1-2 姫君と第一秘書と

「〈慈雨じうと光彩の大賢人〉の話を、あなたご存知?」


 神官連中に対する愚痴を一通り言い尽くしたところで、マリミ姫は唐突に違う話題を振ってきた。


「いや、知りませんな」


 春の草花咲き誇る、美しい中庭に面した南北に延びる渡り廊下の一角。

 先刻より見知った顔が数人後ろを通りかかったが、声をかけてくる者は誰もいない。並んで腰を下ろす様は、傍から見たら愛を語らう一組の男女といったところか。

 ……背筋が怖気立った。

 俺は気取られぬよう腰を浮かし、相手の座っている箇所から少しばかり距離を置いて座り直した。

 姫君の衣装は上下共に羅紗ラシャの上質な色合い。やんわりと腰を包む絹の帯と、胸許には七色に輝く玉飾り。

 神官長のジジイご自慢の、美しい容姿をした美貌の令嬢……ではあるのだが、こちらの心境としては蜘蛛の巣に囚われた蝶のそれに近い。隙あらば逃げ出したい。

 そんな思いをよそに、彼女はこちらに首を伸ばすと鈴のような高い声で白い喉を震わせ、


「あら、本当に存じ上げないの? 異国生まれの放浪の大賢人コニシャスハール。とても有名な方よ。神官一族のうちで彼の名を知らない者はいないわ」


 神官一族。この国の神官団は、神官長以下血縁のある神官一族によってのみ構成されている。

 ジジイ曰く、自分たちは神より与えられし剣を駆使しこの地を平定した、神話上の英雄の血を引く由緒ある血統なのだそうだ。血の繋がりのない者は婚姻関係を除けば皆部外者であり、いかに信心深くとも入団はできない。

 つまり、神官団とは彼女が思っている以上に狭苦しい、閉じた社会なのだ。彼女の常識が一般に通じるかというと、それは相当怪しいと言わざるをえない。


「一般にはさほど知られていないと思いますがね」

「そうかしら。散歩先の社交場の方々も知っていたし、あなた専属の秘書二人も彼の話をしていてよ。何日か前まで、その話題で持ち切りだったと思うのだけど」

「…………」


 そういや最近街に下りてなかったから、情報収集が完全に滞っていたんだ。

 よし、今日こそ街に出てやる。出てやるぞ。世間知らずの姫君に情報戦で負けてなるものか。


「で、その大賢人がどうかしたんですか」


 平静を装い問いかける。


「今、この国に来ているのよ。十数年ぶりに」

「ほう、そうですか。そりゃまた結構なことで」

「それが本当に凄い人なのよ。ケガや病気を無償で治してくれるらしいの」

「へえ。慈善団体の医者か薬師くすしですか、その御仁は」

「違うわ。なんでも不思議な力を使うのだとか」


 不思議な力? なんだそりゃ。


「神通力みたいなものね。誰でも治すというわけじゃないけれど、一度診てもらえばどんな症状も立ち所に治療してしまうそうなの。おかげで信心の足りない人たちにも、かの〈医療と休息の神〉の再来と敬われているとか。素晴らしいことだわ、生ける奇跡がこの国に訪れたのよ。一度でいいからお会いしたいわ」

「……なるほど」


 一気に話が胡散臭くなった。

 そんな非現実的な力でケガや病気を治すだって? できるわけないだろう、そんな芸当。幻想文学の読み過ぎじゃないか?

 そいつぁ山師だ。山師。そうに決まってる。


「それが〈慈雨と光彩の大賢人〉とやらですか。憶えておきましょう」

「あなた信じてないでしょう」

「そんなことないですよ」

「嘘よ。顔に出てるし、声も信用してないときの感じだわ。ほら、前にわたくし、ご祖先様の話をしたことがあったでしょう。あのときそっくりよ、今のあなた」

「伝説の、名も無き勇者のお話ですか」

「ええそう。二十の三倍にも及ぶ邪な悪鬼を、神より授かりし降魔ごうまの剣で残らず斬り伏せた話や、悪辣あくらつ非道な〈夜と魔の国〉の魔術師が、天変地異を起こして勇者様を大いに苦しめた話とか。さすがに憶えてるでしょう?」

「はあ」


 内容まで憶えているかどうかは置いといて、俺は今、そんな感じの顔や声をしているのか。これは反省せねばな。とはいえ、いくら反省しても声音はどうしようもない気がするが。


