雪迷宮 ②

 三歳上の夫とは社内恋愛だった。

 二十年前、会社の同僚たち十人ほどのスキーツアーに参加したことが、夫との馴れ初めであり結婚の切欠だった。スキー初心者の私に彼はなにかと親切に指導してくれた。

 たぶん最初からお互いに惹かれ合っていたのかもしれない。

 スキーツアー三日目に、彼がゲレンデから少し離れた場所に冬場になると『凍る滝』があるので、一緒に見にいかないかと誘われた。もっと、二人きりで話したと思っていた私は「是非、ご一緒したいです」と二つ返事で承知した。

 みんなで夕食を終えた後、二人はこっそりホテルを抜け出して、夜のゲレンデを滑っていた。

 ――あの日と同じ格好、同じシチュエーションだった。

 まるでタイムスリップしたような……いや、実際、二人は若返っているし、あの日に戻っていることは事実なのだ。


「由布子さん、じゃあいくよ!」

 そういうと夫は勢いよく滑降していった。

憲司けんじさん! 待ってぇー!」

 私も後に続いたが、木が多いので初心者としては必死だった。

 十五分くらい滑ったら、崖の中腹に『凍る滝』が見えた。

「きれい!」

「この滝を君と一緒に見たいと思っていたんだ」

 若き日の夫はそういって、白い歯を見せて照れたように笑っていた。その滝の前で二人は自然と抱き合い、ファーストキスをしたのだ。

 そこで三十分ほど話していただろうか? そろそろホテルに帰ろうと、スキー板を担いで登り始めたら、俄かに天候が怪しくなってきた。さっきまで、静かな月夜だったのに、急に風が出てきて、激しく吹雪だしたのである。

 そんな中、一時間以上はホテルを目指して雪の中を歩いていたが、いよいよ吹雪いて視界が悪くなってきた。

「どうやら……道に迷ったみたいだ」

 夫が絶望的なことを口走った。その言葉に私は泣き出しそうになった――。

 立ち止まる訳にもいかず仕方なく、ふたりは吹雪の中を歩き続けた。ひたすら前進すると先は行き止まりで……。

 ――道が二手に分かれていた。

 右に行くか? 左に行くか?

「由布子さん、どっちの道に行こうか?」

「憲司さんにお任せします」

 私は小さな運命の選択肢を彼に任せた。結果、夫はを進んだのだ。

 そこから三十分ほど歩いていくと小さな山小屋があった。そこには薪や毛布もあって寒さをしのぐことができる。お互いに身を寄せ合い温め合って遭難せずに済んだ。

 その山小屋で私たちは一夜を明かしたのだ。

 翌朝には吹雪も止んでいたので、私たちは自力でホテルに帰り着いたが、二人の居ないことが分かってホテルでは大騒ぎになっていた。スキーツアーの主催者に勝手な行動を取ったことで大目玉を喰らって、たちまち、二人のことが同僚たちの間で噂になった。――すると、夫はまだプロポーズもしていないというのに……。みんなの前で「僕らは結婚します!」と、宣言してしまったのだ。

 彼のことは嫌いじゃなかったから、不服ではないけれど、夫の大胆さには驚いた。


 翌年の春には寿退社ことぶきたいしゃして、私は結婚して専業主婦になった。

 結婚した翌年に妊娠したが流産してしまった。二年後に、赤ちゃんが生まれたが死産だった。その後、私たち夫婦には子宝は恵まれなかったが、夫は真面目で優しいし、経済的にも恵まれていて、なに不自由ない結婚生活だったと思える――。


                     *


「由布子さん、じゃあ行くよ!」

 そういうと夫は勢いよく滑降していった。

 ――まるでデジャヴみたい。もう一度、あのシーンにしている。

「あっ! 憲司さん、待って」

 夫の後を追いかけるようにして滑降していった。

 その後、二人で『凍る滝』を見て、ファーストキスをした。――そこまでは、あの日と全く同じだったが、話し込む前に、「ねぇ、早くホテルに帰りましょう」私は夫を急かした。これから天候が崩れることを知っていたからだ。そして、やはり途中で吹雪に遭遇してしまい……左右の分れ道にきてしまった。

「由布子さん、どっちの道に行こうか?」

 夫が選択肢を訊いたので、私は前と反対の、

!」

 と答えた。


 その後、三十分ほど歩いたらゲレンデに辿り着き、ホテルの灯りが見えた。私たちは同僚たちにバレることなく、自分たちの部屋に戻ることができたのだ。

 あの時、私が左の道を選んだせいで確実に運命は変わっていった。

 楽しい恋愛時代を満喫まんきつして、一年後に二人は結婚した。私は第一子を妊娠するまで、会社で働いて出産にともない退社する。その二年後に第二子が生まれて、男の子と女の子の二児の母親になることができた。

