第2章 音楽史上屈指の天才楽師、その日常

2-1 安息日

 数日来の娑婆しゃばの空気は最高そのもの。

 空の青を緩やかにむ日輪も、輝けるこの前途を祝福するかのようじゃないか。

 相棒の竪琴を二の腕に乗せ、日中の街なかをそぞろ歩く。何気ない日常のありがたみ。

 宮廷からは随分距離があるが、そこは首都の敷地内のことだ、多くの店舗が安息日だというのにせっせと商売にいそしんでいた。商人たちの呼び声がひっきりなしに飛び交い、軒先に置かれた惣菜や食料からは香ばしい匂いが立ち上り、服飾品や児童向けの知育玩具といった雑貨の数々が所狭しと並んでいる。

 質素だが首都の中でも一際活気ある、西の街区の名物商店街。その顔触れも相変わらずだ。


「よう、アライ。久しぶりだな」

「あらホント、アライじゃないのさ。ご無沙汰ね」


 軒先に出ていた仕立屋の夫婦が同時に話しかけてくる。無言で会釈を返す。


「お前またそこいらぶらついてやがるのか。昼日中から大層な身分だな」


 乾物屋の旦那が皮肉混じりに言ってきた。返事代わりにポロンと竪琴を掻き鳴らす。


「おいおいここで弾くのかよ、よせよせ」


 拳骨を振り上げる乾物かんぶつ屋。芸術の素晴らしさを解さない蛮人め。フンと鼻息を洩らし、更に足を進める。


「なんだ顔色悪いぞ、少し疲れてんじゃねえか?」


 と、終いには公園の黄ばんだ長椅子に寝そべっていた知り合いの親父に、様々な果実の絞り汁までお裾分けしてもらった。


「美味いな、これ」

「だろ? 今日は特別ただで飲ませてやるよ。次からは金払えよ」


 そうはいうが一度として金を払った例がないし、親父のほうもそれ以上は請求してこない。まあ今ここで支払わなくても、俺の推薦で宮廷の者が定期的に色々買いつけているから、一杯くらいの奢りなんざ親父には痛くも痒くもないだろう。さすがにそういった事実は当人には打ち明けていないが。

 そんなことをしたら、世間に俺の正体がバレちまう。

 海岸に程近い青果屋の前では、これまた顔見知りの女主人が道行く人に宣伝文句をまくし立てていた。


「いらっしゃい、今日は海ぶどうが安いよ! きれいな海で育った取れ立てだよ、さあさあ買った買った……おやまあ、アライ!」

「こんちは、おばさん。相変わらず精が出るな」

「まァね、あたしがやらにゃ誰も手伝ってくれないからねェ。あんた代わりにやってくれるかい?」

「無理無理」

「だよねェ。訊いたあたしがバカだったよ」


 なら訊くなよ。


「でもま、簡単な客寄せならやってやってもいいぜ。ほら、こいつで」


 そう言って竪琴を構える。最初の弦に指をかけようとした矢先、おばさんはギャッと一声叫んで俺に詰め寄った。


「いやいや、弾かなくていいから。頼むからよしてちょうだい」

「なんだよ。遠慮しなくていいのに」

「そうじゃないよ。客寄せどころか、あんたが演奏始めたら皆逃げちまうよ。商売になんないの」


 いやなこと言うなあ。これでも結構練習してきたんだ。指の皮が剥けたことも過去にはあったんだぞ。


「前奏ぐらい弾いてもいいだろ」

「やめとくれよ、後生だから。どうしても弾きたいんなら、海岸に出てやっとくれ」

「判った。じゃあ竪琴はやめて歌にしよう」

「だ、駄目駄目駄目。絶対駄目!」


 これも猛反対された。身の危険を感じたのか、おばさんの巨躯がブルッと震えたような。


「あんたの書いた歌詞は過激すぎるんだよ。完ッ全に公序良俗に反してんの。役人に見つかったらどやされちまうよ。せめて出来合いの詩にしとくれ」


 それは俺の流儀に反する。俺は自作の詩歌しかむ気がしない。曲のほうは別に誰のでも構わないが、詩となると話は別。既存の詩になど興味はない。


「仕方ないな……じゃあリンゴ二つくれ」

「はいはい毎度」


 一転して満面の笑みで売り場に戻っていくおばさん。代金を払い、美味そうに照り輝く二つの実を裸のまま両懐に収める。


「今日もいい服着てるね、あんた」

「え?」


 正装のあった戸棚から適当に引っ張り出した私服なんだが、そうなのか?


