてきた横笛もさっき見た限りじゃすっかり板についていたし、胡弓も来週には弾きこなせるようになるだろう。そのうち提琴ていきんでも渡してやるか。あれは俺も弾いたことがないんだが、この娘がどう料理するか物凄く興味がある。


「さて、そろそろ帰るか」


 こっくり頷くアルシャ。楽しいひとときってやつは、全くもって過ぎるのが速い。古の俚諺に曰く……ええっとなんだっけな……まあいい忘れた。

 思い出せないということは、それくらい瑣末なことに過ぎないのだ。そうに決まってる。忘れてしまったものを無理に思い出そうとするのは、むしろ自然の摂理に反するというものだ。

 俺の記憶が不確かなわけでは決してない。決して。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 普段は宮廷へ向かう途中の分かれ道でアルシャと別れるが、今日は楽器を運ぶ都合上、青果屋の前まで胡弓を担いで同行することになった。つまり、いつもの商店街を横切らなければならないということだ。あー気が重い。


「よお、アライ。まだ四の月だぜ」


 年配の知人に話しかけられたが、その心は判っている。無視だ無視。


「まあ随分とお熱いこって。もう夏かねえ」


 うるせえ。


「アライ、今日もアルシャちゃんと逢引きかい?」


 別の商人。今日じゃねえよ。


「楽器にしか興味ないと思ってたのに、あんたもやるもんだねえ」

「どうやって口説いたのか、今度教えてくれよ」


 …………。


「アルシャちゃん、今日は普通の服だね。前着てたあの変わった服、あれどこの仕立てだい?」

「そういや最近は、アライも今どきのまともな服が多いな」

「ほんとほんと。ちょっと前までは貴族みたいな服ばっか好んで着てたのに」

「彼女ができたせいで、服の趣味まで変わったのかねえ」


 あー蹴りの一つも入れてやりてえ。

 街の連中の冷やかしぶりには毎度のことながら苛立ちが募る。こっちの事情もお構いなしに平気で口出ししてきやがる。俺たちを茶化す暇があったら商売に精を出しやがれってんだ。


「アルシャ」


 足早に商店街を過ぎ、野暮な連中の追及をかわしきったところで、俺は懐から一通の封書を取り出し、ほいと手渡した。


「それ招待状だから。失くすなよ」


 お前は強制参加だからな、と常々言い聞かせていた大音楽祭の招待状である。

 本来は参加希望者自ら所定の手続きを踏むのが正式なやり方なのだが、アルシャの場合は素性が知れないせいで門前払いを喰うおそれがある。そこでその辺の面倒を避けるために、この切り札を持ってきたわけだ。

 第二秘書ドルクが手配した大賢人宛の招待状とは異なり、こっちは楽師としての参加を兼ねた特別招待状である。不正と言われればそれまでだが、ほかの参加者と条件を同じくするためのものだから、バレたところで別段お咎めはないだろう。

 アルシャは立ち止まり、驚きに眼を見開いて封書と俺を交互に見据えた。意外な反応だ。もっと喜ぶかと思ったが。


「何驚いてんだよ」


 ああそうか。この娘は俺が議長だってことを知らないんだった。

 どんなつてで入手したのか、不思議に思ってるんだろう。アルシャの前では議長であることを伏せ、天才楽師アライで押し通していたからな。

 あの夜脱いだ仮面の件は、別に言う必要もないとの判断により、俺からは何も言っていない。ちょっとした変装程度に思ってくれれば、それで充分だ。

 ところが、次なるアルシャの反応は俺の予想を大幅に超えていた。眼頭を押さえてしくしく泣きだしたのである。


「お、おい、泣くなよ……泣くなって」


 なんなんだよおい。よく判らないな、こいつの行動は。

 周りの眼が再び気になり始めたところで、後ろのほうが何やら騒々しくなってきた。肩越しに振り返る。

 けたたましいひづめの音。こっちに駆け寄ってくる馬の数は、一騎、二騎……全部で三騎。

 しかもその先頭を行く、縛った後ろ髪をなびかせたあの端麗な容姿は……。

 マリミ姫じゃないか。


「なんてこった……」


 大慌てで背を向ける。

 一瞬にして止めようのない動揺に襲われた。

 なんで姫君がここにいる? この時間のこの道、姫君は通らないはずだぞ。


「しまった……そうか」


 思い出した。今頃になって。

 ドルクが言ってたっけ。姫君は、んだった。


「どう、どう、止まれ!」


 姫君の命令が響く。俺とアルシャのすぐ後ろで。

 もう気づかれたか?

