第5章 不世出の天才楽師と少女と姫君の思わぬ顔合わせ

5-1 少女との他愛なき日常

「ああ、もうこんな時間か」

「どこぞの令嬢と逢引きか?」

「何言ってんだい」青年はその赤い毛髪を掻き分けるように手を後頭部に当て、「これから勉強に決まってるだろう。そんな暇あるもんか。君と一緒にしないでほしいな」

「なんだそりゃ」

「じゃあね、僕は行くよ」

「おう、追加情報あったらまた教えてくれ」

「うん」



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 ロッコムと別れたのち、潮の香に誘われるように颯爽と脚を進めた。

 どこまでも青い空を見上げると、空の雲が先の月より幾分高くなった気がする。名も知らぬ歴史学者が書き残し、そして勤勉な友人によってもたらされた〈島狩り〉に関する意外な推論に、稀代きたいの天才楽師つまりこの俺は改めて眼が醒める思いだった。


「アライ、なんだその袋は」


 道すがら行き会った書肆しょしの主人にいきなりそう訊かれた。


胡弓こきゅうだよ」


 正直に答えたが、主人の顔は質問する前となんら変わらぬ怪訝な表情。


「コキュウ? 弓の一種か」

「楽器だよ」

「また新しい楽器に手を出したんか」


 主人は呆れたように口をへの字に曲げ、


「働いてもいないのに、よくもまあ次から次へと楽器が買えるもんだな。安くないんだろうに」

「さあな、値段は知らん」

「借り物か? 誰だか知らんが気前のいいことだ。大事に扱うんだぞ。変な音ばっかり出してると、元の持ち主に申し訳が立たんだろう」


 なんだよ変な音ばっかりって。


「悪いが、俺ちょっと急いでんだ」

「どうせ待ち合わせだろう? アルシャちゃんと」


 なんでバレてんだ。ていうかどうして本屋の親父がアルシャのことを知ってやがる。


「この界隈じゃ皆知ってるさ。流れ雲の素人楽師に可愛い彼女ができたってな」

「彼女じゃねえよ」


 それに素人楽師という呼び名も腑に落ちない。こちとら学生の時分から楽器を使いこなしてんだ。


「こっちとしちゃあ、お前さんが大人しくしてくれてるおかげで、仕事にも身が入るってなもんだ。前みたいに所構わず楽器弾かれちゃ、商売上がったりだからな。この調子でよろしく頼むわ」


 品のない笑いを浮かべる主人に回し蹴りをくれ、そのまま西へ。


「いってぇな、コノヤロー」


 購買課に通達だ。この本屋から資料を買い入れるのは、当分の間控えさせよう。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 海岸に到着すると、平らな岩に腰掛けている頼りなげな後ろ姿が見えた。


「おーい、アルシャ!」


 大声で叫び手を振る。はっと振り向き立ち上がった少女も手を振り返す。

 アルシャ。

 それが物置で遭遇した、例の小娘の名前だった。話し言葉で伝えられない代わりに、字に書いて教えてもらったのだ。


「おっ、その服自分で買ったのか」


 頬を紅に染めて頷くアルシャ。白を基調とした春物の一続きの服が、小麦色の肌に照り輝かんばかりだ。


「やっぱりお前が選んだほうが似合ってるな。俺の感覚はどうも当てにならん」


 言われた相手はぶるんぶるんと首を振ってきたが、それでも嬉しそうにはにかんでいる。

 そのか細い手に握られているのは、何日か前に渡した銀の横笛だ。さっきまで独りで練習していたのだろう。傍らに重石を乗せた譜面が見えた。


「〈海にかかる月の玉〉? もう最後の曲に取りかかってるのか。全曲制覇だなこれで」


 照れ臭そうに頷く。恐ろしく飲み込みが早い。

 俺は石に座って肩に提げた袋を置いた。


「んじゃ、一曲吹いてみてくれよ」


 ニコッと微笑むと、アルシャは唇を歌口に当て、静かに息を吹き始めた。

 神に愛された笛吹き・ファルシパールによる横笛の定番曲、〈春と秋の大崩壊〉。

 その滑り出しから、鳥のさえずりにも似た美しい旋律が辺りを包み込んだ。さざなみを縫って揺蕩たゆたう繊細な調べは、以前聞いた同じ曲よりも一層表現力を増している。

 その上達ぶりには眼をみはるものがあった。練習熱心な点もさることながら、飲み込みの早さ……特に譜面を憶える早さはまさしく天才的だった。そんなアルシャが、今まで全く楽器に触れたことがなかったというのが一番の驚きなのだが。