「そりゃ一目見りゃ判るさ。高級な布地だもの。仕立屋の二人も口を揃えて言ってるよ。アライはいつもいい服着てるって。まるで宮廷の人間みたいだよ」


 そ、そうだったのか……。


「そういやアライって名前も、なんか外国人っぽい響きだよな」


 戸口にいた青果屋の常連客が口を挟む。


「確かにね。どうも謎めいてるよ」

「お前さん、実はどこか他所の国から来た、没落貴族か何かじゃないのか?」

「な、なんだよ好き勝手言いやがって……じゃあな」


 俺は身を隠すように慌てて立ち去った。

 常連客の予想は真相からは程遠かったが、こりゃどこでボロが出てくるか知れたもんじゃない。服装にももう少し気を配ったほうがよさそうだ。



―――――――――――――――――――――――――――――――――――――



 春先の海岸は無人で、ただただ潮騒が砂浜を舐めるようにざわざわ這い回るばかり。

 膝丈ほどの平たい岩石に腰掛けると、潮気を含んだ微風が耳許を擽った。南中に達した陽光の眩しさに眼を細めつつ、ももに竪琴を乗せる。

 本来、潮風は鋼鉄の弦を錆びつかせてしまうので、海辺での演奏に鉄製の竪琴は適さない。が、どこまでも地平の見渡せそうな解放感の中、広漠たる大海を眺めて甘美な調べを奏でるのは、情趣に富んでいてそれは心地好いものなのだ。

 手慣れた所作で弦を爪弾く。ポロン、ポロンという野外特有の残響のない、乾いた琴の音色が風音に紛れて聞こえてきた。

 自然の遠大さと琴音の近さ。

 宮廷の喧騒が嘘のような、快適な空間だった。あそこじゃおちおち楽器の練習もできやしないからな。それに政治の世界は常に民衆の敵意に晒され、世評との戦いが長年にわたり繰り広げられている。

 俺の場合は更に不信任決議との戦いもある。評議会の支持率だって決して無視できない。軋轢あつれきは次々と湧いて出てくる。心労だって溜まる一方だ。

 そういった理由から、どうしても息抜きや気晴らしが必要になってくる。しかも宮廷内では楽器演奏が極めて困難。どういうわけか、楽器に触ろうとするとすぐに周りに止められちまうんだよな。ったく、なんでだよ。


「んー、いい風だ」


 個人的に、この散策には〈一般庶民の視点による民間の視察〉という意味合いも込めていたのだが、実際にはさほど機能していない。もっぱら心的緊張の緩和を目的としたものになりつつあった。早い話が憂さ晴らしだ。とはいえ、思うさま楽器が弾けるだけでもありがたいことだ。

 そう、ここでの俺は天才楽師にして吟遊詩人のアライであり――言うまでもないが、アライというのはライアの単純な並べ替えであり、そこから異国的情緒を嗅ぎ取るのは聞き手側の自由なのだけれど――それ以外の何者でもない。宮廷に溢れ返る処理待ちの書類のことなんか忘れて、貴重な休息をこんなふうにのんびり過ごすんだ。

 当然、街の人々は俺の正体など知らない。誰一人、議長の顔を見たことがないからだ。こうでもしなけりゃ、宮廷の外に出ることもないからな。

 しかもだ、俺が故意に隠している秘密は民間の側だけじゃなかった。宮廷の連中にも、楽師としての俺のことは全く報せていなかったのだ。秘書たちはもちろんのこと、かつて苦楽を共にした文部大臣のピートや、労働大臣のフィオにも。

 これは信用の問題じゃない。大切なのは〈誰にも知られていない〉ということ。とにかくそのほうが動きやすいし、誰も知らない秘密を自分だけが知っているという優越感に浸ることもできる。共有する者は皆無。俺しか知らない、俺だけのもう一つの顔。

 遥か頭上で海鳥が啼いている。

 北の凍土から、俺の演奏をわざわざ聴きにきたのか? まあいい。お代は要らないからゆっくり聴いていけよ。次の曲は変拍子の妙が効いた現代音楽の珍品〈錯乱する前世紀の醜女しこめ〉だ。

 しかし困ったことに、指は弦を弾いていても、肝腎の思考はなかなか議長としての立場を離れることができない。不信任決議との戦い、か。我ながらご苦労なこった。律儀にも自分が辞職するときのことまで考えてんだからな。職業病ってやつか。どうせなら次に創るべき曲想に悩みたいところだよ。

 三曲ほど立て続けに弾き終え、一息吐いて竪琴を下に置いたところで、岩だらけの浜辺の陰から人影が一つ現れた。


「しばらくだね、アライ」

「よお、ロッコム。元気か?」

「まあね」


 ゆっくりした足取りで赤毛の青年が近づいてくる。


「どうしたんだ、こんな所で。泳ぎにでも来たのか」

「まだ三の月じゃないか、凍え死んでしまうよ。気散きさんじの外出だよ」

「そうか、お前司法官の勉強をしてるんだっけな」


 少々気弱で優しい顔立ちをしているが、太い眉毛は確乎かっこたる信念の持ち主であることを雄弁に物語っていた。顔はおよそ似てないが、眉毛だけは兄貴そっくりだ。

 ……あれ?