 ここで見つかるのはまずい。かなりまずい。議長として見つかるなら問題ないが、もし楽師の名をかたっていることが知れたら。

 楽器は取り上げられ、演奏もできなくなるだろう。俺は、一生楽器を弾けなくなるかもしれない。

 うわ、一生はきついな。きつすぎる。

 涙目のまま、背後に立ち塞がった騎馬をぽかんと見上げるアルシャ。しかし俺は振り向くこともできない。

 どうする? どうすればいい?

 俺は袋から胡弓と楽譜を放り出し、その袋を……。

 頭から被った。


「あら、どうなさったの」


 あくまで優しい姫君の声。

 だが視界は完全に奪われ、周囲の様子は皆目判らない。バレそうになったら、取り敢えず顔を隠す。これも鉄仮面の性だろうか。哀しい習性と言うべきか。


「後ろ姿が、わたくしの知っている方に大変よく似ているのだけど。もしもし、あなた一体何をなさっているの?」


 声も出せない。返答したらそれこそ一巻の終わりだ。

 いやいやいや、待てよ?

 俺は少し早合点をしてしまったかもしれない。

 アルシャは口が利けないから、当然俺の正体を姫君には伝えられない。反面、街の連中は喋れるが、今この場で馬上の姫君に「その男は天才楽師のアライでさあ」などと、気安く話しかけようとはしないだろう。結局、姫君の眼には楽器を手にした議長としか映らないはずだ。

 俺のこの行動は、却って姫君を怪しませただけなんじゃないか?


「そこの男、何をしておるか!」

「姫様の御前だというのに無礼であるぞ!」


 男たちの怒声が代わる代わる聞こえた。残りの二頭に乗っていたお目付役のようだ。

 既に馬から降りているらしく、袋を被った俺の腕を左右から押さえつけにかかる。しっかと握っていた袋の口も、二人がかりではひとたまりもない。呆気なく外されてしまった。

 頭部を覆っていた袋は、抵抗も虚しく完全に剥ぎ取られた。そして姫君とのご対面を余儀なくされたわけなのだが……。


「お前たち、先に戻りなさい」


 予想だにしない穏やかな口調で、姫君は言った。


「ひ、姫様?」

「いや、しかし」

「どうもこの男はですね」


 喰い下がる騎士たち。どうやらこの二人、俺が議長だということを知らないらしい。確かに俺にも見憶えのない顔と顔だ。記憶してないだけかどうかはともかく。


「いいから先に戻っておれ!」


 怒気を孕んだ叱責に、二人は不承不承馬に乗り、重い足取りで道を引き返していった。

 馬上にあってじっとこっちを見下ろしているマリミ姫。感情の読み取れない、仮面じみた形相。


「やはりあなただったのね」


 穏やかな声色。


「服装は違えど、わたくしの眼に狂いはなかったのだわ」


 だからこそ余計に恐ろしい。身の毛がよだつ思いだった。


「今日は〈遁走病〉の症状は出ないのかしらね。それとももう〈慈雨と光彩の大賢人〉に治してもらって?」


 参った。こりゃ参ったぞ。

 馬上の彼女には切り札の遁走病も通用しない。しかもこのままでは、俺がこの国の議長だということをアルシャに知られてしまうかもしれない。

 いやそれより、姫君に多重生活のことを知られるほうがよっぽど困る。


「ここで何をしているのかは、敢えて訊かないわ」


 ……え?

 訊かないのか?

 助かったのか、俺? どうしてだ?