 そして毎日、平凡だが幸せな家庭生活を送っていたのだ――。


「お父さん! 子どもたちが起きてくるから、いい加減にトイレから出てください」

 夫は毎朝、新聞を持ってトイレに長時間こもっている。いくら注意しても治らない困った癖だ。そこへ長女が起きて来て、

「パパ! 早く出てよ」

 その声に渋々夫がトイレを明け渡す。

「あなた、ハムエッグできてます。さっさと召し上がって!」

 朝は子どもたちのお弁当作りが忙しいので、私は気が立っているのだ。

「ママ! お弁当頂戴」

 洗面所から出てきた娘が、お弁当を持ってすぐに学校へ行こうする。

「あらっ、朝ご飯は?」

「宿題しないで、昨日寝ちゃったから学校に行ってからやるんだ」

「もう! あんたって子は、いつもそうなんだから……」

「んもぉー! ママったら、ウザイ!」

 私が小言をいい出す前に、娘は家を飛び出していった。今、中学二年の娘は反抗期でちょっと難しい年齢なのだ。

「あらっ? お兄ちゃんは?」

 二階に向って、私は長男の名前を大声で叫ぶ。

 朝食を食べ終わった夫が、出社する支度を始めた。最近、新しいプロジェクトを会社が立ち上げて、その責任者に夫が任命された。そのせいで会議や接待などで連日の午前様なので、夫の健康状態が心配だった。子どもたちはまだ学生だし、一家の大黒柱に倒れられたら我が家は大変なことになる。

 通勤鞄に会議に使う資料の入った茶封筒をあれこれ突っ込んでいる。「じゃあ」といって、そそくさと家を出ていった。

 まだ、起きてこない長男を部屋まで叩き起こしにいく。

 高校一年の長男は野球部の練習で疲れているようだ。食べざかりの長男にはお弁当が二つもいるのだ。

「母さん、俺のユニフォーム洗濯できてる?」

 朝からドンブリ飯を頬張りながら長男が訊いた。

「できてるわよ。スポーツバッグに入れといたから」

「サンキュウー」

 まったく、この長男のせいで我が家の洗濯物はもの凄い量になっている。

 ああ、もう、さっさと食べて出ていってくれと思いながら、朝食の片付けをしている自分がいる。――主婦の朝は、まさしく戦場なのだ。

 家族が出掛けた後、回していた洗濯機が完了していたので、今からベランダに干そうと思う。

「よーし! 洗濯物干すぞぉ―――!」

 わざと声を出して自分に気合を入れる。ベランダから眺める空は青く、何処までも晴れ渡っていた。

 その時、階下で電話の音が鳴った……。


                    *


「由布子、由布子! 聴こえるか!?」

「ママ、ママ――!」

「なんで母さんがこんな目に……」

 ここは病院の集中治療室である。

 患者は酸素呼吸器を付けられて、意識不明の状態でベッドに横たわっている。白衣を着た担当医と思われる男が無情にも家族に告げた。

「奥さんはです。このまま治療を続けられますか? それとも尊厳死を選ばれますか?」

 なんと、厳しい選択肢を家族に迫っていることだろう。

 この主婦は、駅から夫が「大事な書類を家に忘れてきた。今すぐ届けて欲しい」という電話を受けて、大急ぎで自転車で駅へ向かった。交差点の信号が黄色に点滅していたが、無理して渡ろうとして、左折してきたトラックに撥ね飛ばされて後頭部を強打して、外傷性くも膜下出血で意識不明の昏睡状態になっている。

「由布子がこんなことになったのは俺のせいなんだ。何年かかっても治療は続ける」

「ママは死んでないよ! だってママの手、こんなに温かいもん……」

 母親の手を握って、娘が泣き崩れた。その隣で息子が懸命に涙を堪えている。

「俺は妻が回復することを信じている!」

 夫は医師にそう宣言した。その父親の言葉に子どもたちも深く頷いた。

「分かりました。回復に向かって治療をいたしましょう」

 医師は患者の家族の意思を尊重した。



 わたしはかつてとても怖ろしい写真を見たことがある。

 それは新雪と思われる深い雪の上を足跡が三歩だけ残っているというものだった。

 足跡は始まりもなく、終わりもなく、忽然と宙に消えてしまっている。この足跡の主は何処へ消えた? 

 彼女の魂はくこともできず、かえることもできず――。


 ただ彷徨いながら、『雪迷宮』の出口を探し続けているのだ。



                 ― 終わり ―

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