 そういやロクサムの奴、今日の会議にちゃんと出席してたか? あいつ影が薄いから、いるのかいないのか判らないときがあるんだよな。まあ頭数は揃ってたし、さすがに代理の議員がいればその場で気づくだろう。間違いなく円卓の座に着いてはいたはずだ。またあの朱で塗ったような濃い口髭を丁寧に撫でながら、神妙に黙座していたに違いない。

 にしても、ロクサムの席って俺の二つ隣だろ? もう少し存在感を出してもよさそうなもんだが。

 岩の片隅に腰を下ろし、ロッコムは眼を細めて海を見つめた。眠そうにも見えるが、実際勉強疲れで眠いのだろう。


「毎日が分厚い参考書との格闘だからね。正直君が羨ましいときもあるよ」

「俺がか? まあ勉強とは無縁の生活だけどな」


 懐からリンゴを取り出し、投げ渡す。


「というより、君の泰然とした自由人ぶりがね」

「あっはは、そりゃ光栄だ」


 会話が途切れ、リンゴをかじる軽快な音が波音の合間に漂う。実際の俺は政務に縛られ、全く自由人とはかけ離れている。気ままな風来楽師に見せかけているだけで。


「司法試験はいつなんだ?」

「筆記が再来月だよ。もう残り二ヶ月を切った」

「今が正念場ってわけか」

「どこにいても試験のことで頭がパンパンなんだ。参ったよ」


 俺だって似たようなもんさ。ちょっと気を緩めると、政界や世論のことばかり思い浮かんで切りがない。だからそんなに気に病むな。


「でも、再来月には勉強ともおさらばできるんだろ? 醒めない夢はないし、やまない雨もないってわけだ」

「受かればの話さ。でなきゃ、悪夢と冷たい氷雨がまだまだ続くことになるからね」

「悲観しすぎだっつーの。お前らしいけど」


 ロッコムの父は、今から七年ほど前に反逆罪のかどで幽閉され、そこで獄死している。一説によると、拷問による溺死だったとか。

 爾来、長男ロクサムは革命軍に身を投じて武力政変に深く関与し、のちに樹立した新政府では法務ほうむ大臣として評議会の一員に名を連ねている。

 四の三倍ほども年の離れた実弟ロッコムも、そんな兄に憧れ険しい司法の道を歩もうとしていたのだった。


「司法周りは慢性的な人手不足だろ。割と簡単に受かるんじゃねーの?」

「甘いよ。数ある資格試験の中でも、司法試験は最難関の一つとされているんだ。一次の筆記試験の結果が悪ければ、その後の面接や実務試験で満点の可能性があっても、そこで足切り。たとえ採用人数に満たなくてもね」

「狭き門ってわけだ」


 リンゴの酸味と甘味を同時に味わいつつ、俺は両手で門を開く仕種をした。あ、こりゃ引き戸か。


「僕には足場のない断崖絶壁に見えるね。門というより」


 ふむふむ。まあ行く道の険しさは当人にしか判るまい。他人が口を挟むことでもないわな。


「この国にも、陪審員制度が適用されればいいんだがなあ」本音を洩らす。ロッコムなら理解してくれそうだ。「そうすりゃお前も積極的に裁判に関われるし、お前の兄貴や俺も……じゃない、議長も、ちったあ肩の荷が下りるってのに」


 ロッコムは真剣な面持ちのまま、


「確かに、民意の反映はより直接的になるだろうね。けど、そう簡単な話でもないと思うよ」

「そういうもんかね」

「僕はただ、過去の過ちを繰り返してほしくないだけさ」


 過去の過ち……。


「〈鉄と炎と炎の大帝国〉のことか」


 返事代わりに小さく頷き、ロッコムは遥かなる水平線に眼をくれていたが、やがて何かに思い当たったらしく、こっちを見て顔をほころばせた。


「アライ、良かったら僕の勉強に少し付き合ってくれないかい?」

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