 意外な言葉に返答もできない。だが、姫君の次なる言葉は更に意外なものだった。


「だけど、これだけは教えてちょうだい……その隣にいる方は誰?」

「……え?」


 姫君の興味は、どうも俺のほうにはないらしい。むしろ横笛を握り締めて両肩を震わせる、怯えきった年若い少女に、何かしら思うところがあるようだった。


「この娘は……まあその、知り合いです」

「あなたの知り合いなのね?」


 訊き返す姫君。


「はあ」


 嘘は吐いていない。

 アルシャは間違いなく俺の知り合いだ。これで正しい。

 好奇心旺盛な街の奴らが束になって、遠巻きにこっちを見ている。あの距離なら、としての受け答えを盗み聞きされることもないだろう。それだけがせめてもの救いだった。


「一口に知り合いと言ってもいろいろあるでしょう。どういった知り合いなのかしら」


 ? なんでそこに突っかかるんだろう。


「どういったって言われても、ごく普通の知り合いですがね」

「仲睦まじく逢瀬おうせを重ねる程度の、ということ?」

「何言ってんですか。全然違いますよ、俺とこいつは」

「こいつ?」


 姫君が軽蔑するように眼を細めた。あまりにも砕けた呼称が気に触ったか。


「失礼しました、ええと、こいつじゃなくて」

「あなた、わたくしのいない所でわたくしのことを〈こいつ〉と呼んでくれたことがあるのかしら?」


 な、何を言っているんだ?


「とんでもない。そんなふうには呼びませんよ」

「ええ、そうだわ。そう呼んではくれないでしょうね。あなたはいつも他人行儀だもの」


 ……どうも、俺の考えと姫君のそれは微妙にズレているようだ。

 ひょっとして俺は、

 自分が思っている以上に、かなり、

 しくじっているのか?


「お嬢さん、お名前を伺いたいのだけど」

「……アルシャです」


 代わりに俺が答えた。


「初めまして、アルシャ」今度は娘に向かってそう言い、姫君は続けて、「あなたが持っているそれ、横笛でしょう。もしかして大音楽祭に出るつもりなのかしら?」


 問われたアルシャの眼が俺に向けられる。どう答えればいいのか迷っているのだ。


「もちろんです。優秀な俺の、これまた優秀な教え子ですからね」

「判ったわ。アルシャ、わたくし今からあなたに挑戦致します」

「挑戦?」


 氷の刃で首筋を撫で斬られるような、

 なんだかとてもいやな、

 いやな予感がした。


「わたしくも楽師としてお祭りに参加することを、たった今決めました。どちらの横笛が優れているか、勝負致しましょう」


 出た。

 姫君のワガママ炸裂だ。なんとまあ一方的な。


「しょ、勝負って、大音楽祭は順位をつけたりするような競技と違いますよ」

「順位ならあるじゃない。一位の楽師筆頭が」

「…………」

「勝敗の基準は簡単よ。筆頭を獲ったほうが勝ち。二人とも獲れなかったら、そうね、審査員の方々にどちらが上か決めてもらいましょうか」


 審査員だと?

 大音楽祭の審査員は、全員神官団じゃないか。

 冗談じゃない。どんな手を使ってもアルシャを勝たせないつもりか。


「せっかくですが、お断りします。条件がちっとも公平じゃない」

「あなたには関係ないわ、ライア」


 アルシャが小首を傾げて俺を見た。いつもの名前と違うのが気にかかるようだ。けど今はそんな場合じゃないって。


「いいこと? もしわたくしが負けたら、ライア、あなたにつきまとうのを金輪際やめることにするわ。その代わり、わたくしが勝った暁には」


 姫君は白手袋の人差し指を娘に突き出し、


「アルシャ。あなたには、この〈春風と果実の都〉から出ていってもらいます」

「な、なんですかそりゃ」


 敗戦の罰も全然公平じゃないじゃないか。無効だ、こんな賭けは。

 だがしかし、アルシャはその提案に悠然と頷き、それから俺の顔を一点の曇りもない眸で見つめ返すのだった。

 ……大丈夫。わたし負けないから。

 あたかもそう語るかの如き、自信に満ち溢れた澄明な眼差しで。


 ……それは大音楽祭まで三の五倍に足すことのニ日、あと十七日のことだった。

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