 俺の破格の才能とはまた異なる、模倣の才とでもいうべきものに、この娘は目覚めたのだろう。それもこれも全部、教師たる俺のおかげなのは言うまでもない。

 最後の小節を奏し終えると、曲に合わせ上体を揺すっていたアルシャは閉じていた両瞼をゆっくり開き、全身の動きを静止した。それでも少し伏し目がちなのは、演奏を聴かれた羞恥の思いからだろうか。

 俺はウンウンと頷いて空いている石の座を平手で叩いた。ここに座れという合図だ。

 アルシャを座らせ、俺はコホンと空咳を一つ放った。


「これで横笛も習得したな。次はこいつだ」


 そして袋を広げて中身を取り出す。

 棹の長い、緩やかな方形の胴。馬の毛を張った長い弓。そして楽譜の載った帳面。

 胡弓の演奏用具一式である。


「胡弓だ。見たことあるか?」


 首を振るアルシャ。当然触ったこともないだろう。


「この弓で、胴んとこの弦を擦って音を出すんだ。ま、こんな具合にな」


 ここは教師としてお手本を見せてやるか。

 胴を股の上に乗せ、慣れた手つきで弓を滑らせる。聞こえてくる見事な音色にアルシャは思わず耳を押さえたが、こっちは構わず演奏を続けた。聞き慣れない音に最初は誰しも違和感を抱くものだ。

 即興演奏をやめて、弓と胴を手渡す。


「まず調弦のやり方からだな。この糸倉の糸巻を回して……」


 アルシャは音感も確かだから、調律も楽にできる。


「じゃあ、なんでもいいから適当に弾いてみ」


 馬毛の弓を乗せ、怖ず怖ずと柄を押し出す。思ったより澄んだ音が鳴った。


「ほお」

「…………」

「そうじゃない。違う弦を弾くときは、弓じゃなくて本体を動かすんだ」

「…………」


 五分ほど自由に弾かせていたら、早くも節らしいものを奏で始めた。

 おいおい、こいつコツを掴む時間がどんどん短くなってないか? もう音程を憶えたのか。お前の潜在能力は底なしかよ。


「これが胡弓向けの曲の譜面。ちょいと記譜が違うが、まあ見りゃ大体判るよな」


 俺が教えることはなさそうだ。帳面を開いて重石を乗せてやる。

 背を折り曲げ、譜面にじっと見入るアルシャ。


「最初の竪琴が約二週間だろ。で、今日が四の月下旬、氷の曜日だから、横笛は一週間弱か」


 俺の言葉にフンフンと頷き返す。この素直さが上達の秘訣なのかもしれないな。


「こいつは何日で習得できるかな?」


 小娘は自信なげに小首を傾げるばかりだ。


「ま、焦ることはないさ。ゆっくり着実にな……って言っても、お前のことだからあっという間に憶えちまうんだろうけど。一週間の記録を更新できるか楽しみにしてるぞ」


 確かにアルシャに演奏を教えるのは楽しかった。

 おかげで自分で弾く機会はめっきり減っちまったが、真綿が水を吸うように技能を吸収していくのを見るのは、傍目にも心地好いものだ。俺と違って、既存の音楽の殻を打ち破るような勢いや独創性はないから面白みに欠けるが、模倣から入るのも芸術の一つの在り方ではあるし、これはこれで大いに結構なことじゃないか。

 元々は俺の演奏を聴かせたいがために連れてきただけなんだが、そういったわけで今ではすっかりアルシャのための個人授業の場と化していた。無料というところが俺の底なしの寛大さを示している。この点はいくら強調しても強調し足りないくらいだ。


「よし、俺も久しぶりに吹いてみるか」


 さっきまでアルシャが使っていた笛を取り上げ、布で歌口をゴシゴシと拭う。中の唾は……抜いてあるみたいだな。それを見たアルシャがあわわと慌てふためく。

 な、なんだこいつ?