「以後気をつけることにします」

「今はいいけど、会議中が心配だわ。ちょっとした嘘でも、周りの議員さんたちに怪しまれてそう」

「まあ、俺はただの議長ですから。判断を仰ぐだけなんで、嘘がバレても問題ないですけどね」

「嘘を会議に持ち込むのは良くないわ。神聖な場で偽りの意見を述べると、〈正義と証言の女神〉が持つ銀のハサミで舌を切り取られてしまうのよ」

「…………」


 今に始まったことじゃないが、俺はこの姫君をどぎつい甘さの砂糖菓子のように大の苦手としていた。

 嫌いというほどでもないが、なんとなく肌が合わない。性に合わない。

 俚諺りげんに言う〈小銭入れを闘神の剣の鞘に用いるような〉甚だしい不一致というやつだ。合うところがちっとも見つからない。比喩表現でなく本心から神の名を口にする輩と、どう波長を合わせろというんだ。

 人の舌を切る女神。加虐心丸出しの、とんだ変態じゃないか。


「あの、あまり議会に神の名前を持ち出してほしくないんですが」

「あ、そうだったわね。ごめんなさい。〈政教分離〉の理念に反するわね」


 姫君は素直に従い、話題をそこで終わらせた。今みたいに、俺たち評議会が掲げた〈政教分離〉を遵守してくれている点だけは評価に値する。それ以外はさっぱりだとしても。

 政教分離。護民卿率いる前政府を駆逐した際、のちに現政府の枢軸となる面々が誓い合った、我が国の根本理念の一つだ。

 武力政変後に再度擡頭たいとうした神官団は、古来からの多神教を奉じる保守的思考の集まりだが、この根本理念のお陰で今のところ政治面に介入する気配はなく、評議会に立ち入ることもない。この姫君でさえ、会議が終了するまで〈円卓の間〉の外で待っているほどだ。この点だけは認めてやってもいいだろう。口に出して称賛することは生涯ないだろうけど。

 大体がこの神官団、悪龍をほふった聖者の末裔などといういかにもな出自を盾に、宮廷内外問わず常に居丈高いたけだか、事あるごとに布施を要求するゴロツキじみた連中なのだから。まさに〈眼の上にできた悪性腫瘍しゅよう〉、迷惑なことこの上なかった。

 実際、評議会と神官団が古伝承中の神族と魔族の如き間柄であることは、衆目の一致するところだった。こちらにおわすマリミ姫だけは、どうもそのことに思い至っていないようだが。まあこの姫君が相当な変わり者であることは確かだ。それだけは神に誓ってもいい。


「そうそう、午後の舞踏会には当然参加していただけるのよね、ライア?」

「舞踏会? いつの午後ですかそれ」

「今日に決まってるじゃない」


 聞いてないぞそんな話。チェリオーネだって一言も言ってなかったはず。口は悪いがあの有能な秘書官が、午後の予定表をただの一つとて取り零すはずがない。

 とすると、俺が単に聞き流しただけか。


「〈しま〉の羊肉料理もたくさん取り揃えてあるそうよ。今からお腹を空かせておきましょうっと」


 大広間を貸し切って行われる神官団主宰の舞踏会。一度だけ参加したことがある。音楽的感覚がそれはもう古臭い上、飲み慣れない酒まで飲まされ、ものの五分で逃げたっけか。あそこにはろくな思い出がない。

 決めた。ふけよう。


「こんな所にいたんですか、議長」


 背後よりチェリオーネの声がかかる。よっしゃ、この機を逸してなるものか。姫君の世話を押しつけて退散しよう。


「おお親愛なる第一秘書、お勤めご苦労」

「なんです気持ち悪い。もう酔っ払っていらっしゃるんですか」


 耳に突き刺さる叱咤しったの声が、今や天の声に聞こえる。

 何しに来たのか問うと、


「いつまで経ってもお戻りにならないから、捜しに来たんです」

「どうしたんだ? 誰かおっんだか」

「不謹慎ですよ議長」

「ねえちょっと秘書さん、邪魔しないでくださる?」姫君がこめかみを引きらせながら、「わたくしたちは今、お互いの将来のことを真剣に語り合っているところなのですよ」


 語ってない語ってない。


「それどころじゃないんです」うちの第一秘書は神官団のご令嬢に対しても遠慮がなかった。「〈疾風と伝説の紅翼こうよく解放軍〉から、声明文が届いたんです」

「解放軍から?」

「ヌリストラァドの署名つきです。今、公安庁のほうで確認と照合を急いでいますが、どうやら今夜辺り何かしら動きを起こすようで」


 なるほど。

 