 気にも留めず、横笛を水平に持ち替えたところで、ふと小高い坂の上に動く影を認めた。

 あの赤い頭髪は、つい数刻前会ったばかりのロッコムじゃないか。

 何やら本を読みながら、海岸には眼もくれずとぼとぼ歩いている。てっきり自分の家で勉強するのかと思っていたが、どうやら違ったらしい。

 そういえば、さっき別れ際に、からだを動かしながらのほうが頭に入りやすいんだ、とか言っていたな。それを実践しているのか。有言実行の精神は称えてもいいが、眼の前の路面すら見ずに出歩くのは少々危険じゃないだろうか。全意識が手の中の本に向かっているようで、あれじゃあ引ったくりに遭ったらひとたまりもないぞ。


「おーい、ロッコム!」


 大声で呼び立てる。向こうもこちらに気づいて停止し、空いているほうの手を上げたが、


「こっち来いよ。今から二重奏聴かせてやるから」


 という俺の言葉にはっと表情を変え、挨拶もそこそこに立ち去ってしまった。


「なんだあいつ。俺たちの邪魔でもしちゃ悪いとでも思ってんのかな……なあアルシャ?」


 当たり前だが返事はない。胡弓を胸に抱えて何故か俯いたきりだ。


「全然そんなことないのにな。まあいいか」


 気を取り直して横笛を吹き始める。

 戸惑い気味に眼をしばたたかせていたアルシャも、じきに演奏に加わった。即興の腕はまだまだだが、それでも俺についてこようとする度胸は大したもんだ。末恐ろしいわ。

 坂の向こうに青年の姿はなく、後ははしゃぎ回る幼児たちや小型犬を連れた老夫婦が時たま通りかかるだけ。寄せ返す波も穏やかで、長閑のどかな海岸に絡まり響く二つの音色。

 懸命に弓を操るアルシャをぼんやりと見下ろしながら、俺は十日の三倍も前の、赤毛の友人に相談を持ちかけた際の出来事に思いを馳せていた……。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



「なんとまあ、可愛らしいお嬢さんじゃないか」


 もじもじと服の裾を掴んでいるいたいけな少女をまじまじと見やり、ロッコムは感嘆の声を上げた。


「一体どこで出逢ったんだい、アライ」

「んーと、まあそのなんだ、色々あってな」


 物置小屋で奇妙な邂逅を果たした翌日、俺は人通りのない路地裏の木陰にロッコムを呼び出し、この謎に満ちた小娘を紹介した。


「水臭いじゃないか。君も隅に置けないなぁ。初めましてお嬢さん、僕はアライの友人でロッコムと言います」


 そう言って差し出した手を娘はそっと握り返したが、すぐに手を離すと頼りなげな視線を俺のほうに向けた。不審そうにこっちを見るロッコム。


「よっぽど君に懐いているんだね」

「そんなんじゃねーよ。この娘は口が利けないんだ」

「そうなのか」喉の傷痕を見てロッコムは幾分声を沈ませたが、すぐ気を取り直して、「それで、この娘の名前は?」


 名前。そういや、まだ名前も訊いてなかったか。


「アライって、普通の人が気にかけるところに興味ないよね」

「うるせーな。お前の普通と俺の普通はズレてんだよ。音階だって国が違えば採用する音も違ってくるんだ」

「はいはい。なんだか譬えがズレてる気がしないでもないけど」

「あのなあ」


 そこで彼女は息を吹き返したように顔を上げ、四角い物や、何かものを書くような手振りをした。


「紙と……筆?」

「なるほど。紙に書いて教えようってのか」


 だが、生憎あいにく手頃なものは身近になく、代用品も見当たらない。


「地面に書けないか?」

「ここは固すぎるぞ。枝か棒切れでも落ちてりゃいいんだが」


 キョロキョロと辺りを見回す俺とロッコムを尻目に、小娘は何を思ったか俺から身を隠すように背後へ回り込んだ。程なくして、背中に何かが押し当たる感触。


「うわっ!」思わず上体をよじる。「なんだなんだ?」

「どうしたんだい?」

「ああ、そうか。字を書いてるのか。あーびっくりした」


 そうして娘は俺の背中に直接指を当て、自分の名の綴りを書き始めた。くすぐったいのを怺え、指の動きに意識を集中する。


「ア……ル……うーん最後が判らん。もう一回書いてくれ」


 ア……ル……シャ。アルシャ、か。


「お前アルシャっていうのか」


 娘は俺の背中に手を触れたまま、今まで見せたことのない明るい笑顔を浮かべた。

 そんな彼女に少し離れるよう言い、寂しげな顔をしながらも横手の坂を登っていく小さな後ろ姿を見届けてから、俺は引き合わせた目的を果たすべく、名前の判明した少女の世話をロッコムに頼んだのだが……。


「じょ、冗談じゃないよ」それまで見せたことのない怒りの表情を始終穏やかなはずの顔に宿し、赤毛の青年は声を荒げた。「君が世話してあげるべきだろう。なんだって僕がそんな」

「いや、俺じゃどうしても無理なんだ」


 議長の立場であの宮廷には絶対連れて行けないし、役人に引き渡すのも本人が承知しない。かといって、あの衛生面にも問題ある物置で生活させるのは、あまりに酷というものだ。


「僕だって無理だよ。もう外を歩きながらでも参考書を読まなきゃいけない時期なんだから。残念だけど、ほかを当たってもらうしかない」

「じゃあこうしよう。西の街区の、青果屋のおばさん。お前も知ってるだろ」

「うん。いつも忙しそうだよね、あそこのおばさん。慢性的な人手不足で」


 俺は次のように提案した。

 仕事を手伝うという条件で、アルシャを青果屋のおばさんの家に住まわせてもらう。俺の口利きだけじゃ心許ないから、おばさんに頼み込むときはロッコムも同席してほしいと。


「判ったよ」


 諦めたように諸手を挙げ、ロッコムは了承した。


「それなら僕も文句はない。でも、彼女は一体何者なんだい? どうして身寄りもないのにこんな所で」


 律儀にもここから一定の距離を置いて、高々と枝を伸ばす巨大な樹木の幹を撫でているアルシャ。そのほっそりした姿を手で示し、俺は徐に口を開いた。


「あの服装に、見憶えあるか?」


 首を左右に振るロッコム。


「ないね。襟足の処理も縁飾りも共和国のものと違う。よその国の服だと思うけど、本気で知りたいなら彼女自身に訊けばいいじゃないか」

「いや、これはあくまで推測なんだが、あの娘は……」


 俺が続きを言いかけたところで、青年の眉がぴくりと蠢いた。やっと今一つの可能性に思い至ってくれたらしい。


「……そういうことかい」

「確証はないけどな。ところでロッコム」

「なんだい?」


 娘を見るロッコムの眼が、僅かに翳りを帯びていた。


「図書館で例の本は調べたのか?」


 ロッコムは指先だけで否定の意を示して、


「何部か仕入れたらしいけど、全部貸し出し中でね」

「まあ急を要することでもないしな。案外、そこいらの本屋にでもあるかもな」

「うちの近所でかい? あったとしても僕が買えるような値段じゃないし、あそこは立ち読み厳禁だからね。それにあの店長の親父さん、ちょっぴり苦手なんだよ」

「そうか? 気さくなおっさんって感じだけど」

「結構がさつなところがあるんだ。本の取り扱い方とか、接客態度がね」

「ふーん、お前が神経質なだけじゃないか?」

「うーん、そうかもしれないけど」


 客として会話したことがないから俺にはよく判らないが、そういう見方もあるのか。


「とにかくだ、アルシャの件を頼む。お前の人当たりの良さなら、誰にお願いしても断られないだろ?」

「そんなことだろうとは思ったけどね」ロッコムはいやにさっぱりした顔で、「了解したよ。取り敢えず、青果屋さんに掛け合うのが先決かな」

「あのおばさんかあ」

「苦手かい?」

「ちょっとな」

「君が苦手かどうかはこの際関係ないよ」

「ああ、お前の観察眼は確かだ。そこにしよう」

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