「そろそろ公安相から周辺の警護を強化せよとの通達が来るかと」

「必要ないだろ。今までだってここには手出ししてきてないんだぞ」

「油断は禁物です。なんといっても相手はずる賢い夜盗なんですから」

「でも、あそこの親玉は美形で有名らしいじゃないか」

「嘘に決まってるでしょ」姫君に一蹴された。「なんでも、ヌリストラァドは仮面か何かで素顔を隠してるそうじゃない。そんなの醜いからに決まってるわ。眼に留めた鏡が恥じて割れてしまうほどにね」


 ひどいなこの姫君。偏見に満ちている。ほかの理由に思い当たってはくれないのか。


「美形だろうとなんだろうと夜盗は夜盗、匪賊ひぞくに違いありません。薄汚い悪党ですよ」秘書の更に強烈な一言。続けて、「顔なんてどうでもいいんです。それより、今は誰も彼も対応に追われて大わらわなんですよ。こんな場所で暢気のんきに庭を眺めてるなんて、議長と姫様くらいのものです」

「何それ。失礼しちゃうわ」


 廷内がごった返しているのは、むしろ好都合だ。どさくさに紛れて退散できるからな。そのためには、まずこの場をなんとかせねば。

 俺は勢いよく立ち上がり、秘書のほうを振り返った。


「時に親愛なる第一秘書。君は〈世界三大奇病〉というのを知っているか?」

「? 知りませんけど、それが何か」

「そうか。だったらこの機会に憶えておくといい。世界三大奇病の一つに〈遁走とんそう病〉というのがあってだな」


 秘書の面持ちが即座に曇り出す。


「本当にあるんですか? そんな病気」

「ある。あるったらある。これがまたとんでもない病気なんだ。ちなみに、後の二つは知りたくないか?」

「いえ、別に」


 全然乗ってこない。前フリ殺しめ。


「そうか、じゃあ最初のやつだけ症状を説明するとしよう。この〈遁走病〉にかかると、とにかくその場から離れたくて離れたくてしょうがなくなるんだ」

「変わった病気ですね」

「ねえ、それってどんな人が罹るの?」


 円らな瞳をパチパチさせて尋ねるマリミ姫。ここは正直に答えて差し上げないとな。


「例えば、評議会の議長とかですかね……ああ!」


 過剰な演技で頭を抱え、甲高い悲鳴を上げる。相対する二人の様子は窺い知れないが、もはやそんな瑣事さじはどうでもよかった。


「〈遁走病〉だ! とうとう〈遁走病〉を罹患りかんしてしまいました。ああ立ち去りたい。ここを離れなくては。後は任せた、第一秘書。では失礼!」


 きびすを返し、一目散に駆け出す。


「ちょっと、ライア!」

「ぎ、議長!? どこ行くんですか! 逃げるおつもりですかー!?」


 逃げるつもりかだと? もちろんだとも。神官と上流階級だらけの舞踏会なぞ一切興味ないし、解放軍の声明文も読むまでもない。。踊ってほしけりゃそれが生業なりわいの踊り子にでも頼めばいいし、声明文なんて文字の読める奴が数人いれば済むことだ。俺は違うことをさせてもらう。

 今日はこのまま外出だ。部屋に戻ることもないだろう。ディーゴへの説教もお預けだ。良かったな、紅き翼のディーゴ。

 品行方正。

 清廉せいれん潔白。

 糞喰らえだそんなもん。俺は評議会議長であって、それ以上でもそれ以下でもない。会議さえつつがなく終わらせちまえば、後は誰にも拘束される筋合いはない。逃げたきゃいつでも逃げてやる。

 人気のない回廊をひた走りながらそんなことをふと考え、すぐに考えるのをやめた。準備運動もなしの全力疾走に、早くも酸欠状態が始まったようだった。

 こりゃあ……先が思いやられるなあ。

 今夜も何かと駆けずり回ることになりそうだし。

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